第Ⅱ部、隠岐の神相撲[第1章、中世村落の相撲]

第1章、中世村落の相撲(Ⅱー1)

 ①古式の神相撲(Ⅱー1ー①)

 ②神仏習合の祭事(Ⅱー1ー②)

 ③武力結集の祭事(Ⅱー1ー③)

 ④隠岐への武士の参入(Ⅱー1ー④)

 ⑤近江佐々木氏の入部(Ⅱー1ー⑤)

 

①古式の神相撲 

 隠岐は島前(前方の三島)島後(後方の主島)に二大別される。その島前(西ノ島町)に2カ所、島後(隠岐の島町)に1カ所、古い伝統を持つ神相撲が残されている。

 島前のものは、西ノ島町浦郷(かつての隠岐国知夫郡宇良郷)の日吉神社の祭礼、同じく西ノ島美田(かつての隠岐國知夫郡美田郷)の美田八幡宮の祭礼、この2カ所で行われる。今1カ所、島後のものは、隠岐の島町中村(隠岐国穏地郡武良郷)の日月陰陽和合祭で行われる。

 日吉神社の祭礼は、近在の村々を集め、同じ浦郷村にある別当寺(常福寺)の協力のもとに行われる。同じく美田八幡宮の祭礼も、近在の村々を集め、同じ美田村にある別当寺(長福寺)の協力のもとに行われる。中村の日月陰陽和合祭も、近在の村々を集め、八王子神社別当寺たる常楽寺との共催で行われてきた。だが常楽寺は明治の廃仏毀釈で破壊され、その寺内社たる一之森神社が、今は祭礼を継続する。

 いずれも神仏習合の祭祀である。そして周辺の村々が集う惣村の祭祀である。日吉神社の例祭日は10月9日(元は旧9月9日)で奇数年、美田八幡宮の例祭日は9月15日(元は旧8月15日)で偶数年と、交互に秋に執り行われる。また中村の日月陰陽和合祭も、隔年10月19日(元は旧9月9日)で、やはり秋祭である。ここで行われる相撲とは、豊穣の秋を神仏に感謝し、村々の衆が集い、共に喜び祝うものである。つまり収穫の秋の感謝祭であった。

 

神仏習合の祭事 

 神仏習合の祭事は、そこでの相撲は、平安末期の記録にも載る。源師時(1077~1136)の日記『長秋記』は、天永2年(1111)8月22日、相撲人を率い賀茂社に相撲奉納を行ったことを記す。

 師時は相撲が好きだった。保延元年(1135)8月15日条には、石清水八幡宮放生会で催された相撲についてを記している。「次に相撲17番、庁頭忠清いわく、節(せちえ)ある時は最手(もて)以下みな参る」とある。神仏習合の中で相撲十七番が行われ、相撲人は最手(最強の相撲人)以下の全てが参加した。

 既に末法の時代、法滅の時期に入り、治安も乱れ、民衆の不安は増大していた。放生会では傷害や殺生の罪の寛恕を願ったのであるが、それと同時に、自らが所属する貴族社会に、力の賦与を願い、力の信奉、力の奉納を行ったのである。保延元年と言えば、平忠盛が海賊討伐に功を立て、その子清盛が従四位下に敍せられた年である。力を持つ武士が、いよいよ台頭してきた。

 

武力結集の祭事 

 大和国奈良、春日若宮神社では保延2年(1136)興福寺の芸僧たちの参加で、舞楽、猿楽、田楽、相撲など、諸種の芸能が奉納されている。今で言う芸能の祭典(フェスティバル)で、これが盛大に執り行われた。

 この芸能の本体たるや、競馬(くらべうま)、流鏑馬(やぶさめ)、的射(まとい)、相撲などと、新たに台頭してきた武士の力の饗宴であった。大和六党と称される大和国の武士団が、興福寺および春日社の支配下に、新たに編成されていく過程での祭事であった。衆を集う芸能祭は、勃興してきた新たな勢力を、この大社寺の権威の下に組み込むものであった。そして芸能づくしの喜悦は、彼らの結合をしっかりと促す求心力として働いた。

 出雲国一宮である杵築大社(出雲大社)の中世における遷宮神事では、競馬五番、流鏑馬五番、相撲十番が行われている。これは神の名の下に行われた国の強者どもの招集である。別当寺である鰐淵寺の協力の下、その支配下にある郷村への力役賦課、徴兵の如き武力編成であった。一旦ことあれば、この者どもを呼出し、武力行使に役立てるのである。

 延文元年(1356)頃の成立という『諏訪大明神画詞』にも、同様のことが読み取れる。当時、4月15日、5月6日、7月29日の三度にわたり、国内郷々から相撲人を徴発し、諏訪社において祭礼相撲を執り行った。やはり力役の招集で、神の名を借りた武力編成である。『神道集』に載る諏訪縁起「甲賀三郎伝説」にも、また同様のことが読み取れる。膂力のある若者たち、地方武士の結集が、神仏習合の中で、ここ諏訪社において行われていた。

 隠岐でも村落共同体を包括する大社寺があり、村々の結合を促す求心力として働いていた。殊にその祭礼は、結集における重要な意味を持っていた。

 隠岐一宮たる水若酢神社の祭礼でも、別当寺の願満寺から僧侶が出向き、その協力による獅子舞が奉納されている。この神仏習合の大祭において、競馬、流鏑馬、相撲の奉納がある。奉納相撲の深層には、古い昔の政治的策謀、武力糾合の意味がある。一旦ことあれば、この力者たちに武器を取らせ、戦いに赴かせるのである。

 

隠岐への武士の参入 

 離島の隠岐へ、武士が参入したのは源平争乱の時代である。八幡太郎義家の嫡男、源義親が、その武威を疎まれ康和3年(1101)隠岐に流されてきた。

 

    河内源氏系図

        源頼信―頼義―義家―義親―為義―義朝―頼朝

 

 対馬守として九州に勢力を扶植し、西海に覇を唱えていた義親は、隠岐に流された後も、なお屈服することはなかった。彼はその勇武をもって、隠岐の島前と島後とを従える。さらに海を渡り、出雲国へと進出した。この地に支配権を確立し、山陰沖から西日本海の覇権、さらには若狭を経由する京への海上交通権を、その手に握ろうとした。この義親の前に立ちはだかったのが平家(伊勢平氏)である。

 平家の棟梁たる平正盛隠岐守であった。やがて若狭守そして因幡守に転任したが、山陰一帯で暴れ回る義親を、その関わる行政官の立場上、倒さなければならなかった。正盛は白河上皇の命を受け、軍を率い出雲に赴き、その義親を討ち取った。以後、激しく競い合う源平争乱の、これは幕開けとなる戦闘であった。

 

    伊勢平氏系図

        平貞盛―維衡―正度―正衡―正盛―忠盛―清盛

 

 義親を倒した正盛は、義親に替わり西日本海の覇権を掌握する。この地域、海域に、ようやく治安が回復した。正盛の子の忠盛の代に至り、平家は瀬戸内海の海上交通権をも握った。孫の清盛の代に至り、ついに平家は天下の権を握った。

 律令国家の崩壊と共に、隠岐にも荘園が設定される。隠岐守の平正盛以来、隠岐は平家の荘園領に組み込まれていた。だが治承(1177~81)養和(1181~82)の源平争乱により平家は没落した。替わって源氏の棟梁、源頼朝が天下の権を握った。

 

近江佐々木氏の入部 

 建久4年(1192)近江佐々木氏の惣領(太郎)定綱は、頼朝挙兵以来の大功により、近江、長門、石見の守護と、隠岐国一円の総地頭職に任じられた。

 佐々木氏は、元来、近江国蒲生郡佐々木荘の土豪下司職)である。隠岐は佐々木の支配を受けてより、一挙に近江の文化が流入した。定綱の死後、長子の広綱が隠岐支配を受け継いだ。だが広綱は承久の乱(1221)で京方に属し、斬首されてしまう。替わって五郎義清が隠岐守護職に就く。以後、義清の一統が代々隠岐支配を行った。

 

  近江佐々木氏系図

   佐々木秀義─┬太郎定綱───┬広綱(承久の乱で刑死)

         ├二郎経高  └信綱──┬泰綱(六角佐々木氏)

         ├三郎盛綱      └氏信(京極佐々木氏)

         ├四郎高綱

         └五郎義清(隠岐守)─┬政義(隠岐太郎)

                    └泰清(隠岐次郎)‥‥清高(隠岐判官)

 

 佐々木氏による近江文化(神仏混淆の文化)が、こうして隠岐に入ってきた。神仏への奉納相撲、すなわち武士による力の奉納が、隠岐の相撲文化を作り上げたのである。