隠岐の相撲 [目次]

隠岐の相撲 [目次]

 

第Ⅰ部、隠岐の宮相撲(Ⅰ)

     第1章、隠岐の宮相撲とは(Ⅰ―1)

          第1節、水若酢神社の宮相撲(Ⅰ―1―①)

          第2節、番付編成の仕組み(Ⅰ―1―②)

          第3節、土俵造り(Ⅰ―1―③)

          第4節、番付の始まり(Ⅰ―1―④)

          第5節、中入の挨拶(Ⅰ―1―⑤)

          第6節、役力士の相撲(Ⅰ―1―⑥)

          第7節、人情相撲(Ⅰ―1―⑦)

          第8節、柱相撲(Ⅰ―1―⑧)

     第2章、宮座の相撲(Ⅰ―2)

          第1節、勧進の相撲(Ⅰ―2―①)

          第2節、座元と寄方(Ⅰ―2―②)

          第3節、宮座の成立(Ⅰ―2―③)

          第4節、宮座相撲(Ⅰ―2―④)

          第5節、巡業相撲(Ⅰ―2―⑤)

          第6節、奉納相撲(Ⅰ―2―⑥)

     第3章、三役の登場(Ⅰ-3)

          第1節、番付編成の起源(Ⅰ―3―①)

          第2節、大関・関脇・小結(Ⅰ―3―②)

          第3節、横綱の創設(Ⅰ―3―③)

          第4節、横綱の綱の重さ(Ⅰ―3―④)

          第5節、横綱の綱の起源(Ⅰ―3―⑤)

     第4章、聖なる土俵(Ⅰ―4)

          第1節、土俵の登場(Ⅰ―4―①)

          第2節、四角い土俵(Ⅰ―4―②)

          第3節、縄張りの土俵(Ⅰ―4―③)

          第4節、円い土俵(Ⅰ―4―④)

          第5節、基壇を持つ土俵(Ⅰ―4―⑤)

          第6節、土俵は豊饒の祭壇(Ⅰ―4―⑥)

          第7節、五穀豊穣の祭ごと(Ⅰ―4―⑦)

          第8節、二重の土俵(Ⅰ―4―⑧)

          第9節、土俵に埋まる金(Ⅰ―4―⑨)

          第10節、蛇の目の土俵(Ⅰ―4―⑩)

          第11節、)土俵に上がる階段(Ⅰ―4―⑪)

          第12節、野外土俵の痕跡(Ⅰ―4―⑫)

     第5章、力の祭儀(Ⅰ-5)

          第1節、力の奉納(Ⅰ―5―①)

          第2節、力と秩序(Ⅰ―5―②)

          第3節、秩序の顕現(Ⅰ―5―③)

          第4節、天下の秩序(Ⅰ―5―④)

     第6章、柱の祭儀(Ⅰ-6)

          第1節、天にそびえる神樹(Ⅰ―6―①)

          第2節、天地を繋ぐはしご(Ⅰ―6―②)

          第3節、天を支える柱(Ⅰ―6―③)

          第4節、門衛としての力士(Ⅰ―6―④)

          第5節、神樹の下での相撲(Ⅰ―6―⑤)

     第7章、土俵の儀礼(Ⅰ―7)

          第1節、拍手の霊験(Ⅰ―7―①)

          第2節、四股の威力(Ⅰ―7―②)

          第3節、塩撒きの浄め(Ⅰ―7―③)

          第4節、塵を切る(Ⅰ―7―④)

          第5節、広げる両手(Ⅰ―7―⑤)

          第6節、立合いの瞬間(Ⅰ―7―⑥)

     第8章、相撲の進行(Ⅰ―8)

          第1節、行司口上(Ⅰ―8―①)

          第2節、草結(Ⅰ―8―②)

          第3節、花相撲(Ⅰ―8―③)

          第4節、割相撲(Ⅰ―8―④)

          第5節、中入(Ⅰ―8―⑤)

     第9章、祝祭の相撲(Ⅰ―9)

          第1節、桟敷の酒(Ⅰ―9―①)

          第2節、溜り席(Ⅰ―9―②)

          第3節、相撲踊(Ⅰ―9―③)

          第4節、相撲甚句(Ⅰ―9―④)

          第5節、隠岐太鼓(Ⅰ―9―⑤)

          第6節、収穫祭としての相撲(Ⅰ―9―⑥)

     第10章、江戸相撲から大相撲へ(Ⅰ―10)

          第1節、江戸の相撲会所(Ⅰ―10―①)

          第2節、幕府崩壊による頓挫(Ⅰ―10―②)

          第3節、明治の天覧相撲(Ⅰ―10―③)

          第4節、日本相撲協会(Ⅰ―10―④)

          第5節、大相撲の人気(Ⅰ―10―⑤)

          第6節、国技たる大相撲(Ⅰ―10―⑥)

          第7節、現代の相撲(Ⅰ―10―⑦)

          第8節、隠岐の古式相撲(Ⅰ―10―⑧)

 

第Ⅱ部、隠岐の神相撲(Ⅱ)

     第1章、中世村落の相撲(Ⅱ―1)

          第1節、古式の神相撲(Ⅱ―1―①)

          第2節、神仏習合の祭事(Ⅱ―1―②)

          第3節、武力結集の祭事(Ⅱ―1―③)

          第4節、隠岐への武士の参入(Ⅱ―1―④)

          第5節、近江佐々木氏の入部(Ⅱ―1―⑤)

     第2章、日吉神社の神相撲(Ⅱ―2)

          第1節、日吉神社の神事(Ⅱ―2―①)

          第2節、近江の相撲(Ⅱ―2―②)

          第3節、日吉神社の相撲奉納(Ⅱ―2―③)

          第4節、神人たちの活動(Ⅱ―2―④)

          第5節、芸能の伝播(Ⅱ―2―⑤)

     第3章、日吉社の五つの神事(Ⅱ―3)

          第1節、五本の祭(Ⅱ―3―①)

          第2節、眞言の読誦(Ⅱ―3―②)

          第3節、神楽祭典(Ⅱ―3―③)

          第4節、隠岐神楽(Ⅱ―3―④)

          第5節、庭の舞(Ⅱ―3―⑤)

          第6節、東遊の歌詞(Ⅱ―3―⑥)

          第7節、日吉神社の神相撲(Ⅱ―3―⑦)

          第8節、神事奉納の御幣(Ⅱ―3―⑧)

          第9節、三度の相撲(Ⅱ―3―⑨)

          第10節、十方拝礼(Ⅱ―3―⑩)

     第4章、美田八幡宮の神相撲(Ⅱ―4)

          第1節、美田八幡宮の祭祀(Ⅱ―4―①)

          第2節、美田八幡宮の大祭(Ⅱ―4―②)

          第3節、美田八幡宮の三度の相撲(Ⅱ―4―③)

          第4節、三献の儀式(Ⅱ―4―④)

          第5節、生命の奉納(Ⅱ―4―⑤)

          第6節、美田八幡宮の獅子舞(Ⅱ―4―⑥)

          第7節、獅子と獅子児(Ⅱ―4―⑦)

          第8節、近江の獅子舞(Ⅱ―4―⑧)

     第5章、田楽の舞(Ⅱ―5)

          第1節、田楽の始まり(Ⅱ―5―①)

          第2節、田楽の奉納(Ⅱ―5―②)

          第3節、田楽の隠岐流入(Ⅱ―5―③)

          第4節、八幡宮祭礼式書(Ⅱ―5―④)

          第5節、美田八幡宮の棟札(Ⅱ―5―⑤)

          第6節、八幡宮の十方拝礼(Ⅱ―5―⑥)

          第7節、煌びやかな風流踊(Ⅱ―5―⑦)

     第6章、武良の祭(Ⅱ―6)

          第1節、日月陰陽和合祭(Ⅱ―6―①)

          第2節、隠州の古祭祀(Ⅱ―6―②)

          第3節、武良祭の起源(Ⅱ―6―③)

          第4節、常楽寺の相撲(Ⅱ―6―④)

          第5節、八王子神社の祭神(Ⅱ―6―⑤)

     第7章、武良祭風流(Ⅱ―7)

          第1節、出合いの祭典(Ⅱ―7―①)

          第2節、拝馬神事(Ⅱ―7―②)

          第3節、騎馬神事(Ⅱ―7―③)

          第4節、神子舞神事(Ⅱ―7―④)

          第5節、風流の神事(Ⅱ―7―⑤)

          第6節、若宮御祭の行列(Ⅱ―7―⑥)

     第8章、占手の神事(Ⅱ―8)

          第1節、占手の相撲(Ⅱ―8―①)

          第2節、刀の礼(Ⅱ―8―②)

          第3節、塩の礼(Ⅱ―8―③)

          第4節、掬いの礼(Ⅱ―8―④)

          第5節、神相撲の礼(Ⅱ―8―⑤)

     第9章、神相撲の神事(Ⅱ―9)

          第1節、こずま(Ⅱ―9―①)

          第2節、鎮立(Ⅱ―9―②)

          第3節、中戸(Ⅱ―9―③)

          第4節、関(Ⅱ―9―④)

     第10章、神事の子供相撲(Ⅱ―10)

          第1節、小相撲(Ⅱ―10―①)

          第2節、子供相撲(Ⅱ―10―②)

          第3節、泣き相撲(Ⅱ―10―③)

          第4節、小童の相撲(Ⅱ―10―④)

          第5節、序列相撲(Ⅱ―10―⑤)

 

第Ⅲ部、隠岐の舞相撲(Ⅲ)

     第1章、古舞の伝承(Ⅲ―1)

          第1節、隠岐国分寺に残る相撲舞(Ⅲ―1―①)

          第2節、隠岐国分寺とは(Ⅲ―1―②)

          第3節、隠岐国分寺の蓮華会舞(Ⅲ―1―③)

          第4節、蓮華会舞の由来(Ⅲ―1―④)

          第5節、蓮華の祝祭(Ⅲ―1―⑤)

          第6節、蓮華会の記録(Ⅲ―1―⑥)

          第7節、蓮華会の舞台(Ⅲ―1―⑦)

     第2章、豊饒の祭儀(Ⅲ―2)

          第1節、収穫の祭(Ⅲ―2―①)

          第2節、犠牲獣の祭祀(Ⅲ―2―②)

          第3節、古代の神饌(Ⅲ―2―③)

          第4節、角觝戯の始まり(Ⅲ―2―④)

          第5節、蚩尤戯の舞踊(Ⅲ―2―⑤)

          第6節、二度の収穫祭(Ⅲ―2―⑥)

          第7節、循環再生の儀式(Ⅲ―2―⑦)

     第3章、蓮華の舞楽(Ⅲ―3)

          第1節、れんげの覚書(Ⅲ―3―①)

          第2節、麦焼舞(Ⅲ―3―②)

          第3節、山神貴徳の舞(Ⅲ―3―③)

          第4節、太平楽の舞(Ⅲ―3―④)

          第5節、宴飲の舞(Ⅲ―3―⑤)

          第6節、林歌の舞(Ⅲ―3―⑥)

          第7節、抜頭の舞(Ⅲ―3―⑦)

          第8節、花の舞(Ⅲ―3―⑧)

     第4章、菩薩の舞(Ⅲ―4)

          第1節、菩薩の行進(Ⅲ―4―①)

          第2節、先導する先払(Ⅲ―4―②)

          第3節、王の舞(Ⅲ―4―③)

          第4節、行像(Ⅲ―4―④)

          第5節、脇侍の菩薩(Ⅲ―4―⑤)

          第6節、眠仏之舞(Ⅲ―4―⑥)

          第7節、獅子之舞(Ⅲ―4―⑦)

          第8節、獅子あやし(Ⅲ―4―⑧)

          第9節、二菩薩の舞(Ⅲ―4―⑨)

     第5章、渡来の舞楽(Ⅲ―5)

          第1節、菩薩舞の伝播(Ⅲ―5―①)

          第2節、菩薩蛮の舞(Ⅲ―5―②)

          第3節、伎楽の伝習(Ⅲ―5―③)

          第4節、童子の舞(Ⅲ―5―④)

          第5節、牛飼の童子(Ⅲ―5―⑤)

     第6章、仮面の舞(Ⅲ―6)

          第1節、獅子の仮面(Ⅲ―6―①)

          第2節、獅子舞の伝播(Ⅲ―6―②)

          第3節、西涼の伎楽(Ⅲ―6―③)

          第4節、胡児人の舞(Ⅲ―6―④)

          第5節、獅子から鬼へ(Ⅲ―6―⑤)

     第7章、武闘の舞(Ⅲ―7)

          第1節、演武の勇壮舞(Ⅲ―7―①)

          第2節、五方獅子舞(Ⅲ―7―②)

          第3節、破陣の舞(Ⅲ―7―③)

          第4節、被り物の舞(Ⅲ―7―④)

          第5節、龍王の舞(Ⅲ―7―⑤)

     第8章、相双の舞(Ⅲ―8)

          第1節、相対する武の舞(Ⅲ―8―①)

          第2節、相対する相撲舞(Ⅲ―8―②)

          第3節、相対する節会相撲(Ⅲ―8―③)

          第4節、中世の相舞(Ⅲ―8―④)

          第5節、隠岐の二菩薩の舞(Ⅲ―8―⑤)

          第6節、相対する仏の舞(Ⅲ―8―⑥)

     第9章、左右の秩序舞(Ⅲ―9)

          第1節、秩序確立の舞(Ⅲ―9―①)

          第2節、左右の判定(Ⅲ―9―②)

          第3節、左右の力(Ⅲ―9―③)

          第4節、左右の対立(Ⅲ―9―④)

          第5節、左右の相撲(Ⅲ―9―⑤)

 

第Ⅳ部、隠岐の原相撲(Ⅳ)

     第1章、普遍の相撲(Ⅳ―1)

          第1節、原っぱの遊び相撲(Ⅳ―1―①)

          第2節、力の伝承(Ⅳ―1―②)

          第3節、力の鍛錬(Ⅳ―1―③)

          第4節、力の競技(Ⅳ―1―④)

          第5節、素手の格闘技(Ⅳ―1―⑤)

          第6節、相撲のルール(Ⅳ―1―⑥)

     第2章、相撲の発生(Ⅳ―2)

          第1節、農事儀礼説(Ⅳ―2―①)

          第2節、年占説(Ⅳ―2―②)

          第3節、葬送儀礼説(Ⅳ―2―③)

          第4節、贖罪決闘説(Ⅳ―2―④)

          第5節、神明裁判説(Ⅳ―2―⑤)

          第6節、勝利者権能説(Ⅳ―2―⑥)

          第7節、演劇説(Ⅳ―2―⑦)

          第8節、見世物説(Ⅳ―2―⑧)

          第9節、変形進化説(Ⅳ―2―⑨)

     第3章、裸身の力士(Ⅳ―3)

          第1節、裸身の誇示(Ⅳ―3―①)

          第2節、力の誇示(Ⅳ―3―②)

          第3節、敗北服従(Ⅳ―3―③)

          第4節、服従の舞(Ⅳ―3―④)

          第5節、武装解除(Ⅳ―3―⑤)

          第6節、服従の裸身(Ⅳ―3―⑥)

          第7節、服従の力士舞(Ⅳ―3―⑦)

     第4章、闘技の起源(Ⅳ―4)

          第1節、素手と武器(Ⅳ―4―①)

          第2節、闘いによる損失(Ⅳ―4―②)

          第3節、集団の秩序(Ⅳ―4―③)

          第4節、秩序の維持(Ⅳ―4―④)

          第5節、闘争と遊戯(Ⅳ―4―⑤)

     第5章、闘技の価値(Ⅳ―5)

          第1節、力くらべ(Ⅳ―5―①)

          第2節、力の証明(Ⅳ―5―②)

          第3節、力の遊び(Ⅳ―5―③)

          第4節、共同体の規制(Ⅳ―5―④)

          第5節、競技の規則(Ⅳ―5―⑤)

     第6章、闘争の抑制(Ⅳ―6)

          第1節、闘争と順位(Ⅳ―6―①)

          第2節、順位制と相撲(Ⅳ―6―②)

          第3節、闘争と構え(Ⅳ―6―③)

          第4節、見世物としての構え(Ⅳ―6―④)

          第5節、構えと儀式(Ⅳ―6―⑤)

          第6節、礼の形成(Ⅳ―6―⑥)

          第7節、相撲に見る和平の礼(Ⅳ―6―⑦)

     第7章、闘争と死(Ⅳ―7)

          第1節、順位と縄張り(Ⅳ―7-①)

          第2節、死を回避する闘争(Ⅳ―7-②)

          第3節、無防備の防備(Ⅳ―7-③)

          第4節、闘争の遊戯(Ⅳ―7-④)

          第5節、礼による秩序(Ⅳ―7-⑤)

          第6節、規則の遵守(Ⅳ―7-⑥)

 

第Ⅳ部、隠岐の原相撲[第7章、闘争と]

第7章、闘争と死(Ⅳ-7)

 ①順位と縄張り(Ⅳー7ー①)

 ②死を回避する闘争(Ⅳー7ー②)

 ③無防備の防備(Ⅳー7ー③)

 ④闘争の遊戯(Ⅳー7ー④)

 ⑤礼による秩序(Ⅳー7ー⑤)

 ⑥規則の遵守(Ⅳー7ー⑥)

 

①順位と縄張り

 相手を傷付ける乱暴激烈な闘争、肉体相撃つ闘争は、そう頻繁に行われるものではない。勝てると思うからこそ闘うので、負けると思う場合、さっさと撤退する。

 激しい試合は、対戦者同士の力が全く伯仲し、互いに勝てると思っている場合である。だから撤退すること無く、闘い続ける。どちらが勝つか分からない、どちらも勝つ可能性が在る。そのような勝負こそ、また観客にとっても面白いのである。それゆえ大相撲の番付は、東西に力の伯仲する力士を並べる。互いに競わせ、手に汗を握る勝負を演じさせていく。

 動物の闘争も、同種の場合、殺し合うまで遣り合うことは無い。弱者は逃走するからである。強者も追い掛けてまで、その闘争を持続させることはない。「窮鼠猫を噛む」のたとえ通り、追い詰めてしまうと逆に反撃を喰らう。撤退する側は、撤退して自分の本拠地に還るから、その本拠地では意外と強い力を発揮する。一方、追い掛けた側は、追い掛けたことで自分の本拠地から離れ、不安の余り弱さを見せる。その結果、強者は弱者となり、弱者は強者となる。ここで反転攻勢を受け、そして追い払われる。こうして両者の力はバランスを取り、縄張りというものが決定される。縄張りの中での勝敗、それが順位というものを決定する。また別の縄張りでは、また別の勝敗が起こり、そこでの順位が決定する。これが縄張りと順位制との関係である。

 大相撲の闘争では、組み合って投げつければ勝ちであるが、土俵という縄張りがあり、この縄張りを守り、相手を外に出せば、やはり勝ちとなる。闘争と縄張りの二つの争いで勝敗を決定するという複合ルールである。

 この丸い場の縄張りを争う仕組みでは、撤退させ土俵から押し出してしまえば、すなわち追い払って縄張りを取得した方が勝ちである。しかし押し出す際の「勇み足」は負けで、実力で追い払っても、一歩でも先に外に出れば負けである。「相撲に勝って、勝負に負けた」と表現される場合のあるところである。

 確かに土俵の外は、負けの空間で、勝利そのものは土俵の中にしかない。結局のところ、縄張りの中で立ち尽くせば、つまり立ち続けることができれば、勝利者ということになる。屈服する敗者とは、先に土に着く者、縄張りの外に出る者を指す。

 

②死を回避する闘争

 大相撲では、相手を倒す際、そのまま倒れると相手が危険になる場合、先に手を着いて護る「かばい手」というものがある。先に手を着くから、本来なら敗者である。だがこれは負けとは見做されない。その理由は、相手は「死に体」と判断されているからである。「死に体」を護ろうとする動作は、闘争に優先する。「死に体」を護ることで、闘争の勝利よりも、さらに価値の高い真実の勝利を得るというものである。

 一般論で言えば、闘争の折、相手を死に至らしめる動作は、瞬時に避けられる。とっさのところで闘争を停止し、相手を生かそうとする。これは動物界にも、しばしば認められる現象である。同種が闘う際の暗黙のルールである。種の継続と繁栄とが、もともと動物にはプログラミングされているからである。だが社会性を喪失した個は、このルールに従わない。抑制が困難で、しばしば狂気の行動に走る。すると、その社会から弾き出される。そしていよいよ、反社会的行動を取る。

 通常は、一旦動き出した激しい闘争の場合でも、相手の死を予感すれば、それを激しく押しとどめる。攻撃する側に躊躇する意識が生じ、とっさに、その死を避けようとする。また攻撃される側も、死を前にすれば、あらゆる手立てを尽くし、その死を避けようとする。つまり相手の攻撃意志を消そうとする。

 

③無防備の防備

 動物の場合、相手の闘争心をなだめようとすれば、可能な限り友好的な行動を取る。例えば牙を見せる、毛を逆立て、唸り声を発するというような刺激は、一切、全てを中止する。さらには尻尾を振るとか、穏やかで甘えるような声を発し、従順な身振りを示す。

 人間も同様で、その代表格が、親しげに微笑む「笑顔」である。また肩の力を抜き、親愛の情を表す「和平の身振り」によって、相手の闘争心をひたすら消そうとする。手のひらを示し、ゆらゆらと揺らす挨拶など、そうである。これは害するものを何も持たないというしるしである。「万歳三唱」のような両手を挙げてのアピールは、賛同し、味方として一体になるというメッセージである。これは降伏の場合における、同様に示される強いメッセージでもある。

 和平を強く願う動物は、危険きわまりないことだが、自分を無防備にするということを、敢えて行う。自分のもっとも傷つきやすい箇所、例えば喉や腹を、相手にさらけ出して見せるということをする。手段としては最後の最後であるが、それが武装解除、絶対服従の姿勢である。攻撃する側も、相手がこの「服従の姿勢」を取れば、激しく攻撃している最中でも、突然に攻撃を止める。

 相手の攻撃を抑制させる「和平の身振り」「服従の姿勢」とは、実は子供の行動様式を真似た表現動作である。子供のように無力に、子供のように無防備に、この窮地に立った同種の動物は行動する。動物には同種の子供を攻撃しないよう、種の記憶が強く刷り込まれている。その抑制作用は実に強いから、反射的に攻撃が中止されるのである。

 

④闘争の遊戯

 動物の取っ組み合いも、闘争と見えて、その実、じゃれ合っていることも多い。攻撃と中止とを、交互に繰り返して遊ぶものである。動物とはいえ、闘争を楽しみ、闘争を抑え、それを交互に繰り返すことで遊戯化させている。それは互いに幼児性を投げ掛け合い、攻撃と抑制とを学習(調節)する姿である。

 遊戯ゆえに、当然ながら、互いの幼児期から行われる。これは元々、子供同士の発達のための遊戯である。力の発達、身のこなしの発達、その達成を確認するものである。だが攻撃が過ぎれば、相手は恐怖し、泣き出してしまう。相手が泣き出せば、その泣き出す恐怖に、また自分も引きずられ泣き出すという、子供同士の姿がある。

 この互いに感じる恐怖とは、まさに死の予感である。その死の予感に怯える姿に、また自らも怯え、こうして攻撃は中止される。攻撃と中止、攻撃と抑制、そこに闘争遊戯の始まりがある。

 闘争遊戯とは、共感する心、仲間と取り結ぶ精神のコミュニケーションである。そして格闘技も、その発祥は格闘(闘争)遊戯からであった。それは勝敗を争うが、勝敗に拘るものではない。勝敗に拘る限り、必ず武器の使用に行き着いていく。そして武器の使用は殺戮へ至ることとなる。

 格闘技は、格闘の末、相手を死に至らしめることも皆無ではない。だが殺戮を目的とするものではない。格闘技とは遊戯であって、勝敗を争うのではなく、優劣を競い合うものであった。その優劣によって順位が定まり、仲間内での秩序が構築されていく。さらに秩序を伴ったコミュニケーションへと展開する。つまり秩序の遊戯、交流の遊戯で、順位を競い、順位制によって仲間内の秩序を図り、力関係、技関係に従い、互いに円滑に交流するという闘戯(闘いの遊戯)なのである。

 そこでは互いに威嚇し合ったり、また逃げ合ったりもする。時には強く出たり、時には弱く出たりする。押し通すこともあれば、譲ったりもする。押したり、引いたり、ひねったり、またねじ伏せられることもある。勝ったり負けたり、誇らしくも思い、また惨めにも思う。天にも昇る気持ちにもなれば、また死の恐怖を感じ取ることもある。そのような遊戯を通して、仲間内での秩序、仲間同士の秩序が作り出され、その秩序の中に自らも席を占める。その秩序こそが社会というもので、その存在の価値、認識に至る道を、ここでしっかりと学ぶのである。

 

⑤礼による秩序

 社会とは、ある意味で社会的地位の体系と見做すこともできる。そのような体系は、人間の相互確認によって始まり、優劣分離の順位制により、分節化の過程を経て、作り出されたものである。社会構造の諸単位たる身分、役割、職務といったものが、それぞれ階級構造を成し、諸関係の関わる複合構造を呈し、秩序を以てまとめ上げられている。

 そのような人間社会の秩序は、礼を以て具象化されている。その礼の重要性を繰り返し説いたのが孔子であった。孔子は国政の根本、世の根本を礼だといった。孔子の生きていた時代、当時の戦乱の世は、礼が行われていなかった。乱世すなわち無秩序の時代であった。それゆえ礼を整え、秩序を回復することが重要と、孔子は諸侯に説いて廻った。武を以て秩序を作り上げることは覇道である。礼を以て平和に至る道こそが王道であると。

 孔子は『礼記』礼運篇において「それ礼は、先王以て天の道を承け、以て人の情を治む。故にこれを失う者は死し、これを得る者は生く。(中略)聖人、礼を以てこれ(人)に示す。天下国家(礼によって)正しきを得べきなり」と説く。孔子は天や宗廟の祭礼を行うことを政治の根本とした。それは秩序の徹底である。礼の教育により、社会秩序を厳正に維持し、政治上の混乱や、人間関係の紛糾を正そうとする。政治権力や武力を用いないで、平和的に救治しようとする。それが徳化というもので、まさに仁者の政治であった。

 為政の局に当たる者は、祭礼の学習と実行とを通じ、敬虔の心を深めなければならない。自己を謙譲し、他人を尊重する態度、すなわち恭敬の心掛けを以て政治に当たるよう、孔子は説いた。天子諸侯を始めとする政治の上層者が、敬虔に祭礼を行い、それに倣い、一般官僚や一般人民も、各自の身分に相応する祭礼や礼儀作法を学ぶことの重要性を語った。これを通して長上尊重の精神を涵養し、上は天子と臣民との関係、下は父母と子弟との関係に至るまで、尊卑秩序が厳守されるよう望んだ。

 

⑥規則の遵守

 孔子の礼儀尊重は、礼の精神の尊重であったが、もとより形式の無い礼は存在しない。だから孔子の礼楽主義は、当然に礼の諸形式や諸規定、および礼の附属物たる音楽や舞踊、服飾や備品類の整備、それらの洗練を要求するものとなっていった。礼は形よりも心だと言うが、その理解は、たやすいものではない。心は形に表されるわけで、礼の心だけを人に示すことなどできない。だから礼の尊重とは、やがて礼の形の尊重となり、礼にとって形は必要な条件となった。

 こうして形は心よりも優先する位置を占めた。そして形を以て心を作り変えるのが、礼儀となった。形から入り、心に至る礼法の根本は、ここにある。大相撲の礼も、根本はここである。礼に始まり、礼に終わる形は、闘争の心を礼儀の中に納め、闘争の形を秩序として世に示すものとなった。すなわちルールの遵守である。それが何よりも重んじられる。闘争の心、勝負の結果よりも、礼儀が大切である。それに違反すれば、勝敗の如何に関わらず失格となる。礼に違反すれば、土俵を去らねばならない。礼に違反すれば、相撲界を去らねばならないのである。

 

 

第Ⅳ部、隠岐の原相撲[第6章、闘争の抑制]

第6章、闘争の抑制(Ⅳー6)

 ①闘争と順位

 ②順位制と相撲

 ③闘争と構え

 ④見世物としての構え

 ⑤構えと儀式

 ⑥礼の形成

 ⑦相撲に見る和平の礼 

 

①闘争と順位

 闘争の元となるものに、他者への攻撃というものがある。攻撃を仕掛け、他者が逃げてくれれば、闘争に発展しない。だが他者が逃げず、踏みとどまって抵抗(防御)すれば、闘争に発展する。闘技は、この攻撃と防御を等しく交互に行うことで成立する。あるいは攻撃と防御を互いに同時に行うことで成立する。前者は野球やサッカーなどに該当し、後者は相撲や空手やボクシングなどに該当する。

 では何故、他者を攻撃するのだろうか。その元々は個体の生存のため、そして種の生存のためである。自らが生きるため、そして子孫が生きるため、餌場を確保する必要があったからである。食料調達の場所、安全に生活できる場所、つまり生命を維持でき、伴侶を得て子孫を残せる場所、そこに生きるからである。それが個人として、そして種としての「縄張り」で、そのような土地に生きるのである。

 縄張りの社会は、常に拡大と縮小、そして時には消滅もある。弱者は強者から圧迫されれば、縄張りを減らし後退しなければならない。つまり縄張りを譲らねばならない。だから弱者は生きる道を求め、強者と競合しない「棲み分け」をしなければならない。そうでなければ闘争となる。死を覚悟しなければならない。

 平和が維持されるためには「棲み分け」がなされる。階層化で、その階層の中で強弱が決定され、順位が決定される。高等動物の組織だった社会生活は、その序列化の中で、秩序というものを発達させた。その秩序の原則こそが「順位制」である。

 

②順位制と相撲

 順位制の意味は簡単である。それはある社会の中で暮らしている個体が、それぞれ、だれは自分よりも強く、だれは弱いということを知っていることである。だから強者と見れば闘うことなく退くけれど、弱者にはいつ出合おうと、闘うことなく道を譲って貰えると思っている。

 この順位制は動物界には広く見られる。それは種を保つのに大いに役立っている。『魏志倭人伝』にも「下戸、大人と道路にて相逢えば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くには、あるいは蹲り、あるいは跪き、両手は地に拠り、これが恭敬を為す」とある。倭人社会も順位制の社会体制にあった。この順位制によって、同質社会のメンバー同士の闘争は回避された。

 順位制は、個々のメンバー同士の闘争を回避させるが、さらに集団と集団同士の闘争をも回避させる。だが集団同士の場合、しばしば順位が決定していないこともあり、その折には闘争が行われる。闘争とは順位決定の手段であるから、順位不明の集団に遇えば、当然激しい攻撃性を、ここで露わにする。たとえばオオカミの群れやサルの群れのような社会集団では、自分たちの群れの内部では避けられる闘争が、別の社会集団に対しては行われる。その折には、集団は集団として結束する。集団としての順位を競うのである。

 村と村とで争う「水争い」なども、この順位制が確立していれば争うこともない。だがそうでない場合、争いが勃発する。あらためて順位を決するため、両村から力人が出て、相撲を取る。どちらが先に水を引くか、勝敗によって決着をつける。そのようなことも行われてきた。

 社会の内部には、常に緊張があり、闘争が引き起こされる。だが順位制が存在することで、優劣が明らかにされ決着が図られる。つまり闘争は解消される。順位制のおかげて社会は混乱を回避した。順序立って事に対処できるようになり、社会は様々な点で、実り多い構造と堅固さを備えることができた。相撲も同様である。闘争を本質とする相撲は、この順位制が存在することで、今の隆盛を築き上げた。大相撲の番付表を、改めて凝視すると、様々なことが理解できてくる。

 

③闘争と構え

 闘争から発達した儀式(所作ごと)の一つに「構え」がある。本来の闘争の前の威嚇の身振りである。

 この身振りには様々なものがあり、肩を怒らせたり、反り返るような動作、また両手を大きく広げ、圧倒するような姿を相手に見せつけるものもある。これらの動作を取ると、相手の目からは身体の輪郭が最も大きく見えるので、威圧としての効果がある。動物が威嚇のため毛を逆立てるのも、同じ原理に基づく。

 また手を突き出すことで、相手の正面へ、さらに突きかかる様子をも見せる。威嚇の動作として殊に効果的である。ボクシングで言う「ファイティングポーズ」も、また同様の効果を持つ。このような威嚇姿勢は、攻撃の形を見せるものの、実は敵から身を守る動作であり、恐怖を動機として始まっている。つまり「構え」とは、攻撃と同時に逃走のための準備動作である。

 互いに「構え」を見せることで、両敵手は互いを傷付けることなく、互いの力を測り合う。つまり相手の力の値踏みを行うのである。それは闘争のための序曲にも該当し、弱い方(弱者側)に、自分が勝つ見込みのない闘争を、折を見て放棄させる。すなわち逃走の機会を与える。実際に流血の決着に至るというのは、極めて稀なことで、それは対戦者の実力が全く伯仲し、かつ互いに自分は勝つと思っている場合だけである。

 闘争とは順位決定の手段であるから、一方の放棄により順位が決定すれば、それ以上の闘争はない。個体の命を犠牲にするどころか、傷付けることすらなく、ただ「構え」だけで一連の行為は終了する。だから「構え」は闘争において、とても重要である。

 

④見世物としての構え

 「構え」とは見せ物である。相手に見せるもの、見せ付けるものである。それによって相手の思考そして行動に影響を与える。威嚇の「構え」は、相手に退くよう、逃げるよう促すもので、威嚇を形として示す無言の圧力メッセージである。だが相手も同様に威嚇の「構え」を見せる。すると自らも圧力を受け、退くか逃げるか、闘争放棄の準備に入る。だが直ぐ逃げ出すわけではない。ここで暫し圧力に抗し、耐え、闘争放棄を踏みとどまる。さらにフェイント(見せかけの動作および攻撃)を掛ける場合もあろう。

 一方の闘争放棄が無ければ、威嚇の「構え」は、さらに進む。だが直ぐ暴力行為に及ぶわけではない。「構え」は増幅され、より激しい威嚇動作を繰り返す。実際に闘えば死傷の可能性があるから、もとより互いに闘いたくはない。だから律動的な威嚇動作を、激しく執拗なまでに繰り返す。芝居がかった誇張により、より大仰な動作で演じていく。涙ぐましい努力である。相手の恐怖心を煽り、自らの優位性を示そうとする。この威嚇を激しく繰り返すことで、相手に闘いを放棄させ、自らの手に勝利をもぎ取るというものである。

 そのような威嚇行為は、勇猛さを表現し、躍動感に満ち溢れる。大仰さゆえに、人の眼を奪わずにはいられない。だから、闘い合う者の試合風景は、恰好の見世物となる。つまり闘争の構造には、最初から芸能の要素が組み込まれている。

 威嚇行為は見世物として、その所作ごとは、衆を集める演芸(芸能)にも成り変わる。闘蟋、闘鶏、闘犬、闘牛など、そして人間の闘争も、当事者は大変であるが、充分に見世物である。折々に繰り返されれば、にぎわいの儀式になる。相撲の発生は、ここにある。

 

⑤構えと儀式

 闘争を起源とする相撲には、繰り返す威嚇の「構え」から独特の儀式が発達した。見世物として衆に示すこと、その繰り返しの慣例の中から、衆へのメッセージが現れたのである。

「構え」の意味するところ、その「構え」が出れば、何を意味するか、それを大衆は了解した。闘争の場に足を踏み入れる姿、その場に立って相手と対峙する姿、手を大きく広げる姿、その一つ一つが意味のある「構え」である。連続すれば儀式にもなる。

 繰り返す「仕切り」も「塵を切る」所作も「拍手」も「四股踏み」も、全て威嚇の所作ごとに、そのルーツがある。とりわけ「三段構え」として知られる儀式など、まさに威嚇の「構え」から発達したものである。それは相撲発展の道筋に存在するもの、高句麗古墳の壁画にも、その闘争の「構え」を見ることができる。

 闘争は「優位性の衝動」と「攻撃の衝動」に駆られ行われる。建御雷タケミカヅチ)と建御名方(タケミナカタ)によって演じられた原初の相撲「手乞い」とは、そのような心理の葛藤を如実に示すものであった。「手乞い」とは手を握り合い、互いに押し合い、引っ張り合うことで、相手の具体的な力の値踏みを行うものである。自分の方が優位と見れば、踏み込んでいく。とても敵わぬとなれば、直ぐに手を離し逃走する。建御名方の行った逃走の振るまいは理にかなったもので、これが古い時代の試合であった。

 今の「腕相撲」も同じで、全身の力を注ぎ込む闘争の代理として、腕に限定した力量を競い合う。そしてそれだけで互いの評価(力の値踏み)を終えていく。全身の力を賭した闘争に、その後、踏み込むことはない。ことのついでに触れておくと「試合」という文字は、試みに合わせると書く。合わせて見て、とても敵わなければ降伏する。つまり負けを認めればよいのである。順位が決定されれば、もはや闘う必要はない。試合とは順位の値踏みなのである。

 和平の始まりの「握手」も、この「手乞い」と同様に、強いか弱いか、頑健か虚弱か、優位に立つか劣勢に甘んじるか、攻撃するか逃走するか、手の力による値踏みである。挨拶は、まずは念入りな「小手調べ」の儀式から始まる。わざわざ闘わなくても、その小手調べ(手の感触、力の程度)で、相手の実力は充分に窺える。自分より優れていれば、小手調べの「挨拶」は、直ぐに畏敬の礼に変換する。礼の作法とは、この互いの対峙の形から始まり、相手を強者と認め、その優位性を承認するという動作に変換する。相手の方に歩み寄り、頭を下げる、膝を折る、腰を屈めると、その屈服の姿勢には、様々な段階の形式がある。

 

 闘争から始まった和平の礼は、畏敬表出の礼へと展開する。それは人間を対象とするばかりではない。やがて神秘的対象にも導入され、神への拝礼(礼拝)となる。その神への作法が、また人にも応用されていく。その交互の繰り返しの中で、拝礼の儀式は整備され、洗練の度を加えていった。大相撲の所作ごとの中には、そのような礼の形成過程の遺残が、しっかりと認められる。

 

⑥礼の形成

 和平の第一の礼は、敵対する二者の間に発生する。互いに距離を置いて見合うだけのものである。まだ攻撃はしない。まだ敵対行動は取らないというもの、単なる様子うかがいの段階である。距離がある分、互いの仕草も読み取れない、互いの表情も読み取れないというもの、互いにどう対応してよいのか、皆目、見当もつかないというものである。

 この見合うだけの第一の礼では、なかなか相互信頼に達しない。だが互いに距離を縮めれば、仕草も表情も読み取れるようになる。和平を望むなら、互いに前に一歩を進め、近づかなければならない。それが「信頼形成の第一歩」であり「お近づきになる」ということである。相手に対し、警戒を緩めているというメッセージで、敵対行動は取らないという意思を漠然と伝えるものである。

 和平の第二の礼は、敵対していないという様子を見せるものである。攻撃的な仕草をしない、攻撃的な顔をしないというもの、それを相手に示すのである。戦場で和平を語るならば、兜を脱ぎ、接見するということである。これが西洋では兜の眉庇(まびさし)に手を当てて見せる挙手の礼となった。すなわち「敬礼」である。その原初の姿は、兜を脱ぎ素顔を見せるという作法であった。攻撃する顔か、そうでない顔かを示すのである。

 抜き身の武器を構えることは無く、鞘に収め、直ぐ抜ける位置には置かなかった。馬上で会見する場合、直ぐ馬を駈けることなく、じっくりと見合えるよう、鐙(あぶみ)から片足を外す仕草をした。そのようにして両者は静かに歩み寄る。そのような姿勢が、和平の話し合いへと繋がっていく。

 和平の第三の礼は、互いに利き腕を差し伸べ、互いに握り合うことで始まる。つまり互いからの闘争を、互いに封じるという方法で始まる。これが平和友好の「握手」である。だが力くらべ、すなわち力の値踏みであるがゆえに、これで闘争の始まる場合もある。

 互いが、ただ「握手」するだけでは、まだ友好性が確認できない。その場合、互いに腕を回して抱擁をする。欧米諸民族に見る抱き合う形の友好メッセージである。互いが互いを腕の中に入れ込むというもので、互いの示す世界観の抱き合わせ、摺り合わせが行われる。これは互いに共通の土台の上に立とうとするもので、相互理解を示す仕草である。

 

 和平の第四の礼は、相手の武力や能力に対し、敬服し、敵対を差し控えるという作法である。もはや闘うことを否定し、恭謙の気持ちを示すため、腰を曲げ、膝を屈し、頭を下げるという作法である。それが「お辞儀」である。うつむき、相手に首を差し出すというもので、敗北の宣言、屈服の具体的姿である。これが一般化し、互いに和平の礼(挨拶)として普及する。

 

⑦相撲に見る和平の礼

 

 格闘技としての相撲には、和平の礼が隠されている。相(あい)撲(なぐ)り合う直前まで、和平の機会があり、その和平を摑もうとする。

 和平の第一の礼は、互いに見合う段階に隠されている。互いに仕切りを繰り返し、静かに距離を置いて見合うというものである。この段階であれば、闘争を中止することは可能である。

 そもそも力士は、武具を一切捨てた裸身の状態にある。手を払い、手を翳し、武器を隠し持つことの無いことを示している。そして蹲踞の姿勢から、うずくまり、両手を付くという姿勢を取る。この仕切りの姿勢は屈服の姿をも示している。闘争を中止するにふさわしい礼儀(礼節)を見せている。

 和平の第二の礼は、敵対していないという様子を見せるものである。制限時間いっぱいとなった段階で、なお静かな姿勢で臨む力士もいれば、一方で、闘志を剥き出しにする力士もいる。もうこの先は闘争であるから、剥き出しの敵対の仕草と表情も、やむをえない。だが横綱相撲や大関相撲と評されるものは、仕草も表情も静かで美しい状態を指す。そのような礼節が、闘争の直前まで期待されるのは、それが和平に繋がるものだったからである。

 和平の第三の礼は、腕を差し伸べ接触するものである。互いに腕を回して抱擁する仕草にも連続するもの、相撲で言えば、互いに「まわし)を摑む四つ身の形である。だが、これも所詮、力くらべ(力の値踏み)である。互いに力を入れ、比べるうちに、闘争の競技が始まっていく。神事相撲に見る「引分相撲」とは、この四つ身の形で行司が仲裁に入り、相撲を友好裡に納め、引き分けるというものである。すなわち勝負を預かる形での和平である。「水入り」の大勝負とは、このような状態での、和平への期待である。

  和平の第四の礼は、相手の武力や能力に対し、敬服し、敵対を差し控えるという作法である。これは行司の軍配に従い、両者が「二字口」で一礼(一拝)し、一方が土俵上に残り、他方が土俵を降りるということに表れている。相撲が礼に則り行われていることを、ここは如実に示す、美しい場面である。

 もとより闘争の常として、屈服や逃亡も、また準備されている。例えば怪我をして、もはや相撲が取れない状態となれば、休場となる。不戦勝や不戦敗がルールとして整備され、力士の身体はもとより、その名誉をも守っている。

 

 

第Ⅳ部、隠岐の原相撲[第5章、闘技の価値]

第5章、闘技の価値(Ⅳ-5)

 ①力くらべ(Ⅳー5ー①)

 ②力の証明(Ⅳー5ー②)

 ③力の遊び(Ⅳー5ー③)

 ④共同体の規制(Ⅳー5ー④)

 ⑤競技の規則(Ⅳー5ー⑤)

 

①力くらべ

 格闘技「力くらべ」とは何なのか。最初に考え付く理由は、なんと言っても「力の誇示」である。素手で動物を仕留める、素手で相手を倒すなどは、周囲に、その力を見せつけるものである。原始社会(バンド社会やホルド社会)にあっては、それは単なる力ではない。強い意志、逞しい肉体、健全な身体、そして胆力や忍耐力、厳しい環境の中でも充分に耐えていけるだけの生命力、その確かさの証明であった。

 そのような力を示す若者ならば、娘の結婚相手にふさわしかった。娘に、その親兄弟姉妹に、その他の親族に、そして地域社会に、彼は立派な男として認められた。それは他人に向けたものばかりではない。自分自身に対しても、また「力を誇示」するものである。自らの強さを自分自身に示し、その存在証明とするのである。

 格闘技で「強くなる」こととは、他人に対し「強くなる」ことばかりではない。おのれ自身に対して「強くなる」ことでもあった。努力を重ね、修練を積み、技を磨き、耐えに耐えて勝利をもぎ取る。それは己を知り、他者を知る作業である。

 格闘技修行を幾年も続け、それなりの実力を持つようになると、確かに相手の立場に立って思考できるようになる。格闘技の価値、その修行の価値とは、人間を磨き上げることなのである。その身体文化は身体にとどまらず、新たな境地の精神文化を作り上げる。高邁な精神を、より高い天空へと飛翔させるのか、その深遠なる知性を、叡智の大海に、より深く沈潜させるものなのか、いずれにせよ、己の意志をより堅固なものへと進展変化させることだけは事実である。

 

②力の証明

 力の誇示は、他人に見せるため、己に見せるため、そして神に見せるために披露された。古代エジプトでは、ナイルの神に格闘技が捧げられていた。ベニ・ハサンの岩窟墳墓の壁画や、プタハ・ホテップ墓のレリーフなどに見る通りである。

 ホメーロスの『イリアス』第23書(パトロクロスの葬儀の場)にも、格闘技の情景が歌われる。戦の神アテナに捧げられるもので、エペイオスとエウリュアロスとの格闘があり、アイアースとオデュッセウスとの格闘がある。神の前で、己の力を披露するもので、古代オリンピックも、その通りにオリンピアの神々に、その競技は捧げられていた。

 神々の前で披露される「力の誇示」とは、その全てが格闘しながらの喜悦、心の飛翔、忘我の境地へと至らせるものだった。そして勝利を得たとなれば、相手からの敬意、衆の賞賛、さらには己に対する誇り、己の存在意義の再確認があった。それを自覚する己の心を、また覗き込むという自らの眼差しにも気付いていく。

 力の証明は、何も格闘技だけに限定されるものではない。狩猟社会では獲物を仕留めればよい。農耕社会では、埋もれた大石を運び出し、土をならし、畑の開墾ができればよい。それぞれが集団を維持発展させるためのもの、食料増産へと向かわせる力だった。そのための体力保有、精神力保有の証明なのであった。若者の力を試す通過儀礼(イニシエーション)の意味は、ここにある。それを証明することで、一人前の若者、立派な大人として、周囲に認められていく。各地に伝わる力石伝説、石運び伝説、成長する石伝説は、抱えきれぬ石を敢えて抱き抱えて運ぶ物語である。その昔、若者たちは、力を試され、それに正しく応えていた。

 アトラスの神話も、シジフォスの神話も、耐え抜く力の証明物語であった。その力の証明は、世界の存続にも関わってくる。力が証明できなければ、世界は覆る。転がり落ちるのである。「鼎の軽重」が問われるのは、ここである。

 

③力の遊び

 さて幼子が成長を遂げる間、親は子の力の増進を図る。そのような親の姿は、昔も今も変わらない。塾通いさせ学力が付くことを願う。野球教室やサッカー教室に通わせ、体力技術が付くことを願う。原始社会にあっても同じこと、やはり我が子の力のトレーニングをする。日々に重ね行い、年余にわたり続けるという力の鍛錬法があった。

 そのもっとも簡単な方法は、親の身体を押させること、親の身体を動かすことである。その手にしがみ付き、その足にしがみ付き、動かそうとする。少し成長すれば、その腹を押し、尻を押し、腰を押す。さらに成長すれば、その胸を借りる。親が少しでも動けば、もう大喜びである。もちろん親も大喜びである。互いにその達成に喜悦する。

 子の力のトレーニングは、親ばかりが担うものではない。その兄たちも、年長の従兄弟たちも、その地域の子供社会の年長組も、それぞれが指導役を受け持った。幼子を含め、年上が年下を鍛える。それは押し合って喜び遊ぶもの、喜悦の中で学ぶものだった。「押しくらまんじゅう、押されて泣くな、‥‥‥‥」と、楽しく嬉しく、また時には泣く子も出るような、にぎやかな遊びだった。ここでは年上が年下を庇護する。押し合っては、わざと負けてくれる優しい「お兄ちゃん」もいる。だが、いじめっ子、いじめられっ子、痛めつける子、痛めつけられる子、強い子、弱い子、べそをかく子、どこの子供社会にもいる。

 

④共同体の規制

 人々の集団生活の中では、その子供たちに対する監視の目は光っていた。不慮の事故に遭わぬよう、危険な遊びに踏み込まぬよう、子供を庇護する大人たちの体制があった。だから子供たちの遊びの中でも、そのいたずらの中でも、おさな児を保護するルールは育っていた。死に至らしめるような、不虞不能に至らしめるような、重大な怪我を負わせるような乱暴は、しっかりと抑制されていた。

 子供たちの中で、力くらべ、わざくらべ、倒し合いなど、様々に遊び合っていても、やはり危険に踏み込まぬよう、怪我に至らぬよう、子どもたち自身、自ずから抑制が掛かっていた。万が一、危険性が予測されるような事態があれば、たちまち大人たちが出てくる。そして、やり過ぎた子供に手ひどい罰を与える。それゆえ子供たちは成長過程で、このルール厳守をしっかりと叩き込まれていた。

 ルールを守るとは、共同体の規制に従うということである。子供たちは遊ぶ中で、大人の監視を受け続け、ルール厳守をしっかりと身に付けていた。子供同士でも、また互いの監視があり、子供ながらに自己規制する知恵を身に付けていた。子供たちは、社会の規制の中で、社会とうまく付き合うことを、この遊びの中で学ぶのである。

 子供時代に学ぶルール、大人の前でのルール遵守は、やがて大人になった後、神の前でのルール遵守に連なるものである。人々は生きる限り、常に神の監視(共同体の規制)を受けるのである。

 

⑤競技の規則

 力の競技は、ただ相手を倒すということだけに専念するものではない。ルールを決め、そのルールの中で勝敗を競うものである。だからルールに違反すれば、それは神の意に染まぬ行為、すなわち共同体の意に染まぬ行為となる。たちまち試合の場(神の広庭、共同体の広場)から遠ざけられる。つまり失格ということになる。

 己の力、己の勇気を示すには、素手こそが最善で、その素手による格闘技は、神の意にかなうものであった。武器を携えぬ競技であるから、相手に致命傷を与えることはない。共同体の損失は無いからである。裸体あるいはそれに近い姿での競技とは、身に一切の武器を携えないということの証明である。膂力を以てのみ闘うということの強い宣言でもある。それゆえ裸と裸のぶつかり合い、その力の衝突は、まさに格闘技の花であった。

 この力の競技は、単に押す力を競うものではない。押すことを競うとなれば、押し出す領域を最初から設定していなければならない。つまり土俵の如きものが、最初からなければならない。だがモンゴルのブフもコリアのシルムも、そのようなものは無い。そして日本の相撲にしても、その原初の姿に土俵などはない。つまり押し込むだけでは勝利とはならない。

 格闘技において、勝敗を決するものとは何なのか。力ある者が、力あると認められるには、いったい何が必要であったのか。それは実のところ、相手が立つことを許さぬものであった。つまり立ち尽くすことが出来るものが勝者であった。倒れることなく、いつまでも立ち続けることこそが勝利であった。投げ飛ばされ、地に這うものは敗者である。ひざまずき、手を付き、屈服する姿勢、それが敗北であった。さらに仰向けに転がり、最弱点の腹部と咽頭とを相手に曝すことは、もしも戦闘員として出陣するなら、攻撃を受け致命傷を負う。もう決定的な敗北の姿である。そのような状態に対し、負けが宣言される。

 

 

第Ⅳ部、隠岐の原相撲[第4章、闘技の起源]

第4章、闘技の起源(Ⅳー4)

 ①素手と武器(Ⅳー4ー①)

 ②闘いによる損失(Ⅳー4ー②)

 ③集団の秩序(Ⅳー4ー③)

 ④秩序の維持(Ⅳー4ー④)

 ⑤闘争と遊戯(Ⅳー4ー⑤)

 

素手と武器

 格闘技の伝統は、どこの国にもある。それはおそらく人類の起源にも遡るものだろう。食料を求め、肉を求め、動物と渡り合う。その格闘猟法の中に、格闘技の始まりを見る。食料を得るため、水を得るため、その他もろもろを人間同士が争うとき、また格闘がある。

 格闘には武器を持って効率よく闘う場合があり、また武器を持たぬ素手の場合もある。相手を倒すには武器の保有が断然有利である。石や棒、弓矢や剣、銃や大砲、戦艦や空母、はたまたミサイルや核である。武器こそが力であった。

 決闘となれば、拳で相手を倒すより、剣で相手を倒す方が有利である。相手が剣を持てば、だからこちらも剣で応じる。互いに剣を持つなら、さらに防御の盾を持つ方が有利となる。相手の剣を防御の盾で防ぎ、自分の剣で盾を持たぬ相手を刺すのである。勝利に拘る限り、武器の優秀性は絶対条件である。如何に相手より優れた剣を保有するか、如何に相手より優れた盾を保有するか、それが重要となる。「矛盾」の語彙は、ここより発する。

 では素手の闘争が、どうして普及するのであろうか。勝利に拘る限り、素手は全く効率が悪い。どんなに切磋琢磨しようと、武器を超えるものではない。武器を駆使して殺し合う現場で、果たして「力くらべ」など、どれだけの意味があるのだろう。多人数で戦う戦争に、また飛び道具の発達した戦場で、どれほど格闘技が役立つことか。それは全く拙劣な闘争方法と言わざるを得ない。

 人類は狩猟と採集の生活を始めてより、武器の開発をその文化の中心に据えてきた。武器こそ「力」そのものであった。強くありたいのなら、武器の使用を心掛け、その技術こそ錬磨すべきである。だから素手の闘争、すなわち格闘技とは、相手を倒すためだに発達してきたものではない。それが普及するには普及するだけの、また別な理由が存在する。

 

②闘いによる損失

 素手の闘いといえば、動物など皆そうである。猿や犬の喧嘩は、当然ながら武器を持たない。人も原始時代、その喧嘩は武器を持たなかったか。いや、よく考えてみよう。ここには言葉の矛盾がある。人が人となったのは、二足直立歩行により、手が自由に使えるようになったからである。その手で道具を手にしたとき、人は人になった。その道具とは、互いに闘うとき、強力な武器となった。

 原初の武器は、自然界に在る石であった。これを握りしめ、相手を打撲するのである。戦場の武器は石である。これで互いに打撲し合うのである。相(あい)打ち合い、相撲(あいなぐ)るということになる。

 直接、殴り合うことも、また遠くから石を投げ合うこともあった。その武器としての価値は絶大であった。石棒、石剣、石槍、石矢と、発達していく。中世に至っても、なお石合戦の記録は多数残っている。その武器による被害は甚大で、戦闘参加者に直接の死をもたらす。もちろん直接死ばかりではない。多数の間接死(臓器損傷や敗血症など感染死)も起こっていた。さらに骨折変形や失明といった障害も発生する。後年にまで続く多大な後遺症を、戦士たちに残していた。互いに生きるか死ぬか、ぎりぎりの戦いである。そのような部族間の争いでは、武器を取っての戦闘が行われた。素手で争う筈はない。

 だが部族内であれば、武器を取って争ってはならない。死者や負傷者が出れば、それは部族自体の大いなる損失である。賢い部族長なら、そのような損失を許すわけはない。しっかりと武器は制限させた。素手の闘いに限定されたのは、この部族社会の権威(秩序)に負うものであった。

 

③集団の秩序

 さて人の集団とは、いったい何であろうか。それは単なる群れではない。確かに人は猿などと同様、群れる動物であるのは事実である。だがその中に、何らかの序列と秩序とがある。すなわち政治的統率下にある共同体ということである。

 部族社会を構成する集団に、この序列と秩序があったからこそ、他の動物集団を凌駕することができた。統率のとれた集団活動が、集団の維持発展に大きく寄与するからである。この集団は、とりわけ人間のそれは、どんな集団であろうとも共通点が存在する。集団の帰属意識「心の拠り所」である。集団の象徴で、それをトーテムという。集団の帰属する所、結束する心情の合一である。集団が自らを狼の子孫、大鷹の子孫などと自覚する意識である。集落から仰ぎ見る山、集落から眺め遣る海、その彼方に共に信じる神が存在するという意識である。またキリストの子、イスラムの子とする信仰の帰属意識である。時代を降り、博愛主義、社会主義、民主主義などの主義や信条も、皆そうである。その大義が集団結束を促す。

 その「心の拠り所」が生活目標を設定し、統制の取れた集団を構成する。この集団を集団たらしめる核の部分を形成するため、集団は集団を動かすトーテム指導者を必要とした。それが王であり、皇帝であり、法皇である。指導者を頂点とする秩序の形成、階層の構築が、様々な集団内でなされてきた。

 

④秩序の維持

 指導者は如何にして決定されるのか。それは集団の中の最強者である。強者たる基準は、腕力だけを対象としない。知力、判断力、指導力、包容力、その他もろもろの総合力で決定される。だがそのような強者は一人だけではない。当然、多数の強者がいる。互いが、その力関係をもとに、互いの駆け引きの中で、指導者に就任していく。すなわち政治的巧みさを以て、集団内の秩序が維持できる者こそ、この指導者となっていく。

 彼は集団を維持するばかりでなく、さらに発展させていかなければならない。そこに指導者としての責務がある。ゆえに指導者は集団が衰退するような指導をは行う筈はない。集団員が死傷するような行動は、当然ながら取らせない。武器を持っての内部抗争などあってはならないし、集団内では起こさせなかった。揉め事に対し、彼は仲裁や調停を行い、平和裡にことを納めていく。その手段となるのが集団内のルールである。集団が集団として暮らしていけるためには、なんとしても集団としてのルールが守られなければならない。違反する者がいれば、秩序維持のため制裁を加えることも必要となる。それでも守られなければ、この違反者を集団から追放しなければならない。その賢い判断と果敢な実行力とが、指導者には不可欠の資質であった。

 集団内では、互いの行き違いから喧嘩になることもある。だが集団内の喧嘩は、あくまでも素手で行われなければならない。武器を携え闘うことは、集団内では御法度である。死傷に至れば、後々まで禍根を残す。関わる係累があり、関係者が多すぎる。集団の秩序を維持できなくなる。

 

⑤闘争と遊戯

 闘争とは、いったい何か。それは衝突ということであろう。動物の闘争、例えば引っかいたり蹴ったりする二羽の雄鶏、吠え合い噛み合う二匹の犬、角や頭を突き合わせる様々な動物たち、その有様を見てみればよい。だがこの闘争も、同種の場合、互いに殺し合うところまでは進まない。時には咬み合い、負傷することもある。だが、その多くは角を向けたり、牙を剥くという威嚇だけで終わってしまう。優劣が付けば、それで済む。勝者は追い払うだけ、そして敗者は逃げると、動物でも暗黙のうちにルールを作り上げている。

 闘争と見える場合も、その実「じゃれ合っている」ことも多い。よくよく見れば、闘争を真似た遊戯であると、そのようなことが観察できる。動物とはいえ、互いの力を試し、闘争を楽しみ、それを遊戯化させている。そこには仲間内という精神のコミュニケーションがある。人間の場合も同じである。格闘技とは互いの力の試し合いで、その闘争闘技を楽しむものである。勝敗にも拘るが、それだけのものではない。勝敗に拘る限り、ルールを踏み外し、武器の使用に行き着いてくる。

 格闘技の本質は、闘争闘技を介した仲間内でのコミュニケーションで、つまりルールを踏まえた「闘争の遊技」である。闘争においては、力の威力をそのまま、ただ発揮するばかりのものではない。力の使い方、力の方向性、時には力の抜き方さえも重要となる。相手があるゆえの駆け引きで、それは「自他精神の遊技」と呼び替えてもよいものである。その中では、威嚇したり、耐えたり、逃げたり、強く出たり、弱く出たり、押したり、引いたり、いなしたり、かわしたりと、様々な手練手管が展開する。それは身体的な操作の場合もあれば、また精神的な操作の場合もある。意思を押し通すこともあれば、相手の意思を尊重し譲ったりもする。だましもあれば、ねらいもある。説得もある。賞賛もある。そのような駆け引きの遊戯を通して、仲間同士、仲間内としての秩序が作り出されていく。

 

 

第Ⅳ部、隠岐の原相撲[第3章、裸身の力士]

第3章、裸身の力士(Ⅳ―3)

 ①裸身の誇示(Ⅳ-3―①)

 ②力の誇示(Ⅳ-3―②)

 ③敗北服従(Ⅳ-3―③)

 ④服従の舞(Ⅳ-3―④)

 ⑤武装解除(Ⅳ-3―⑤)

 ⑥服従の裸身(Ⅳ-3―⑥)

 ⑦服従の力士舞(Ⅳ-3―⑦)

 

①裸身の誇示

 裸身の力士には、鍛え抜かれた肉体の美しさがある。ギリシアやローマの文化は、その筋肉の躍動を殊に顕示する。アポロンの像やヘラクレスの像は、その典型である。

 古代インドにも、同じく裸体の肉体を讃える文化が育っていた。釈迦と同時代のバルダナーマによるジャイナ教などは、そうである。そのもっとも極端なディガンバラ派は、一切を所有しない、衣服さえも所有しない、という宗教上の理想を具現化している。だから裸行派とも空衣派とも称される。暖かい南国で発達した宗教だからであるが、そのジャイナ教の尊像は、裸体で、ほっそりとして優雅である。それを敬虔な信徒たちは拝んでいる。仏教における仏像や菩薩像にしても、衣を纏ってはいるが、その着こなしは、ゆったりとして肌も露わである。力士の裸も南国の風習かと、相撲の伝播は南伝という説の根拠にもなっている。

 インドの仏典には、肌脱ぎになり力を競う格闘技も記されている。釈迦の生涯を記した『本行経』の第十三桷術争婚品の中に、争婚の力比べの話が語られる。釈迦がまだ悉多太子の頃、弟の阿難陀太子および従兄弟の提婆達多と相撲(格闘技)を行い、彼らを投げ飛ばし、優勝したとある。妃を求めるにあたっての試合である。そのような武術を中国(唐)では「相撲」という新語で、この印度経典を漢訳している。また涅槃経にも「力士」という文字が出現する。肌脱ぎし、筋肉を誇示する者たちのことである。

 だが中国というのは、礼を重んじる国柄である。ふんどし一つの素裸で、衆人環視のもとに取っ組み合うのは、彼らの美意識に反していた。だから裸の格闘技も、裸の舞も、この東亜の中心部では普及しなかった。むしろ西戎とか北狄とか東夷とか、貶められる周辺地域に、この筋肉を誇示する格闘技が普及した。

 

②力の誇示

 モンゴルの夏の祭典「ナーダム」では、闘技に参加する力士は分厚い胸板を誇らしげに広げ、両腕をひらひらと翼の如く広げ、踊るような足取りで登場する。また優勝が決まった後も、大鷲の如く両腕両手を広げ、胸を開き、見物人の前を一巡するのが慣わしである。

 これは明らかに神話の鳥ガルーダの飛翔を模倣している。ガルーダは迦楼羅(伎楽にも迦楼羅はあり)もしくは金翅鳥と呼ばれ、翼を広げると三百万里にも達し、途方もないエネルギーの持ち主とされる。北印度や敦煌の壁画によれば、堅固力士、金剛力士の別称もある那羅延天なる神を背中に乗せ、宇宙の端から端へと飛び回っている。この霊鳥はアジアでは、ほぼ全域で愛され、モンゴルへはラマ経と共に入ってきた。力士たちはガルーダの如く「飛天の舞」を演じ、この化鳥の大力にあやかろうとする。

 ラマ経と真言密教とは、もともと親類筋にある。当然ながら日本にも伝えられ、飛翔する天人、奈良興福寺に現存するような天竜八部衆となっていく。また蜜迹金剛や那羅延金剛となって、天界から降り立ち、阿吽の呼吸で仁王立ちする仁王像となっていく。それは筋肉を誇示する姿、力による威圧する姿である。

 

③敗北服従

 大和国家の膨張は、東(東北)にも西(西南)にも向かっていた。この東西の各地には、力を誇示する勇者たち、逞しい力者たちが多数いた。彼らは、その力を恃み、抵抗を続けていた。倭王武の上表文には「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、云々」とある。この自ら武力を誇った雄略天皇のとき、最初の「相撲」が現れる。

 東の毛人は、確かに相撲と関わりがある。柳田國男の『山の人生』には、山男(毛人)と相撲の関係が載る。東北には山男に鍛えられ強くなった男は、沢山いる。山男とは、むろん「まつろわぬ者たち」毛人である。柳田は岩木山麓の鬼沢村に住む弥十郎という百姓の話を紹介する。彼は薪採りに入った山中で大男と知り合いになり、相撲を教わった。この山男は、弥十郎の行う薪集めだけでなく、谷の水を耕地に引く工事までも、力強く手伝ってくれた。それは山の神の化身、山の霊威を身に賦す怪物の話である。こうした話は、津軽にとどまらず、秋田、山形にも、沢山残っている。これら村々の者たちは服従の結果、節会相撲の昔から、相撲人として召し出され、多くの最手(秀手)を排出していた。

 大和国家の征服の鉾先は、この東北へ向かうばかりではない。今一つ西南を目指す動きもあった。隼人の征服がそれである。古代における隼人という呼称には、猛禽にも比すべき動作のすばしこさ、勇猛さがある。こちらの側にも、また大人弥五郎、大人隼人などと呼ばれる巨人伝説が、ふんだんに残っている。その巨人も敗北し、そして服従に至った。

 折口信夫の『ほうとする話』では、海幸彦と山幸彦の争いとは、山から出てきた人々(大和国家)が水辺に棲む人々(隼人国家)を征服した遠い記憶の反映だとする。海幸彦の実名は火酢芹(ホスセリ)で『日本書紀』は彼を隼人の先祖に充てている。そしてその子孫たる隼人は、相撲を盛んに取ったとされる。それが服属の「相撲」であり、その服属の「相撲舞」こそが「隼人舞」ということになる。

 

服従の舞

 九州の南部、薩摩や大隅地方の居住民たちの伝えた舞に「隼人舞」というのがある。奈良時代には朝貢に際し、たびたび宮廷で奏されていた。また国風歌舞の中に「楯伏舞」というのがある。これは楯を伏せる所作をして、服属の誓いを示すものである。

 同じく国風歌舞の中に「国栖舞」というのもある。応神紀19年、吉野宮行幸に際し、国栖が酒を献じて奏した歌舞という。大和朝廷の国内統一過程で吸収された地方歌舞で、やはり服属の舞である。これは天武天皇の殯宮でも奏されている。

 また「久米舞」も、王権に従属した久米部が伝えた舞である。久米歌は記紀の神武東征伝説中に数種収められている。宮廷儀礼としては、元日、白馬節会、踏歌節会などの節会に、また大嘗祭などに奏されるのが常であった。

 これら全てが、敗北服従の再確認で、そのための舞であった。それが宮中儀礼の中で、群臣居並ぶ中で、奏され舞われるのであった。

 

武装解除

 国家形成の過程で、征服されていった諸地方の勇者たち、力者たちは、天皇の前で、裸体になることを強制された。それは公の場で行われた武装解除である。つまり相撲人の裸体とは、身に寸鉄も帯びぬ絶対服従の姿であった。

 日本の古代朝廷は、古代中国の中華思想(自らを中央にして、四囲に、東夷、西戎北狄、南蛮を配置する思想)に倣い、東に蝦夷、西に隼人を配置し、四囲を統治する形式を採っていた。その統治儀式として、年初の正月には、朝賀の儀式が執り行われる。天皇に対し、皇太子以下諸臣が、新年の喜びを奏上する。そして諸地方では、国庁において国司が属僚郡司を率い、都に向かって朝拝の儀式を執り行う。

 新年の朝賀とは、統治権者たる天皇に対し、諸臣、諸地方が行う服属儀礼なのである。そして年の後半の最初、7月には相撲節会が行われる。それもまた諸地方が天皇に対して行う、忠誠を誓う服属儀礼なのである。

 相撲節会では、地方から招集された力者(相撲人)たちが、かつての服従のさまを再演する。武装解除された姿、裸体となり、天皇の前で戦いを再演する。つまり勝負を賭けて力技を披露し、その力戦を競うのである。戦いの末に、敗者は服属するさまを演じ、勝者はその勝利を天皇に捧げる。相撲とは、この戦いの再演、そしてそれに伴う服属の儀礼、そして統治権の確立そしてその確認の徹底であった。

 

服従の裸身

 力士とは、ある特殊な何者かである。東亜の伝統に従えば、裸になり廻し(締め込み)を締めたとたん、普通人とは違う何者かに変身する。天皇や将軍や大名の面前といえども、礼法を無視し、胡座で酒杯を傾けることが許される。それは彼を金剛力士の権化と見做す密教信仰より発している。すなわち大日如来に付き随う者である。

 力士は本名を捨て四股名(しこな)すなわち醜名(しこな)をつけねばならない。大日如来に奉仕するものとして、彼らはいってみれば僧侶と似た立場にある。それは一旦死ぬ立場にあるものという意味である。出世遁世とは、いわば仮の死である。剃髪するというのも、これで、首を刎ねる代用に髪を剃り落とすのである。法名とは生前戒名で、法名を持たぬ僧侶があり得ぬと同じく、力士は醜名を持たねばならない。醜名は力士にとって、力士たるを証明する不可欠の属性である。それは死に際しての戒名と同じで、服従の結果、奴隷の身に落とされ殺されることを、一旦、決意するからである。

 力士は武装解除され、衣服も剥ぎ取られ、身に寸鉄も帯びぬことを、その裸の身を以て証明しなければならなかった。この卑しい奴隷の身は、その卑しさ極まれば、また聖なる神にも転換する。一旦地に屈した力士は、踏み付けられる大地の中で、仮の死を遂げ、やがて地の聖霊にも変身する。それが力士というもの、聖なる力者、神の如き力人である。

 

服従の力士舞

 万葉集に次のような歌が載る。

 

  池上の力士儛かも 白鷺の桙(ほこ)啄(く)ひ持ちて 飛びわたるらむ

                      長忌寸意吉麻呂 (⑯3831)

 

 これは「画賛の歌」で、宴席での絵解き歌と解されている。長忌寸(ながのいみき)意吉麻呂(おきまろ)による「白鷺の木を啄ひて飛ぶを詠む歌」で、宴席にこのような絵が掲げられ、その飛ぶさまを歌にせよと言われたのである。

 この「力士儛」とは、果たして如何様な舞であったのか。節会相撲の原型たる高句麗古墳(角觝塚)の相撲図の如き、巨木(神樹)の下で演じられた「力士舞」の絵であったろう。その巨木には霊鳥(白鷺)が停まっている。それは秩序立った儀礼絵画の一つである。

 だが意吉麻呂は、柿本人麻呂と同時代の人で、持統、文武朝の人である。彼の作風は即興の戯笑歌(ざれうた)である。だから、しゃちこばった儀礼絵画を、そのまま詠うわけはない。「力士舞」を詠った彼の歌は、ひねりを入れ、笑いを取るものと解さねばならない。

 当時「力士舞」なるものが、池上の畔などで演じられていた。それは伎楽の一つ金剛力士の舞で、その名称(演題)は「力士」である。美しい呉女(ごじょ)に懸想する怪物の崑崙(こんろん)を、金剛力士が降伏させるというものである。意吉麻呂の詠った「力士舞」とは、この金剛力士の演劇舞であった。呉女を追う崑崙のいきり立つ男根を、金剛が桙で打ち叩き、その男根に縄を付け、引っ張り回すという卑猥な舞である。「マラフリ舞」とも称されていたから、笑いを取ろうとする意吉麻呂が目論むにふさわしい。

 だが、よくよく考えて見れば、これも服属劇の一つである。怪物崑崙とは、戦いに敗れた力者、なぶりもの、笑いものにされた敗者なのである。彼の振り回す男根とは、彼の凄まじい武器の象徴であった。それを打ち破り、その武器を取り上げ、引き回す英雄(金剛)の凱旋式なのであった。そのような晴れの舞台での勝利舞こそが、この劇の本来の姿である。建御名方(タケミナカタ)と建御雷タケミカヅチ)の相撲の原型を、ここに見る。

 

第Ⅳ部、隠岐の原相撲[第2章、相撲の発生]

第2章、相撲の発生(Ⅳ―2)

 ①農事儀礼説(Ⅳー2ー①)

 ②年占説(Ⅳー2ー②)

 ③葬送儀礼説(Ⅳ-2ー③)

 ④贖罪決闘説(Ⅳ-2ー④)

 ⑤神明裁判説(Ⅳ-2ー⑤)

 ⑥勝利者権能説(Ⅳー2ー⑥)

 ⑦演劇説(Ⅳ-2ー⑦)

 ⑧見世物説(Ⅳ-2ー⑧

 ⑨変形進化説(Ⅳ-2ー⑨)

 

①農事儀礼

 彦山光三の『相撲道綜鑑』は相撲の意味を農事の儀礼に置く。土俵の四本柱から説き起こし、五穀豊穣を祈願する相撲というものの意味を、彦山は考える。「四本柱を仏教に謂う須弥の四天に該当させ、西北柱を多聞天、東北柱を持国天、東南柱を増長天、西南柱を広目天にしたり、中国式に天の四神に相応させ、西北柱を玄武、東北柱を青龍、東南柱を朱雀、西南柱を白虎としたりすることは、理由もあり価値もあったであろうが、いささか形式に堕し、精神を逸脱した感が深い」という。それよりも農事生産が四季の循環を基調とする天候に支配されていることから、この春夏秋冬を象徴していると見る方が妥当だという。そして「農業国日本にあっては、四季の象気のつねに順調であらうことを切願し、五穀の豊饒を祈念するため、天神地祇とともに、四季を神化してこれを祭るのである。こと生産に関するがゆゑに、渾身のまごころを気力体力の日本的調和の極であるところの相撲によって顕露し、神々の嘉納を冀って神助を仰いだ。民族信仰に基づいた古来の行事が、現在にまで伝存されてゐるのである」という。

 相撲の根本を農事儀礼に置くことの意味は、彦山の説くように重要ではあるが、相撲は日本にだけ存在するものではない。遊牧の民にもあり、漁労民の中にもあり、また同様のものは世界の各地に存在する。

 

②年占説

 柳田國雄の『妖怪談儀』には「古人は腕力と勇気との関係をいまよりも一層深く結び付けて考えて居た。力の根源を自分一個の内にあるものと信ぜずして、何か幸福なる機会に外から付与せらるるものの如く解して居た。石を持挙げて見てその重さ軽さの感覚に由って願い事の叶うか否かを卜したと同様に相撲は又神霊の加護援助が何れの側に厚いかを知らんとする方法の一つであった」とある。

 折口信夫の『草相撲の話』も、古い時代の人々は、現代の我々とは違って「力の強さ」を個人の肉体に属するものとは考えず、何か超自然的な存在の恩恵とみなす傾向があったことを語る。折口によれば、九州の農村では、相撲場は村いちばんの用水のほとりに作られるのが常だった。田の神に扮した若者と、水の神の役をつとめる青年とが、そこで相撲をとった。かれらは裸身に青草をまとって演ずる習慣を持っていたので、いつしか「草相撲」と言われるようになったという。場合によっては本物の人間の代わりに、草人形や藁人形が使われるためしもあったという。行司はもちろん村の鎮守の神主が引き受け、勝負の結果によって、その年の米作の豊凶を占ったのだという。藁人形は占いが終わったあと、海や川に投げ捨ててしまう。単に用が済んだというばかりではなく、人々の罪や不幸を祓う道具として水に流された、と説明を加える。

 なかなか良くできた説明ではあるが、何かはぐらかされた感じがする。そもそも神観念が始まるより以前に、動物のじゃれあう中にさえ、相撲の起源はある。

 

③葬送儀礼

 相撲を葬送儀礼と説く識者もいる。神巫が執り行う死穢からの脱却の舞、それは葬送の儀礼舞でもある。『日本書紀』皇極元年(642)に記載される百済王子「翹岐」の前で行われた相撲も、そのような葬送の舞であった。

 葬送に関わった、その二人の舞で、死葬の時、屍体を取り扱う仕事に服したものたちの儀礼舞である。彼らは臭気を抜こうと、裸になって水の中に入り、動き回り、身をこすり合わせて洗った。そして身も心も清々しくなって、喜びに舞う。葬礼葬儀に参加した彼らの、浄めを果たしたという証となる舞踊である。

 伊邪那岐イザナギ)が日向の橘の小門という海辺で行った禊ぎとは、そのような死穢を祓う裸の姿である。伊邪那美イザナミ)の腐敗し崩れ落ち、蛆のたかった屍体に接したから、その身を水洗いせざるを得なかった。『魏志倭人伝』に載る葬送の儀礼にも、同様のことが汲み取れる。「始め死するや、停喪(葬るまで服喪)すること十余日、時に當りて肉を食はず。喪主は哭泣し、他人は就いて歌舞飲酒す。已に葬るや、挙家(家人すべて)水中に詣りて澡浴(みそぎ)すること、以て練浴の如くす」とある。腐敗した屍体に十数日も接していれば、臭気は付着し、そう簡単に除去できるものではない。しっかりと汗や垢や汚れを、その身からこすり落とさねばならなかった。その洗い浄めが終われば、いよいよ忌み明けとなる。その清浄さを周囲に公にすることこそが、浄めの舞(葬送の舞)であった。

 

④贖罪決闘説

 相撲を犠牲舞と捉えることも可能である。『魏志倭人伝』によれば、倭人はことごとく顔や身体に入墨し、つまり身を汚し、それで水禽の害を防ぎ、水に潜り魚を捕っていた。彼らは、その裸のままに、みそぎ、はらいなど、聖なる儀式を執り行っていた。

 裸のままに聖なる儀式を執り行う神巫も、儀礼の前は汚らしい「持衰」として、衆の罪穢を一身に被るものであった。頭髪を梳らず、虱を取り去らず、衣服は垢に汚れたまま、肉を食べず、婦人を近づけず、喪に服している人のように過ごす。一旦、不具合があれば、神巫としての犠牲舞を舞う。すなわち髪を落とし、裸になり、入水し、死を以て償う。

 神争いに負ける八重言代主(ヤエコトシロヌシ)の如く、敗者の日本武尊ヤマトタケル)に付き随う弟橘媛オトタチバナヒメ)の如く、山幸彦に負ける海幸彦の如く、溺れる舞、つまり死の舞を舞う。敗北とは汚れであり穢れであり、死を以て償わなければならなかった。

 これらは、いずれも神への贖罪であり、敗北により犠牲となる姿である。フレイザーの『金枝篇』に見る「殺される王」の伝説とつながっている。決闘し勝利すれば玉座へ登り、敗北すれば犠牲となって屠られる、あるいは奴隷となるという姿である。

 

⑤神明裁判説

 足立照也『フィリピンの相撲』によれば、M.ロペスの報告するフィリピンの相撲に、紛争解決の手段として相撲が挙げられている。ルソン島にはポントック族という少数民族が暮らしているが、その人たちの間で揉め事が生じた時、相撲競技(ウン・ウノング)が開かれる。例えば他人のものを盗むといった個人的な揉め事か起こった場合、当事者同士で、この相撲競技を行うことで決着をつける。また二つの村の間で棚田の水利権をめぐる紛争が起こった場合、それぞれの村を代表する者が選ばれ、やはり相撲競技を行う。

 勝負の裁判は、アニト霊という超自然的な存在の判断に委ねる。アニト霊が守護霊として、個人や村(集落)を護ってくれる場合もあれば、そうでない場合もある。アニト霊の判断が間違いであると思えば、またアニト霊と相撲競技を行うといった場合もある。

 日本における神との相撲や、聖書におけるヤコブが天使と相撲をとったことなどと類似する。勝負相撲が神明裁判となるには、ある信仰体系の存在が前提である。つまり勝利とは神(超自然的存在)が勝者に与える加護の証しと見做される文化観念(宗教概念)がなければならない。

 

勝利者権能説

 相撲とは、競技一般がそうであるように、優劣を判別する文化装置である。それを、さらに神を持ち出すことによって、正邪をも判別しようとする。ここには相撲が力士と力士の純粋に生理学的な「むき身の力」の対戦ではなく、力士の背後に控える霊的な力と力の対戦があると考えられている。だから勝負の判定を下すのは神であり、勝利者とは神から神意を賦与される者だとする。そして敗者とは神の意思にそぐわぬ者であった。これが闘審文化(決闘文化)の本質である。

 王者とは神に愛でられるものを指す。決闘の場に身を置き、次々に挑戦を受けても、ただ一人倒れることなく、立ち続けることができるもの、最強の存在である。王権神授説の成立基盤はここにある。王者の前では、全ての人が膝を折り、身をかがめ、頭を垂れ、敗北の姿を呈するのである。その中で、王者のみが、ただ一人屈することなく、頭を轟然と上げ、周囲を睥睨し、その力を顕示する。だから何としても勝たねばならない。また勝ち続けるからこそ王であった。

 勝利した王の姿は、天に向かい聳え立つもの、その頭頂には勝利の象徴たる王冠が、天空を指して燦然と耀く。その王権は、それゆえ永遠に立ち続ける世界樹の如きものとなる。当然ながら倒壊したり、朽ち果てるようなものではない。勝利者は王冠を手に入れ、巨大な権能をその手に握ることとなる。

 源頼朝徳川家康征夷大将軍の称号を得て幕府を開いた如く、選挙戦に勝ち抜いた議員たちは、勝利の表徴(議員バッチ)を手に入れ、政治を左右する発言権を、国会で持つ。そのような議員同士の選挙戦を経て、日本では最後の勝利者が首相となる。この戦いに勝った者こそが、最大の権能を持つ。

 勝利者こそが権能を持つ。それを周囲も、認めざるを得なかった。最手(もて)の称号を持つ者は、土俵における第一人者で、それだけで他を圧した。大相撲で言えば注連縄を張る横綱の存在は破格である。もう土俵の神をも象徴する存在になっている。相撲とは、その勝つことを象徴するイベントである。その勝利を見せつけ、見届ける場こそが、まさしく土俵であった。

 

⑦演劇説

 俵を並べた円い土俵、土俵を覆う神明造の大屋根、その屋根の四方に垂れる四色の房、神主を思わせる装束の行司、また行司から祭主となって執り行う土俵祭、力士が行う力水、四股、塩撒き、拍手、手刀、そして横綱の土俵入り、弓取り式と、これらの一つ一つは、実は近世以後に創り出された様式(相撲儀礼)である。スポーツ的な要素よりも、むしろ能や歌舞伎を見る如き、見事なまでに洗練された様式美が、ここに展開する。

 力士の化粧まわし、大銀杏の髷、鍛え抜かれた裸体など、豪華な能衣装や歌舞伎衣装と比較し、決して遜色は無い。格闘技というより、演劇的(舞台劇的)要素の方が濃いのである。しかも土俵は単なる競技場ではない。四色の房は東西南北を象徴し、これによって土俵は能舞台の如く、世界を表現する演劇空間となっている。

 相対する力士に導かれ、その勝負土俵を見れば、神楽祭場で演じられる神楽世界とも、神の降臨する聖なる天壇にも、あるいは仏の曼荼羅世界や、八百万の神々の座す天界の中心へと変化する。まさに聖なる演劇空間で、飛翔する天空の彼方、幻想の展開する夢舞台なのである。

 そのような美的様式は、確かに近世に至り新たに創られたものではあるが、その形式を在らしめている「聖なる宇宙」観は、遠く奈良朝、平安朝において、宮中で行われていた相撲節会の様式を拝借したものである。さらに言えば、節会相撲を節会相撲たらしめる宮中舞楽、その前代からの伎楽様式を、しっかりと受け継ぐものであった。つまりそれを理想型として受け継ぎ、近世において興行相撲の文化性を高めたものである。

 そもそも相撲と演劇との間に、本来そんなに大きな違いはない。例えば、相撲の初切りは、笑いを誘う狂言とよく似ている。禁じ手と反則とを、わざと繰り返し、場内を爆笑に誘い、挙げ句の果ては箒を持って行司を追い回したりする所作は、まさに喜劇役者のそれである。厳粛なるべき勝負をコミカルに演じ、またパロディー化することによって笑いを誘い、神の心をやわらげ、併せて人々のなごやかな交流をはかっている。

 力士とは明らかに舞台俳優、人気俳優であった。新しい相撲場開きを祝い催される「三段構え」など、古式ゆかしいものも格闘技ではない。それは麗しい舞台舞である。土俵も舞台も、ともに神に捧げ、同時に普通の民も、お相伴のかたちで見物が許されるものであった。

 

⑧見世物説

 見せる競技、見せる相撲、見せる演劇としての相撲は、実は遙かな昔、雄略朝にも遡る。『日本書紀』雄略13年9月の女相撲の逸話に、その淵源を発する。

 猪名部真根という木工の達人が「終日、斧を取り、石の台の上で木を割るが、斧の刃を傷つけることは断じてない」と、かねてから自らの腕を自慢していた。雄略天皇はその慢心を憎み、真根を召して木を割らせ、その目につくところで、宮女を呼び集め、裸にして褌をしめされ相撲を取らせた。その女相撲に気を取られた真根は、つい斧を傷つけてしまった。その結果、天皇に対して不遜な豪語をした罪で、あやうく殺されそうになった。これが日本の史書に最初に「相撲」と記された例である。

 美しくかしずく宮女が争うわけはない。組み手を命ぜられても、嫋々たる手弱女たちである。力業を発揮するわけはない。それは素裸となっての舞、見世物の芸であった。「素裸に褌」という、そのあられもない「素の舞」に、真根は思わず目を奪われ、手元が狂ってしまった。だが見せ物としての素裸の舞、つまり「素の舞」には、まだ先駆者がいる。あの天宇受売(アメノウズメ)の舞である。それは日本芸能の始まりであった。

 女性の美しさを示す素裸の舞は、この雄略朝以後、史書から姿を消す。鍛え抜かれた男の肉体美を示す相撲のみが記されていく。しかし、見世物としての女相撲が消滅したわけではない。明治、大正、昭和の時代にあってさえ、それは存在していた。

 

⑨変形進化説

 伝統とは、長い年月を経たものと言われ、そうとも思われている。たが果たしてそうだろうか。古式ゆかしい大相撲の様式も、その実、近世以降のものである。奈良平安の節会相撲を模し、王朝の過去を参照するもので、いわば新たな伝統の創出である。

 烏帽子狩衣の行司の衣装、神明造の土俵の屋根、裸体に犢鼻褌(たふさぎ)の力士姿、拝領の布帛(化粧まわしや白い捻り綱)など、これらは、かつてあった様式と儀礼を取り込み、新たに再構築したものである。いにしえの儀式を、日々反復して様式化し、衆に供覧することで、特殊な相撲社会を世に展開して見せた。それは立派な伝統の確立である。

 近代以降、現代に至るまで、恒常的な変化および革新が、世界的規模で起こっていた。これと対照的に、社会生活の少なくともある部分だけを、永久不変のものとして構造化しようとする試みもなされてきた。それが伝統の保存というものである。

 日本の大相撲は、過去の文化の一局面を、現代の我々に見事に提示する。例えば、丁髷の髪型で、太刀を佩き、弓を操る。歌舞伎や能などと並び、まさに伝統という名に値する文化の供覧である。その儀礼や象徴の複合体は、過去を参照する視点を作り出し、現代の我々に与える。それは捏造された、架空の、まさに創られた伝統である。だが幻想であるがゆえに、真実を誇張し、今を生きる我々に強烈なインパクトを与える。

 土俵に象徴される農耕文化、その豊饒儀礼とは、江戸期の農耕社会の反映に他ならない。だがそこからさらに稲作農耕の起源にまでも遡る幻想を、いや人類の始原にまで遡る幻想を、我々の眼前に展開する。この挿入された伝統が持つ歴史的な過去とは、遙かな過去に遡るものでもなければ、その過去から延々と続いているものでもない。その間には巨大な断絶が存在する。だがそのようなことは、むしろあって当然のものである。その当然の断絶や、革命や進歩的展開というのは、その本来の定義からして過去を断ち切るものである。その断ち切ったところから、また新たな伝統が始まるというものである。

 相撲は中世の断絶を経験し、そこから大きく飛躍した。近世に至り新たな伝統を創り出し、切断され忘れ去られた古代を、その形式化と儀礼化の過程で繋ぎ、広く深い溝を埋めていった。たとえ歴史的な過去との連続性が、おおかた架空のものだということであっても、この創られた伝統は、古い状況に言及する形を取り、あるいは古様式、古儀礼を反復することによって、逆に過去を築き上げることに成功した。いかなる過去であったかを様々に類推させ、文化的遡及を可能ならしめた。

 相撲社会は、特徴的な自らの活動性と正当性、そして独自性とを確立し、相撲人集団の結束を促していった。だから新しい世、新しい状況に直面しても、この特徴的な伝統と意義を主張し、集団の印象をいっそう深めることができた。幾たびも襲った廃絶の危機を、この相撲社会(大相撲の組織)は見事に乗り切った。そして、その模造の古式相撲を今に伝えるのである。