山陰沖の歌の語り(17)

第2章、水辺の歌語り

第9節、人麻呂の死(2ー9) 

 人麻呂終焉の地とは、石見の鴨山、そこには石川が流れ、下っては海に注ぐ。鴨山五首は、水辺に漂う人麻呂の魂を歌い語っている。


   鴨山の 岩根しまける 吾をかも 知らにと妹が 待ちつつあるらむ
                            (万葉集 223)


《歌意》鴨山の岩根を枕にして、死を自覚し、伏せっている私なのに、何も知らぬ妻は、私の帰りを今か今かと待っていることであろう。

 

 この人麻呂の自傷歌に続き、その妻たる依羅娘子の歌二首が歌われる。

 

  今日今日と 我が待つ君は 石川の貝に交りて ありといはずやも

                            (万葉集 224)

 

《歌意》今日か今日かと、私が待ち焦がれているお方は、石川の河口で、貝に交わっているというではありませんか。

 

  直(ただ)の逢ひは 逢ひかつましじ 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲(しの)はむ

                            (万葉集 225)

 

《歌意》じかにお逢いすることは、もうとても無理でしょう。石川の一帯に、雲よ立ち渡りなさい。その雲を仰ぎ見ながら、あの方のことを、お偲びいたしましょう。

 

 人麻呂の妻は依羅娘子とあるから、その出自は河内国丹比郡依羅郷である。石見国に赴任していた人麻呂が死に臨んだ時、その連絡は石見国河内国という距離ゆえに、ある日数を置いて伝えられた。いや死に臨んだ折のことではなく、死亡後の連絡であった。荼毘に付され、その霊魂は雲霧と化し、その遺骨は石川に散骨されたという連絡であった。

 妻の歌二首は、鴨山の岩を枕にして、こと切れた人麻呂が、どうして石川の河口で、貝に交わることになったのか。その内容が唐突だとして、これまで大いに問題視されてきた。その結果、この224歌の原文「貝尓」というのが、山峡の意の峡(かい)であろう、あるいは山谷の意の谷(かい)であろうとする説も登場した。だが、これは人麻呂が自らの死を題材とした歌語りであった。石見の鴨山で、岩を枕にして、今や、こときれるという様を、自らが歌ったものである。つまり聴衆を前にしての語り物、歌語りである。現実には、瀕死の状況で歌など詠めるわけはないし、周囲に人が居れば、その人たちは彼の救護の処置であたふたしているであろうから、歌など話題にも上らない。一人寂しく孤独死する状況なれば、その臨死歌など伝わるわけもない。だから人麻呂臨死歌とは、まさに演劇のシナリオでしかなかった。だが、これは彼自身の壮大な虚構歌、死を以てする最後の物語であった。これで彼の歌語り人生は、もう終焉となる。

 だが物語は、さらに展開する。続編としての妻の歌二首で、荼毘に付された人麻呂物語が、さらに引き続き語られていく。そして丹比真人の歌一首、或本の歌一首が続いていく。人麻呂の歌の語りとは、聴衆を意識した歌の物語である。感動を激しく喚び起こすものであったから、その続編の語りが望まれた。鴨山五首とは、人麻呂を追慕する人々による虚構、河内国の依羅(よさみ)の人や丹比(たじひ)の人たちが、人麻呂の才能を愛し、彼を偲び、その死の情景を想定し、ここに並べ置いたものであろう。すなわち最初期の人麻呂伝承譚である。

 この河内国における人麻呂伝承譚は、水系を伝い流離する。河内国から摂津国へ、摂津から明石へ、そして瀬戸内海から日本海へと、物語はさらに伝播し展開する。その紡ぎ上げられた人麻呂物語は、水と死のイメージを大きく孕むものであった。

山陰沖の歌の語り(16)

第2章、水辺の歌語り

第8節、歌語りの作者(2ー8)

 人麻呂の愛と死の物語は、披露の先々で、人々の涙を誘った。その歌語りは、人々の興趣を掻き立てたから、さらに繰り返しての、その披露が求められた。さらに同種の物語が、人々の求めに応じ、彼の口から語り出された。

 

   秋山の したへる妹(いも) なよ竹の とをよる子らは

   いかさまに 思ひ居(を)れか たく縄の 長き命を 露こそは 

   朝(あした)に置きて 夕(ゆふべ)は 消えゆと言へ 霧こそは

   夕に立ちて 朝は 失すと言え   ‥‥‥‥      (万葉集 217)

 

《歌意》秋山のように美しく照り映える娘子(吉備の津から献上された采女)は、なよ竹のようにたおやかなあの子は、どのように思ってなのか、楮(こうぞ)の白縄のように美しく長い筈の命を、突然に断ち切ってしまった。露ならば朝に置き夕べには消えると言うが、また霧ならば夕べに立ち朝には消えると言うが、そんな露や霧でもないのに、あの子は儚(はかな)く、この世を去ってしまった。

 

 川に身投げする「吉備津采女」の歌である。吉備の津から天皇に献上された采女、それは天皇に仕えるだけの女である。だがその禁制を侵し、天皇ならぬ或る男子と、密かに愛し合ってしまったのである。どうにもならぬ身を嘆き、ついに入水に至ったという悲恋物語である。その詩情あふれる、こまやかな人麻呂の語り口は、人々の心を捉えて離さない。

 そのような素晴らしい憂愁の悲歌は「溺れ死にし出雲娘子」を悼む歌でも、また歌い語られる。物語は、吉野川への身投げ、その亡骸は荼毘に付されるという展開を見せる。だが人麻呂の趣向は、火葬の時点から遡り、その身投げのさまを歌うことで、時間軸を逆転させる。そして、やはり采女に負わされた禁忌、男との密会が露見したであろうことに、聴衆の意識を向ける。ここに悲恋物語の遡る山場を見せる。

 

   山の際(ま)ゆ 出雲の子らは 霧なれや 吉野の山の 嶺に棚引く

                             (万葉集 429)

《歌意》山合いから湧き出る雲、その雲のように美しい出雲の娘子(出雲国から献上された采女)は、あの儚(はかな)く消え去る雲霧でもあったろうか。いや、そんな筈は無いのに、今や荼毘に付され、その煙は立ち昇り、もう吉野の山の嶺に棚引く雲や霧となってしまった。

 

   八雲さす 出雲の子らが 黒髪は 吉野の川の 沖になづさふ  

                             (万葉集 430)

《歌意》盛んに湧き出る雲、その雲のように生き生きと輝いていた出雲の娘子であったのに、その雲が消え行くように、娘子は吉野の川で、自らその命を絶ってしまった。美しい黒髪は水流に揉まれ、まるで玉藻のように、沖の波間を美しく揺れ動く。

 

 

 歌の語りとは言っても、それは自らが見聞きしたもの、経験したものを、人麻呂は題材にしている。その悲しい出来事に、その辛い心情に、哀れな境遇に、深く心を動かされ、つい歌として口に出たものである。その感動を吐露し語り伝えたから、聴衆も、その歌の場で、その歌の世界に深く酔いしれたのである。

 歌語りの作者、人麻呂は、死者を悼むばかりではない。残された家族の心情にも、また心を配り、深く寄り添うのである。

 彼が羈旅の折、狭岑(さみね)の島で、その荒磯の石の中に、不幸な水死人を見た時の歌を見てみよう。彼の歌は、その故郷の家族に対しても、深く思いを寄せている。

 

  をちこちの 島は多けど 名ぐはし 狭岑の島の 荒磯面に いほりて見れば

  波の音の 繁き濱べを しきたへの 枕にして 荒床に 自伏(こやせ)る君が

  家知らば 行きても告げむ 妻知らば 来も問はましを 玉ほこの 道だに知らず

  おほほしく 待ちか恋ふらむ はしき妻らは     (万葉集 220)

 

《歌意》島は数多く、あちらこちらにあるが、中でも特に、その名が霊妙に感じられる沙弥(しゃみ)いや狭岑(さみ)の島に私は来た。その荒磯の上に仮小屋を設け、海辺を見渡すと、波の音が轟き騒ぐ浜辺に、その荒涼とした磯を枕に、その荒々しい岩床に、倒れ伏す死人がいた。狭岑の島ゆえ、私が沙弥となって、弔いをしようと思うが、その人の身元が分からない。この水死人の家が分かれば、行って報せることもできように。その妻が知ったならば、すぐ駆け付け来て、どうしてこのようになったのかと、そのいきさつを問うことであろうに。だが様子も知らず、この島に来る道も分からず、ただ帰りの遅いことを心配し、不安の余り、さぞや、おろおろしていることであろう。哀れなことだ、死者が愛しいと思うその妻の存在を考えて見れば。

 

 人麻呂は、香具山を通り掛かった折にも、また行路死人を見る。その悲惨さに、思わず涙し、悲慟(かなし)みて作れる歌一首を、歌い語る。

 

  草まくら 旅の宿りに 誰(た)が夫(つま)か 国忘れたる 家待たまくに

                           (万葉集 426)

 

《歌意》 草を枕とする、この旅先の宿りで、斃れてしまったこの人は、いったい、どのような妻の、その愛しい夫なのであろうか。この人は妻の待つ故郷へ帰るのも忘れ、こうして、ここで死んでしまった。家では妻が、この夫の帰りを、今か今かと待っていることであろうに。

 

 悲惨な死者を語ることで、聴衆の涙を誘うのではない。残された者の心情を吐露することで、その歌語りの世界に聴衆を引き込み、その聴衆こそ残された家族であると、そのような形を表現したのである。実に巧みな歌の語りであったから、当代一の人気作歌家となり、様々な宴で、その場に相応しい歌を詠むよう命じられていった。

山陰沖の歌の語り(15)

第2章、水辺の歌語り

第7節、愛する人の死

 悲恋歌の最たるものは、恋人や配偶者の死を悼む歌、挽歌であろう。人麻呂は自らの妻の死を悼む「泣血哀慟歌」を歌っている。人目を忍んで通った妻が、もみぢ葉のように散っていったと、そのような便りを受け、泣き悲しむ歌である。歌の心は、かつて二人が愛し過ごした閨の中にある。

 

    我妹子(わぎもこ)と 二人わが寝し 枕付く 妻屋のうちに
    昼はも うらさび暮らし 夜はも 息づき明かし
    嘆けども せむすべ知らに 恋ふれども 逢ふよしを無み
     ‥‥‥‥                   (万葉集 210)


《歌意》妻と二人で寝た寝室の中で、昼はうら寂しく暮らし、夜はため息をつきながら明かす。いくら嘆いても、どうしようもないし、いくら恋い慕っても、逢える見込みも、もうない。‥‥‥

 

 歌は確かに創作ではあるが、そしてその語りは確かに演劇として、聴衆の涙を誘うものではあったが、創作の動機となった現実の出来事はあったに違いない。そうでなければ創作意欲など湧くわけはないし、そもそも、心の裡を激しく吐露しようなどとは思わない。人麻呂は確かに妻を亡くしたのである。そして、その時、確かに嬰児(みどりこ)が残されたのである。 

 

   吾妹子が 形見に置ける みどり児の 乞ひ泣くごとに 取り与ふる

   物し無ければ 男じもの わきばさみ持ち ‥‥‥‥  (万葉集 210)

 

   《歌意》妻が、その形見として残していった嬰児が、乳を欲しがって泣く。だが、

  ここには、もう与える乳などあろう筈がない。私は男であるから、乳を与えること

  はできず、あやすすべも知らない。ただ子供を小脇にして、抱きかかえ、‥‥‥‥

 

 妻を亡くしてから、はや一年が過ぎる。だがいよいよ寂しさは募る一方である。去年二人で見た秋の月は、今宵は、もう一人で見る秋の月となっている。

 

  去年(こぞ)見てし 秋の月夜は 照らせども 相見し妹は いや年離(さか)る

                              (万葉集 211)

 

《歌意》去年二人で見た秋の月は、今年も同じように照り渡っているが、この月を一緒に見たあの子は、ますます時を隔てて離れ去っていく。

 

 妻は死に、その思い出も、ますます遠ざかっていく。一人きりになってしまったという不安感、冷え冷えとした寂寥感、埋めようもない心の空虚感だけが残っている。そのような歌の語りである。当時の聴衆は、これをどのように聞いたのであろうか。

 

 

 

 

 

山陰沖の歌の語り(13)

第2章、水辺の歌語り

第5節、労働歌から恋愛歌へ(2ー5) 

 人麻呂は、その歌才をもって労働歌を歌い語った。働く中で、さらに次々と、愛の歌、恋の歌を歌い語った。

 

    長谷(はつせ)の 斎槻(ゆづき)が下に 我が隠せる妻
    茜(あかね)さし 照れる月夜に 人見てむかも    (万葉集 2353)


《歌意》初瀬の弓月が嶽の下に 私が人目に付かぬよう隠している妻が居る。

茜色に照らす月の夜であるから、その美しい妻を、ふと人が見てしまうのではないか。

 

    ますらをの 思い乱れて 隠せる其の妻
    天地(あめつち)に 通り照るとも 顕れめやも    (万葉集 2354)
 

《歌意》堂々たる男子が、千々に思い乱れ、つい大切に隠すことになった妻がいる。

月の光が天地を貫き通し、周囲を照り輝やかせようとも、その妻の存在が露見することなど、あろう筈がない。

 

 前者(2353)の歌も後者(2354)の歌も、ともに前半のフレーズと後半のフレーズは、もはや別人が歌う歌ではない。これは自問自答の歌、自己対話の歌である。自らの心の裡で、己に対し歌い掛ける(語り掛ける)歌である。それが二重構造の前後一対となって「隠し妻」の物語を紡ぎ出す。歌としての手法に一段の進歩がある。

 歌の語りによる物語、聴衆を意識した歌の物語である。月見の宴で披露されたものでもあろうか。その物語歌の世界に、聴衆は楽しく深く、酔いしれたに違いない。

 

 

山陰沖の歌の語り(12)

第2章、水辺の歌語り

第4節、唱和歌から旋頭歌へ(2ー4)

 歌垣で歌われた掛け合いの歌、それは問答歌であり唱和歌である。人麻呂は、歌垣の宴で歌われた唱和歌の伝統を承け、 引き継ぐ形で旋頭歌を歌う。

 

    住吉(すみのえ)の 小田(おだ)を刈らす子 奴(やっこ)かもなき

    奴(やっこ)あれど 妹(いも)がみために 私田(わたくしだ)刈る

                           (万葉集 1275) 

 

《歌意》住吉の小田を刈っているお若い方、あなたに替わって立ち働く奴さん(下男)はいないのね。

いやいや奴(下男)はいるけど、可愛い娘子のため、その家の私田を刈っているのさ。

 

 

 これは掛け合いの歌で、まずは身近な労働歌に、その歌材を採っている。対話する男女の掛け合いで、女歌に男歌が呼応するという形式である。人麻呂若年の頃の作で、まだ習作を試みるという段階にあった頃の作である。この時期、彼は様々な民謡歌、歌垣歌を、自らの内に取り込んでいた。

 さらに人麻呂が歌っていったのは、その唱和歌の形式(詩形)を残す一人歌である。歌い掛けては、それに自らが応えるという形式で、自問自答、自己対話、自らへの質疑応答の歌である。

 

    春日すら 田に立ち疲れ 君は悲しも

    若草の 妻なき君し 田に立ち疲る      (万葉集 1285)

 

《歌意》村人がみんなで春山に出かけて遊ぶという、この春の日でさえ、あなたは田に立って働き、疲れ果ててしまうなんて、おかわいそうに。

若草のような可愛いお相手が、あなたにはいないのね。だから田に立って働き、疲れ果ててしまうのね。おかわいそうに。 

  

 歌材は同じく、身近な労働歌である。その労働を休む春の歌垣の日、その祝祭の折に歌われた歌であろう。歌垣の場に呼び入れようと、歌による誘い込み、歌による呼び掛けである。その歌の語りの中に、声の掛け合いがあり、誘いの畳み掛けがある。

 

       新室の 壁草苅りに いまし給はね
    草のごと 寄り合うをとめは 君がまにまに   (万葉集 2351) 

 

《歌意》今新しく建てている家の、壁草を刈りにいらっしゃいませ。

その草がなびくように、相寄る娘子は、あなたの思し召しのままですわ。

 

    新室を 踏み鎮め子し 手玉鳴らすも

    玉のごと 照らせる君を 内にと申せ      (万葉集 2352)

 

《歌意》新しく建てている家で、踏み鎮めの舞を舞う娘子よ、その家を平(な)らす     よう、その舞の手で手玉を鳴らしなさい。そのような舞の仕草の中でも、玉のように照り輝くお方(婿殿)が、いらっしゃれば、さあ、どうぞ内に入って下さいと、そのように、さっそく申し上げよ。

 

 これら二つの歌は、新室祝(にいむろほぎ)の歌で、家屋繁栄の歌、新婚初夜の歌である。前者(2351)の歌は、草の刈り取り、草と土の混ぜ合わせによる壁の塗り固め、そして草による屋根葺きという労働歌を踏まえる。その用いた草は、靡き馴染み、やがて相応しい家屋として、家と一体となって出来上がっていく。そのように家刀自となる私は、貴男に靡き馴染みます。どうぞ、あなたのお心のままに、というものである。後者(2352)の歌は、家の建つ土地霊と、その家の家屋霊(屋敷霊)を鎮め、無事息災、夫婦円満、照り輝く生活を願うという歌である。そのような願わしい家の中に、新婦となる私の中に、どうぞ入って下さい、良い家庭が出来ますよと、新郎に申し上げよと、新婦に言い聞かせるものである。

 男女の豊かな情味を歌い上げつつ、家運長久、子孫繁栄へと繋げていく。素晴らしい予祝の旋頭歌が、ここに一対となって、人麻呂によって歌われている。新室祝として、その宴席を飾る歌語り、宴席の参列者の喜悦を誘う歌語りである。試行錯誤を繰り返し、様々な歌語りの手法を模索していった若き日の人麻呂の姿を、ここに見ることができる。

 

山陰沖の歌の語り(14)

第2章、水辺の歌語り

第6節、恋愛歌から悲恋歌へ(2ー6)

 人麻呂は恋する人との別離の歌も歌う。石見国の官人となり、この国に赴任した彼は、美しい娘子と出会い、恋に落ちた。だが官に仕える身である。任を終え、いざ帰京となれば、こよなく愛した石見娘子とも、もう別れねばならない。そこに私情をはさむ余地はなかった。だが別れたくは無い。なおも残す未練、その引き裂かれる辛い思いに、思わず歌が口に出る。

 

       つのさはふ 石見(いはみ)の海の 言(こと)さへく  唐の崎なる  

    海石(いくり)にぞ  深海松(ふかみる)生ふる 荒磯(ありそ)にぞ
      玉藻は生ふる 玉藻なす 靡(なび)き寝し子を 深海松(ふかみる)の
      深めて思へど さ寝し夜は 幾時(いくだ)もあらず 延(は)ふ蔦の
      別れし来れば 肝(きも)向ふ 心を痛み 思いつつ    ‥‥‥‥                            

                             (万葉集 135)


《歌意》石見の海の唐崎、その海中の岩礁には深海松(松のような海藻)が生えている。その荒々しい磯には玉藻が生えている。その玉藻のように揺れ靡き、私に寄り添い寝ることとなった愛しい人を、その深海松のように深く深く、私はいとおしく思っている。それだのに、共寝した夜はいくらもないと思うばかりに、なおも未練を残している。その激しい愛の思いを、這う蔦が絡みつくのを一つ一つ外すようにして、ようやくのことで別れてきた。だが私の心は、この別離の苦痛に耐えられず、ますます悲しく辛い思いでいっぱいである。

 

  人麻呂が愛した人は、揺れる玉藻の如く、彼に靡き、常に寄り添っていた。共寝する彼女は、まるで水の精のように美しかった。人麻呂は石見国府の官人として、日々、この石見の海を見て過ごしていた。石見娘子との別離とは、この石見の海との別離でもある。それは、やはり揺れる玉藻、乱れる沖つ藻の、美しい海なのであった。

 

    石見(いはみ)の海 津の浦をなみ 浦なしと 人こそ見らめ

    潟(かた)なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも

    よしゑやし 潟はなくとも 鯨魚(いさな)取り 海辺を指して

    和田津(にぎたづ)の 荒磯(ありそ)の上に か青く生(お)ふる

    玉藻(たまも)沖つ藻 明け来れば 波こそ来(き)寄れ

    夕されば 風こそ来(き)寄れ 波の共(むた) か寄りかく寄り

    玉藻なす 靡(なび)き我が寝(ね)し 敷栲(しきたへ)の

    妹(いも)が手本(たもと)を 露霜(つゆしも)の

    置きてし来(く)れば ‥‥‥‥        (万葉集 138)

 

《歌意》石見の海は、大船を停泊させる程の浦が無いので、良い浦は無いと人は思うかもしれない。良い潟が無いと人は思うかもしれない。だが、たとえ良い浦が無く、良い潟が無くても、巨大な魚の取れるほどの大海原を越え、この海辺、豊穣の田の広がる津を目指せば、沖合にある荒磯の辺りで、海中に青々と生い茂る美しい玉藻、美しい沖つ藻が見えてくる。その藻は、朝が明けたならば波に打ち寄せられ岸辺に寄って来るであろう、夕べが来れば、風によって吹き寄せられ、立つ波によって、あちらこちらに揺れ動くことであろう。その寄せる風波のままに、寄り伏し寄り伏しする美しい藻のように、私に寄り添い、共寝した愛しい娘子、その手枕を交わした愛しい子の手を、冷え冷えと露霜が降りるように、寂しく石見に置き去りにして来てしまった。

 

 恋人との別離、思いを残しての別離である。恋歌ではあるが、恋の喜びを歌う歌ではない。悲しい別れの歌で、悲歌(エレジー)の一種、悲恋歌である。単なる恋歌よりも、さらに心に深く染みいるもので、それゆえに、いっそう、聴衆の涙を誘った。

 

 

 

 

 

 

山陰沖の歌の語り(11)

第2章、水辺の歌語り

第3節、海の若子の物語(2ー3)

 海原を流れ来る娘子の物語に対し、海原を越え行く若者の冒険物語も、また歌に語られる。『古事記』には、火遠理(ホヲリ)またの名を穂々手見(ホホデミ)という若者の、海神宮への訪問譚が載る。勇気ある冒険によって、力と富貴と美女を得るという話である。この話は、さらに海神の娘(豊玉姫)との結婚譚、そしてウガヤフキアエズ神武天皇の父)の生誕という展開になる。歌語りであり、ここに掛け合い歌が展開する。まずは女歌(豊玉姫の歌)が歌われ、続いて男歌(穂々出見の歌)が歌われる。

 

  赤玉は 緒さへ光れど 白玉の 君が装(よそひ)し 貴くありけれ

 

《歌意》赤い玉は、それを貫いた緒までも光るほどに美しいものです。ですが、それにも増して美しいのが白玉で、その白玉のような気高く立派な貴方様のお姿を、貴く恋しく私は思います。

 

  沖つ鳥 鴨着く島に 我が率寝(ゐね)し 妹(いも)は忘れじ 世のことごとに

 

《歌意》沖の鳥である鴨が寄り着くような島で、私が共寝した愛しい人よ。あなたのことを、私はいつまでも忘れない。私が生きている限り。

 

 豊玉姫による玉の霊力(珊瑚の赤玉と真珠の白玉)とは、海の富貴を意味する。それに対する穂々手見とは、豊かな稲作の象徴で、陸の富貴である。この海陸の富貴の聖婚によって、国土は繁栄するという話である。そして、この掛け合いの歌は、古い昔、海浜で行われていた歌垣の歌で、そこに参加する人々の、神事たる聖婚の歌であった。

 

 海の富貴を求める聖婚の旅は、また浦島物語でも展開する。『丹後国風土記逸文』には、与謝郡日置里の人、筒川の嶋子による異界神婚譚が載る。嶋子が仙界(海中の蓬莱山)から帰郷すると、すでに三百年が経過していた。知る人は誰も居らず、寂しさのあまり、亀姫から手渡されていた玉櫛笥(たまくしげ)を、嶋子はつい開けてしまう。その結果、亀姫に再会は、もう叶わなくなってしまった。絶望する嶋子の声、その声に重なるよう、いずこからか和するよう、響き合う亀姫の声があった。その掛け合いの歌である。

 

  常世べに 雲立ち渡る 水の江の 浦島の子が 言(こと)持ち渡る

 

《歌意》遙か常世の彼方に(大海原の彼方に)雲が立ち、棚引いている。この私、水の江の浦島の子の言葉に呼応し、その雲は沸き立ち、棚引いている。

 

  大和べに 風吹き上げて 雲離れ 退(そ)き居りともよ 吾(わ)を忘らすな

 

《歌意》大和の方に風が吹き上げ、雲が離れていくように、私と、もう遠く離れてし 

まいましたが、どうぞ私を忘れないでください。

 

 これは丹後国における歌ではない。摂津の住吉、その水江の浦島児の歌にふさわしい。摂津なればこそ、大和への風に乗り、大和川を遡ることができた。だから『万葉集』に載る浦島譚の影響を、これは受けている。『丹後国風土記逸文』は、鎌倉末期成立の『釈日本紀』に残るがゆえ、この歌は明らかに後年の作である。住吉の浦島児という話が、もうすでに普及していたからであろう。では『万葉集』の浦島譚において、玉櫛笥を開けてからの歌語り部分を見てみよう。

 

   玉櫛笥少し開くに 白雲の箱より出でて 常世辺に棚引きぬれば

   立ち走り叫び袖振り 臥(こ)いまろび脚ずりしつつ たちまちに

   心消失(けう)せぬ 若くありし肌も皺みぬ 黒くありし髪も白けぬ

   ゆなゆなは息さへ絶えて 後つひに命死にける 水江の浦の島子が

   家ところ見ゆ                  (万葉集 1740)

 

《歌意》玉櫛笥を少しばかり開くと、白雲が箱の中から、むくむくと出て来て、常世の国の方へ棚引いていった。びっくりして立ち上がり、走り回り、叫びつつ袖を振り、転げ回っては地団駄を踏んだ。そして急に意識を無くしてしまった。若々しかった肌も皺だらけとなり、黒かった髪も真っ白になってしまった。そしてそのあと、息も絶え絶えとなり、あげくの果て死んでしまったという。その水江の浦の島子の家のあった跡が、そこに見えるのである。

 

 高橋虫麻呂による歌語りである。幻想の世界へと聴衆を誘うもの、その語りの場、宴席とは、まさに拍手喝采を求める古代の演芸場であった。虫麻呂の語りは、話の展開を劇的に語るもの、もうすでに洗練されている。だが『丹後国風土記逸文』に載る歌の方は、男女の掛け合い歌である。歌垣で歌われていた唱和歌の伝統を、これは引き継ぐもの、なお古層の面影を残す。