山陰沖の歌の語り(60)

第7章、歌の分化

 第6節、市庭の芸能

 寺社の庭では、諸芸能が披露され、神仏に捧げられるための諸物産が運び込まれていた。そこは物品交換の場である。歌舞音曲の中で、沸き立つ思いに購買意欲はそそられる。斎(いつき)の庭場は、市の庭場へ、市の聖(ひじり)は市の商人へと、その昔、混合融合していた。

        念仏踊り
    我が親が 我が親が 仏に成るとは 夢にも知らず
    南無阿弥陀仏 弥陀 南無阿弥陀仏 念仏踊りを 踊ろよ

    我が親が 我が親が 故郷この世に 在ると言わば 墨の衣に 墨の差し傘
    南無阿弥陀仏 弥陀 南無阿弥陀仏 念仏踊りを 踊ろよ

    天竺の 天の河原の 星の数 読んでも書いても 心尽きせぬ
    南無阿弥陀仏 弥陀 南無阿弥陀仏 念仏踊りを 踊ろよ
                         (鹿持雅澄 巷謡編)

 市の庭場で活躍する聖の商人たちは、様々な幻想を市の大衆に振りまいていた。その諸芸能の披露、諸変化の提示の巧みさは、彼らが熊野修験や高野聖、白山や大山の山伏、また興福寺東大寺の大衆、伊勢・日吉・大山崎の神人(じにん)、賀茂の供祭人(ぐさいにん)など、神仏と深く関わる出自であったからである。
 隠岐島前、浦郷の日吉神社についても同様である。その昔、ここは山王権現といわれ、近江国日吉山王社から勧請された分社であった。隠岐国に遷し祀られたのは、海を渡り来た日吉神人たちの活躍による。彼らによる中世期の通運、日本海を介する物資交流の所以であった。 

山陰沖の歌の語り(59)

第7章、歌の分化

 第5節、庭の舞

 庭の舞は、神の社、その斎場で舞われていたもので、この島では港湾の市、港の市庭で舞われていた。その歌詞の断片から判断すれば、これはもともと東遊の駿河舞であった。

     今朝の節句(せく)のもの
       七絃(ななつ)もの 八絃(やつ)もの 琴の調べるが如し
     よくよく聴聞(ちょうもん)ととのへて うたうもの 知るべし
       駿河(つるが)なる有度浜(うどはま)に出て 遊ぶは千鳥
            あんぱーれーいらーれ
       小松ヶ梢(こうまつがうえ)に遊ぶは千鳥
            あんぱーれーいらーれ
       万代(よろずよ)までも遊び栄えむ
            あんぱーれーいらーれ     (日吉神社 庭の舞)

 

 東遊、本来それは東国の遊び歌である。鎌倉に幕府ができて以後、東国と京を結ぶ交流の中で、それは発生した。駿河国の如き街道の国々を伝い、勧進巫女、白拍子、曲舞女たちの活動と共に、また流通業者たちによって。畿内へと伝搬した。

        浜に出でて 遊ぶ千鳥なり
          あやしなき 小松が上に 網な置かれそ
                   (建久三年 皇太神宮年中行事)

        え 我が夫子(せこ)が 今朝の言出(ことで)は
          七絃(ななつお)の八絃(やつお)の琴を
              調べたる如(ごと)や如(ごと)や
          なをかけ山の かづの木(け)や  をををを
                   (東遊 二歌)

        や 有度浜に 駿河なる 有度浜に
           打ち寄する波は 七草の妹(いも)
            ことこそ良し ことこそ良し
          逢へる時 いざさは寝なむや
           七草の妹 ことこそ良し      (駿河歌)

        あやもなき 小松ヶ梢(うれ)に
          網な張りそや 網な張りそ      (駿河歌)

 東遊の駿河舞は、近江国、琵琶湖水系を辿り日本海へ、そして隠岐へと渡ってきた。その美しく煌びやかな駿河舞の、本来の有様は、例えば次の如きものであったろう。

        少女(おとめ)は衣を著(ちゃく)しつつ
          霓裳(げいしょう)羽衣(うい)の曲をなし
        天の羽衣 風に和し 雨に潤う 花の袖
          一曲を奏で 舞うとかや
        東遊の駿河舞 東遊の駿河
          この時や 始めなるらん      (謡曲 羽衣)

   

山陰沖の歌の語り(58)

第7章、歌の分化

 第4節、五本の祭

 隠岐島前、浦郷の日吉神社にも十方拝礼(しゅうはいら)の祭儀は残る。この日吉神社には、中世期の芸能、古様の神事「五本の祭」が遺されている。「五本の祭」とは五つの祭礼で、十方拝礼とは、そのうちの一つである。

   五本の祭

    一、真言(神扉を開き大般若経の転読)
    二、神楽(蓮華舞、獅子舞、神楽舞)
    三、庭の舞(庭で舞われる古様の舞)
    四、神の相撲(子供二人で捧げる相撲所作)
    五、十方拝礼(田楽の舞踊)

 このうち真言と神楽は、いつしか中止され、もう祭儀としては廃絶している。だが他の三つの祭儀(庭の舞、神の相撲、十方拝礼)は、今なお引き続き執り行われている。五本の祭には、これを讃える歌も残る。

 

   此の宮の 五本の祭 する人は
     壽(いのち)も長く 千代の世までも
             さんよ さんよ

 

 「さんよ さんよ」とは「賛与 賛与」なのか「参与 参与」なのか、不明ではあるが、この祭礼に参加せよ、共に祝おうという、囃子言葉であるに違いない。

山陰沖の歌の語り(57)

第7章、歌の分化

 第3節、田楽の舞

 隠岐島前の美田八幡宮には、古式の田楽舞「十方拝礼(しゅうはいら)」が残されている。十方拝礼とは、四方拝の庶民化、一般化の名称で、衆の結縁を結ぶ拝礼である。天地・四方・陸海・陰陽の仏神に、深く祈りを捧げ、五穀豊穣を祈る古神事の祭礼である。やはり感謝祭なのである。

       十方拝礼

   楽しゅや 十方拝礼 さあ 十方拝礼
   楽しゅや 十方拝礼 いや 十方拝礼
   ろー ろー ろー ろー

 「ろーろーろーろー」とは笛による囃子、その口まねである。ここでは田楽法師が中門口(ちゅうもんぐち)として、また山伏修験が鳥装の四天師(すってんで)として、色鮮やかな衣装扮装で登場する。それぞれ脇侍を従え、鼓・編木(びんざさら)・摺簓(すりささら)・瞽(とう)拍子・笛・囃手(はやして)に合わせて踊る。最後に群舞(総踊り)があり、興奮の中で神事は終わる。よく古式の面影を残している。寺社の境内では、その祭礼の折には、漂泊の宗教者たちは、その経済的余録を分け持とうと、賑やかに、煌びやかに、祭礼をいやが上にも盛り上げていた。

        山伏踊り

  山伏が 頭巾 篠懸 袈裟衣
       山伏踊りを 一踊ろ
  山伏が 腰に下げたる 法螺の貝 いくらが峰を 渡る山伏
       山伏踊りを 一踊ろ
  山伏が 峰入る姿も はたと忘れ
       山伏踊りを 一踊ろ       鹿持雅澄(巷謡編)

     

山陰沖の歌の語り(56)

第7章、歌の分化

 第2節、蓮華会舞

 隠岐国分寺には古式の舞楽「蓮華会舞」が残されている。蓮華会の名称起源は、蓮華の日(蓮華生)六月十五日の祭事であったからである。それは節句麦秋、麦盆の日である。水田の少ない隠岐にあって、その牧畑耕作の主産物は麦であった。その新穀を仏霊に供え、その実りを感謝し、皆喜び踊るという祭事である。すなわち感謝祭である。
 昔、蓮華会舞には百二十種類もの舞があったという。国衙体制の官寺たる隠岐国分寺は、隠岐国の文化拠点として、一国を代表する法会。祭礼を執り行っていた。かつては全島四十八ヵ村から、舞手や奏者らが出仕し、仏を拝み、五日五晩を踊り明かしたという。祭礼舞に続き、民の歌、民の踊りも、また様々なものが演じ行われていたに違いない。

    麦搗(つ)き 何より辛(こわ)い 麦に親子は ござりゃせぬ
        ソラ 搗け ハラ 搗け        (隠岐 麦搗き唄)

    石の臼がよい 木の臼がよい 臼に変わりは ござんせん
        アラ ドッチン ドッチン       (隠岐 石搗き唄)

   
 現在演じられている舞は、麦焼舞・仏舞・眠り仏・獅子舞・太平楽竜王舞・山神貴徳の七種である。これらは奈良時代の仏教法会の荘厳楽の系譜を引く。修正会や修二会の芸能から、呪師の猿楽へ、さらに能の翁舞へと辿る中世芸能の、古様の姿を今ここに見る。

 

山陰沖の歌の語り(55)

第7章、歌の分化

 第1節、演劇空間の創出

 貞和五年(1349)京の四条河原で橋勧進の田楽が演じられた。祇園社への参拝路、四条大橋の修造のためである。勧進聖、田楽法師たちが造った桟敷は、満ち溢れた群衆によって倒壊し、多くの死傷者を出した。太平記の記すところである。その評判の田楽とは、次の如きものであった。

  中門口で打ち鳴らす曲を鼓が響かせ、音頭取りの笛が高く吹かれた。東の楽屋から 
  は匂い薫蘭を凝らし、装い紅粉を尽くしたる美麗の童が二人、一様に金襴の水干を
  着し現れた。そして西の楽屋からは白く清らかなる法師八人が煌めき渡る姿で出現
  した。それは薄化粧の鉄漿黒(かねぐろ)にて、色々の花鳥を織り尽くし染め狂わ
   せた水干に、あやい笠を傾けた装いである。霊妙な奇術、炎のような舞、煌びやか
  な群舞、優雅な楽が演じられ、観客は熱狂と陶酔とに浸っていた。

 この競演が終わると、日吉山王権現のあらたかな霊験を示す猿楽が演じられ、その奇瑞物語は、いよいよ観客を魅了し感嘆へと誘っていた。
 田楽とは、もともとは田遊びで、各地に噺田、舞田、鼓田などの名称が残るように、田植えの折、その豊穣を祈っての芸能である。田楽の法師は、簑笠の姿で、手には編木(びんざさら)を持って擦り鳴らし、早乙女は顔を塗り隠して神事の所作舞を舞い踊った。煌びやかな衣装をまとった呪師や俳優(わざおぎ)が、祈り祝い、柏手(かしわで)を打ち、大地を踏みしめ、踏歌をうたい、土地霊に喜びを与えていた。
 このような歌舞音曲は、衆の興を呼び、次々と諸国へ広く伝播する。田畑の実り、豊穣を謝する蓮華舞、神楽舞などと共に、いよいよ各地へ運ばれていく。この田楽法師たちとは、かつての律令国家で祈祷礼楽を司っていた禅師、菩薩、優婆塞、沙弥、持経者などの変容である。その後の、聖、聖人、上人などと崇められていたものたちの、時代を経ての姿である。国家的庇護から外れた彼らは、その祈祷礼楽の役柄から、河原乞食にも紛う「ほかいびと(供物を運ぶ人)」として、折々に芸を披露する芸能者へと身を落としていた。だが、その演ずる空間とは、かつての栄光もかくやとばかり、煌々しく華やかで、大いに観客を魅了する場を展開させていた。

 このような華美華麗な舞楽、宴舞は、時代を経て、かなりの変容を伴ってはいるが、今も隠岐に残っている。それが隠岐の島後における隠岐国分寺「蓮華会舞」であり、隠岐の島前における美田八幡宮「十方拝礼(しゅうはいら)」である。

山陰沖の歌の語り(54)

第6章、歌の変容

 第21節、蕉風俳諧

 近世に於ける商人の活躍は、ここに商人文化を見事に花開かせていく。騒ぎ歌をうたい、繁栄を喜びうたう中から、やがて彼らの美意識も研ぎ澄まされていく。そこに芭蕉が登場した。彼の「柴門の辞」を引用しておこう。弟子の許六が郷里へ帰る折、芭蕉が書き与えたもので、柴の門に佇み見送る体である。

  私の風雅は夏炉冬扇(夏に焚く炉や冬に煽ぐ扇)の如く無駄なもので、何の役にも   
  立ちはしない。ただ釈阿(藤原俊成)や西行法師の和歌だけは、かりそめに詠み捨て 
  られたようなものにも深いあわれが籠もっている。

  後鳥羽上皇の、お書きになったものの中に「この二人の歌には真実があって、しか
 も悲しみがただよっている」と仰せられたとか。なれば私たちも、この御言葉を力
 に、その細い一筋の道を辿り、その道を失うことのないようにしなければならない。

 

 芭蕉は後鳥羽の示した道を、ただ一筋に辿ろうとする。彼の風雅は後鳥羽の精神を受け継ぐものだと弟子の許六に語るのである。西行への深い傾倒から、おのずと後鳥羽の歌論へ思いが到ったものである。後鳥羽の西行観は「西行の歌は情趣ありおもしろい。殊に心遣いは行き届き、また深いもののあわれがある」というもので、そして「生得の歌人」すなわち天才で、凡人など、およそ真似できないものだという。西行は「新古今」最大の歌人の栄誉を、後鳥羽から受けた。彼は後鳥羽の歌論の体現者たる存在であった。なればこそ芭蕉が、己が人生の範としたのである。

      願わくば 花の下にて 春死なむ
         その如月(きさらぎ)の 望月(もちづき)の頃   西行

 芭蕉が「奥の細道」の旅に出たのも、この西行の旧蹟を訪ねるためであった。芭蕉西行を追い求める、その細い一筋の道の果てには、後鳥羽の求め続けた歌の真髄がある。和歌、連歌の伝統の上に、俳諧の文化は形成されていったのである。だがその文化の基板をなし、実質を支えたのは、この近世に至り勃興してきた町人層の経済力である。芭蕉の漂泊の生活を支え、彼の句作を援けたのも、江戸や上方の町人の力だった。
 芭蕉以後、全国各地の名所旧跡を旅しながら、俳諧の道を究めようとする人々は増えてきた。徘徊師は、俳諧修行のためだけではなく、暮らしを立てるため、各地を俳諧指導して廻った。その巡遊遍歴は、多数の俳諧愛好者たちが、各地に居たことで支えられている。中央のみならず地方に於いても、力を付けた町人層による新たな民衆文化が育っていた。俳諧文化は、そのような中で花開いていった。
 西行芭蕉の漂泊を真似、吟行する歌の結社が、以後、次々と登場した来た。町人たちは歌詠の旅先で、名所旧跡に身を置き、風流風雅の価値を感得していった。観光地の発達と物見遊山する新しい大衆の文化が、この町人たちの交流の中から生じてきた。これは消費を謳歌するレジャー産業の、現代における隆盛にも繋がってくる。そのような一大潮流を為す大衆文化の展開を、農漁村を軸にして、次章に於いて、再度、中世社会から辿ることで見てみよう。