2020-01-18から1日間の記事一覧

山陰沖の歌の語り(45)

第6章、歌の変容 第12節、時衆と連歌 南北朝の動乱期には、種々雑多な芸能者たちが社会の表面に現れていた。民衆と共に連歌をうたっていたのは、主に時衆(後には時宗と称した)の徒である。市の聖として遍歴するこの宗教者たちは、宗祖・一遍(1239~89)以…

山陰沖の歌の語り(44)

第6章、歌の変容 第11節、室町大名の連歌熱 婆娑羅の大名として有名な近江守護の佐々木道誉、その連歌熱も、また大変なものであった。文和年間(1352~56)の千句連歌、和漢連句の催しは、彼の主催による。太平記によれば、道誉は大原野に於いて自ら花会を主…

山陰沖の歌の語り(43)

第6章、歌の変容 第10節、連歌の隆盛 二条良基が地下連歌師の救済を師として連歌に打ち込んだのは、連歌特有の開放感と連帯感の所以である。ここに参加する者たちは、身分の違いを超え構成する歌世界へ、その心身を没入させていた。良基と救済による菟玖波…

山陰沖の歌の語り(42)

第6章、歌の変容 第9節、花の下の連歌 刻々と創造される連歌世界は、物語世界へ、演劇世界へ、また人々を妖しく誘うものであった。確かに連歌師たちは説経節を語り、猿楽や田楽を演じ、神仏の功徳を語り、劇的世界を創出し始めていた。歌と踊りと語りに彩…

山陰沖の歌の語り(41)

第6章、歌の変容 第8節、連歌の普及 建武三年(1336)湊川合戦があり、南朝方の新田義貞、楠木正成らは敗れ、九州から攻め上って来た足利尊氏が覇権を確立した。そして建武式目が制定される。室町幕府の成立である。式目には次の如くある。 近年 婆娑羅と…

山陰沖の歌の語り(40)

第6章、歌の変容 第7節、後醍醐の建武新政 後醍醐の力の源泉は、新たに勃興してきた中小商工業者たちの経済力に負う。後醍醐の新政は、彼らの経済的繁栄を促進するため、積極的な通商交易政策を採った。関所停止令や、市場交易の貨幣たる「米価」の安定政…

山陰沖の歌の語り(39)

第6章、歌の変容 第6節、後醍醐の決意 脱出した後醍醐を追って、隠岐判官の佐々木清高は伯耆へと渡った。だが後醍醐を守る武力は既に準備されていた。出雲に在った一族の富士名(ふじな)判官・佐々木義綱は、既に後醍醐を支える立場にある。旗幟鮮明にし…

山陰沖の歌の語り(38)

第6章、歌の変容 第5節、後醍醐の隠岐脱出 後醍醐は彼ら廻国の聖たちの支援を受け、春夜密かに、軟禁されていた隠岐黒木御所を脱出した。その脱出経路はと言えば、当然ながら船の道である。黒木御所のある別府湾は警戒厳重で、逃亡は困難であったから、徒…

山陰沖の歌の語り(36)

第6章、歌の変容 第3節、後醍醐の登場 新古今和歌集の成立から約百年を経過した文保二年(1317)大覚寺統の後醍醐が帝位に就いた。彼は永続する強力な皇権を目指し、倒幕に立ち上がった。正中の変、続く元弘の変である。 だが武力を持たぬ後醍醐は容易に潰…

山陰沖の歌の語り(35)

第6章、歌の変容 第2節、連歌の始まり 連歌は、後鳥羽や定家や家隆ら、新古今の歌人たちによっても愛好されていた。承久の乱の以前から、もう既に詠まれている。そのような初期の連歌群を、以下に示しておこう。 (前句)嶺高き 照射(ともし)の影に たつ…

山陰沖の歌の語り(34)

第6章、歌の変容 第1節、歌の分裂 京の文雅を武威で圧倒した鎌倉は、文雅世界の象徴たる帝権を二分し、弱体化を図った。持明院統と大覚寺統という両統迭立の開始である。 持明院統 ┌─ ② 後深草 ── ⑤ 伏見 ──┬─ ⑥ 後伏見 ① 後嵯峨 ─┤ └─ ⑧ 花園 └─ ③ 亀山 ─…