隠岐の相撲(3)

第Ⅰ部、隠岐の宮相撲

第3章、三役の登場(Ⅰー3)

 ①番付編成の起源(Ⅰー3ー①)

 ②大関・関脇・小結(Ⅰー3ー②)

 ③横綱の創設(Ⅰー3ー③)

 ④横綱の綱の重さ(Ⅰー3ー④)

 ⑤横綱の綱の起源(Ⅰー3ー⑤)

 

①番付編成の起源

 相撲の番付の起源は、遠く相撲節会にも遡る。その順位表は相撲人交名といった。平安時代相撲節会では、実施に際し、1か月ほど前から相撲司が編成される。中納言、参議、侍従の中から、左右12人ずつが任命され、さらに親王別当(長官に該当)に当てられる。この相撲司が相撲節会の運営にあたる。つまり編成会議を開き、そこで順位取組を決定する。

 江戸相撲でも上方相撲でも、番付編成は年寄あるいは頭取たちの行うべき役柄だった。彼らは合議の上、折り合いを付け、順位取組を決めていた。そして番付表ができあがる。だが格付けというのは難しい。年寄(頭取)たちの中には、自らの下に相撲人を集め、日常的に稽古をし、自らの膝下で鍛えていた。だから番付順の選定にあたり、身内に対する身びいきがあり、恣意的順位も現れていた。それによって、しばしば紛糾も起こっていた。

 隠岐の宮相撲でも、村々の長老(年寄、頭取)たちが一堂に会し、番付編成会議を開き決定する。だが様々な事情が錯綜し、これがなかなか難しい。何日も掛け、何度も議論を重ね、その上でようやく順位取組を決定する。だが実は、その間の丁寧な話し合い、納得の話し合いこそが、地域の融和と結束力を作り上げる。人々の相互信頼を強固なものに作り上げる。その話し合いこそ、地域を動かす最重要の作業であることを知らねばならない。

 さて、番付で力士の名が本来の位置にあるものを正位という。それ以外は番付の外にあるため、番外という。番付表が出来上がると、表の外つまり枠外(番外)に張り出されるため、番外は、また張出とも呼ばれる。それが張出大関、張出関脇、張出小結の番外三役である。ここからさらに外に貼り出されるのが番々外である。これは地域の融和のため作り出された地位枠で、本来のものではない。

 元禄の頃、江戸の勧進相撲では、大関の他に、その位置に匹敵する相関あるいは裏関という番付格があった。大関に相応する格、あるいは裏の大関ということで、今の張出大関のことである。力士は実力伯仲するから、なかなか甲乙付けがたい。また名も高ければ、それなりの格付けが必要となる。それは今も昔も同じである。

 

大関・関脇・小結

 大関、関脇、小結といった役力士の存在は、相撲節会の昔にも遡る。王朝の儀式では、最強者を最手(もて)あるいは秀手(ほて)といった。これが最高位の大関に該当する。大関の語源は、関門を固め守る最強者を言い、大いに関を取る(守る)ところから名付けられた。大関あるいは関取というのが、これである。この最手の次は脇(わき)という。最手すなわち大関の脇を固めるもので、つまりは関脇である。最手を脇から助けるということで、助手(すけて)ともいった。

 最手や脇は、節会の儀式にあっては形だけで、しばしば勝負することなく退出した。最強者としての権威を保つためである。だから年配になっても勤仕することができた。江戸相撲の頃も、同様に、ただ名前だけの大関もいた。お抱え大名の意向により、敢えて相撲を取らぬ看板だけの「看板大関」の存在である。その一方で、前段階で結びの一番を行う者が必要とされた。実際の土俵上での取組である。その結びの一番を取る者が小結であった。つまり「小口の結び」であったからである。

 小結による実際の取組の後は、形だけの関脇、大関の登場となる。土俵に上がるだけで、勝負の決着はつけない。これは顔見せということで、今の土俵入りにも該当する。『相撲旧記』によれば、小結の称は天正(1573~92)の頃には、もう存在したという。

ちなみに前頭の名称についても触れておくと、これは元禄(1688~1704)の頃からの呼称という。三役の前に相撲を取る者の謂いで、その前相撲の頭という意である。大相撲の番付にある前頭筆頭などという呼称は、前相撲の頭であり、さらに、その筆頭であるということになり、屋上屋を架すの類である。だが慣れてしまえば、これはこれで収まって聞こえる。

 

横綱の創設

 大相撲の番付では、その最高位を横綱という。だが、その歴史は浅い。隠岐の宮相撲に横綱は無く、大関が最高位である。この横綱の創設は寛政元年(1789)のことで、相撲の宗家、吉田司家から横綱免許を受けた谷風梶之助が始まりである。

 この制度は元来、谷風ひとりを顕彰する目的で考えられた。だが箔を付けるため、時代を遡り、明石志賀之助、丸山権太左衛門、綾川五郎次の3人の横綱を創作し、谷風を四代目に該当させた。と同時に公平を装うべく谷風の終生のライバル小野川喜三郎にも、この横綱免許を許し五代目とした。

 位を定める作業とは、常に秩序の構築である。これにより吉田司家は、相撲界の秩序を整え、その家元たるの地位を確立させた。すなわち横綱の地位は吉田司家の地位創設のために創られた極めて恣意的なものであった。

 だが、このようにして出来上がった横綱も、当初は、横綱としての特別な地位に作り替えられたわけではなかった。あくまでも大関の地位にあって、ただ綱を締めることが許されただけであった。当時にあっては、三役の中の最上位、大関に与えられた特別な勲章、つまり横綱という栄綬の佩用であり、地位を示す称号などではなかった。

 だが今に至れば、もう横綱は完全に別格の存在である。三役の上を行く至高の地位を示す称号となった。その神聖性を示す綱(注連縄)とは、神にもまがう存在として、その明確な証(あかし)となった。

 

横綱の綱の重さ

 横綱の綱の重さとは、どの程度のものか。それは何を意味するのか。吉田司家が伝える横綱の起源とは、嵯峨天皇(在位809~823)の頃、摂津国住吉大社の相撲会に登場する相撲人「近江の薑(はじかみ)」に遡る。近江の薑とは、藤原明衡の『新猿楽記』や『源平盛衰記』にも載るほどの、相撲の強者(猛者)である。

 余りに強い為、時の行司の志賀右左衛門(聖武天皇の頃、節会相撲の諸礼式を整えた志賀清林の子孫)が、神前の注連縄(しめなわ)をいただき、これを彼の腰にまとわせた。この注連縄に触れ掴んだものを勝ちとすると称し、他の力士と立ち合わせた。だが誰も、この注連縄を掴むことはもとより、触れることさえできなかった。この話は、吉田司家による綱の権威付けと、古い伝統であることを宣伝するものでしかない。だがその宣伝が功を奏し、以後、横綱の権威は高まっていった。

 彦山光三(相撲評論家、1893~1965)による『相撲道綜鑑』は、横綱の綱を「結(むすび)の神緒(かみのお)」すなわち生々発展してやまない「産霊(むすび)の神緒(かみのお)」と説く。天照大御神が天磐戸から出現した際、再び中に戻らぬよう張り渡された「日御綱(ひのみつな)」そのような聖なる神具であるとする。この説が登場するのは昭和前期(皇紀2600年の頃)すなわち国家神道全盛の頃である。「国技相撲道は即武士道であり日本魂」と説く彦山は、そのジャーナリスト人生を雑誌『日本魂』の記者としてスタートさせていた。それゆえの思考回路から出来上がった説である。だがこの彦山説(綱の神格化)によって、横綱の権威は、いや増しに上がった。そして双葉山の登場である。その連戦連勝の姿は、当時の皇軍と重ね合わされた。向かうところ敵なし、剛勇無双、天下無敵と、他を圧倒する不敗の横綱の姿が、ここに出来上がった。

 その結果、横綱は、三役格の最上位で相撲の最強者たる大関の地位から、完全に抜け出した。格別の聖なる存在、至高の存在となった。だから横綱に推挙されるには、その地位を汚さぬよう、心・技・体の、全てに秀でていなければならない。その結果、横綱になれば、立派な勝ち方で、勝ち続けなければならない。そのように誰もが思うようになった。だから横綱に降格は無い。負けが込めば、不甲斐ない負け方をすれば、もう引退するしかない。その精神的な重圧こそが、綱の重さである。

 

横綱の綱の起源

 横綱の綱とは、そもそもは地鎮祭における張り巡らされた注連縄(しめなわ)を起源とする。それは江戸時代に始まったものである。当時、方々の地鎮祭で、力士は土地神を鎮めるため、地踏み、足踏みを行っていた。そのような中で、谷風と小野川は、土俵の土を踏み鎮めるため、初めて注連縄を着け、土俵入りを行った。鎮祭の場所に注連縄を廻らす代わりに、自らの腰に注連縄を廻らすというものである。腰の直下、足元の土地を見定め、見据え、ここで地踏み、足踏みをするからである。当初は区画された結界の中で、一人で行う地鎮祭、一人で行う土俵入りであった。だが様々な解釈と伝説とが架上され、儀式は次第に権威を賦与され飾られていく。その結果、踏み鎮めの力士は、従者を引き連れ、神拝祈願をすることとなる。ここに露払いと太刀持ちを従える立派な土俵入りが完成した。

 土俵祭(土俵における地鎮祭)でも同様で、その踏み鎮めの土俵には、中央に御幣が置かれ、清浄が区画される。御幣とは「穂垂れ」ともいい、稲穂の象徴である。その切り刻まれた白紙とは、たわわに垂れる白米のさまを表している。元来、豊穣の祈願祭なのである。そこで行われる地踏み、足踏みとは、陰陽師(呪禁師)の執り行う「反閇(へんばい)」「禹歩(うほ)」「踏鞴(たたら)」で、悪気邪気を踏み破り、踏んだ土地を浄め、吉祥を呼び込むという呪法である。この呪法を手の動作と共に行うのが相撲人による土俵入りである。手の動作が加わり、つまり手数が入るゆえ「手数入り(でずいり)」という。

 横綱の綱は元来、捻り巻き上げられた稲藁の綱で、ここに御幣が編み込まれていた。神社の注連縄、地鎮祭の注連縄と同じである。だが稲藁では余りに脆弱、藁は朽ちて崩れ落ちる。だから現代の横綱の綱は、ワイヤーを入れ、麻紐を入れ、強化された晒しの木綿製である。これが三つ編みの状態によじられ、作られている。その編み上げる工程を「綱打ち」と称する。編み上がれば、これを腰に締めるのであるが、その結び方に雲竜型と不知火型がある。そしてその型に応じた土俵入りがある。

 隠岐の宮相撲には、この横綱の地位はない。だから、もちろん綱もない。あくまでも最高位は大関だからである。次いで関脇、そして小結である。それは横綱創設以前の相撲、その古式の相撲を伝えている。横綱はいなくても、隠岐大関たるや、ただの大関ではない。何日もかけ、何度も討議を重ね、衆の意見も聞いた末の、慎重に選ばれた大大関、立派な卓越した大関なのである。