第Ⅰ部、隠岐の宮相撲[第4章、聖なる土俵]

 

第4章、聖なる土俵(Ⅰー4)

 ①土俵の登場(Ⅰー4ー①)

 ②四角い土俵(Ⅰー4ー②)

 ③縄張りの土俵(Ⅰー4ー③)

 ④円い土俵(Ⅰー4ー④)

 ⑤基壇を持つ土俵(Ⅰー4ー⑤)

 ⑥土俵は豊穣の祭壇(Ⅰー4ー⑥)

 ⑦五穀豊穣の祭ごと(Ⅰー4ー⑦)

 ⑧二重の土俵(Ⅰー4ー⑧)

 ⑨土俵に埋まる金(Ⅰー4ー⑨)

 ⑩蛇の目の土俵(Ⅰー4ー⑩)

 ⑪土俵に上がる階段(Ⅰー4ー⑪)

 ⑫野外土俵の痕跡(Ⅰー4ー⑫)

 

土俵の登場

 土俵の発生は、木村瀬平の『角力旧記』によれば、織田信長の活躍した天正年間(1573~92)のことという。だが、その頃の土俵が、どのようなものであったかは分からない。平安時代の節会相撲は宮廷で行われていたし、武家時代の相撲は武技や組み打ちの鍛錬の中で行われ、そこに土俵は無かった。また社前の宮相撲、農村の野相撲(芝相撲)、町中の辻相撲にも、土俵は無かった。

 慶長15年(1610)名古屋城の築城の折、その襖に描かれた相撲絵には、今のような土俵は無い。相撲場を取り囲む人垣が、ただ円形の輪を作っているだけである。慶安(1648~1652)から明暦(1655~1658)にかけ描かれた相撲絵巻、例えば『住吉祭賀茂競馬図屏風』などにも、やはり土俵は無い。ただ人垣の輪だけである。その人の輪の中で、相手を倒すことで勝負は行われていた。人垣の外に押し出されても、観客によって再び輪の中に押し戻される。だから勝負はなおも継続した。「寄り切り」や「押し出し」の決まり手は、当時の勝負手には無かった。

 土俵の始まりは、どうやら慶安元年(1648)の頃の、幕府による勧進相撲や辻相撲の禁止令以後のことであるらしい。人垣の中での相撲は、熱狂する群集を巻き込み、直ぐ乱闘騒ぎになる。喧嘩口論の果て、負傷者も続出する。それでは治安上、好ましくなかった。だから相撲禁止令が出る。江戸では慶安年間(1648~52)大坂では寛文年間(1661~73)この禁止令が出た。禁止令が出てしまっては、もはや相撲は取れない。だから観衆を巻き込まぬよう、主催者側の工夫が要る。それが地面に縄張りした相撲場の登場である。観衆側と相撲場とを分ける区画の登場で、これが土俵の始まりである。これによって相撲の様相は大きく変わった。

 

②四角い土俵

 寛文年間の作品とされる京都四条河原の相撲絵は、四角の相撲場を登場させる。屋根のない四本の角柱を建て、柱から柱へ、地を伝う縄の如きものを渡している。それは相撲場と観客場とを仕切って区切るもの、今のボクシングやプロレスの舞台(リング)と同じである。初期の相撲土俵とは、単なる仕切り、区切りでしかなかった。

 貞享四年(1687)刊行された井原西鶴の『本朝二十不幸』にも、また同様の四角土俵が登場する。その挿絵に描かれた土俵は、縄を四角に巡らし区切ったもの、まさに四角土俵である。南部藩などでは、相撲を取る時、四角土俵を後々までも用いていた。それは南部(盛岡藩)の角土俵として、よく知られたものであった。

 では、この角土俵のルーツとは、一体どのようなものであったろう。よく知られているのは辻相撲説である。道が交わる四辻で相撲が行われ、その四つ辻に入る道を縄で区切り観客場としたとする。交差する四辻は、そのまま四角の土俵となったというものである。

 

縄張りの土俵

 だが相撲は、四つ辻ばかりで行われていたわけではない。寺社境内や野原あるいは砂浜でも行われていた。相撲が取れる広さと平たい地面さえあれば、誰でも相撲を取ることはできた。その相撲を周囲から観客が取り囲む。

 最も効率よく取り囲むのは、やはり円形である。例えば、大道芸人が観客に大道芸を披露するのは、やはりこの円形である。大勢集まった時、多くの観客に等しく芸を披露するには、芸人から等距離で見せる円形が最もふさわしい。地面に円形の線を引き、そこから内は演芸の場とし、周囲に大勢の客を配置する。さらに観客が増えれば、円形を大きく取ればよい。さらには二重円にして、前方の円に入る観客は座るというルールもある。ルールがある方が揉め事は少ない。

 だが地面に円形の線を引いても、もっと良く見たいと、観客は、じりじり近づいてくる。どうしても縄を張り、制限を設け、区画せざるを得なかった。縄を張って制限するには、まずは杭を打ち込む必要がある。その杭に縄を掛け、ぴんと張る必要があった。当然ながら円形にはできない。やはり四方に杭を打ち込み、四方を縄で制限することになる。それが地面すれすれの高さであれば、角土俵というわけである。

 

円い土俵

 では円い土俵はどうして生まれたのか。それは相撲の勝者に与えられる賞品のゆえである。勧進相撲には寄進や喜捨が寄せられる。その一部が相撲人たちに与えられた。それが現物支給の米俵である。その賞品としての米俵が、観客と相撲場を区切る形で、相撲場を円形に取り囲む。今の土俵は、その頃の賞品としての俵の名残りである。

 だが賞品としての米俵が相撲場の周囲に、円く置かれたのか、四角に置かれたのか、六角に置かれたのか、八角に置かれたのか、それは分からない。様々な置かれ方が実際には行われていたのだろう。だが周囲を囲む形であったことは間違いない。観客席に見せる形で、それはまた力士にも見せる形で、賞品は披露される必要があった。

 豪華な賞品が懸かる相撲は、それだけで力士を興奮させ、発奮させる。観客の方もいよいよ熱が入る。一層の興奮と熱気とが、相撲場にあふれかえっていく。そのような賞品はどの方向からも、よく見えなければならない。となれば、やはり取り囲む観客の中央、その相撲場に円形に置かれたのであろう。 

 

基壇を持つ土俵

 元禄12年(1699)京都岡崎天王社で、勧進相撲の興行が行われた。その時の模様を記した『大江俊光記』には「土俵の四本柱は三間四方、其の内に丸く二間、地行より三尺程高し」と、土俵の記載がある。ようやく土俵の四本柱の中に、丸い土俵が作られ始めた。それは周囲の地面より一段高く、三尺(約90センチ)ほど盛り上げた土俵である。勝負を観客席から見やすくするための工夫である。勧進相撲の人気が高まり、それに伴う観客サービスということであろう。

 神前奉納の境内相撲に於いても、土俵の高さは上昇する。信濃国長和の大門稲荷神社(長野県小県郡長和町大門)では、4メートルもある高い土俵で「高辻相撲」が行われる。江戸時代に築かれた土俵で、次第に高さが増してきたと伝わる。伏せたすり鉢状の相撲辻(相撲場)で、ここから転がり落ちる力士もいる。だが、これまで大きな怪我は無かったという。神への供覧、すなわち大衆の要望に応え、周囲から見やすい高辻で相撲を取ったのである。

 甲斐国白州の石尊神社(山梨県北杜市白州町鳥原)の高辻土俵も2メートル近くある。この高辻土俵で秋祭り、神事奉納の相撲が執り行われる。

 上野国藤岡の土師神社(群馬県藤岡市本郷)の高辻土俵も、やはり2メートル近くある。「土師(どし)の辻」と称され、江戸時代、この壇上で披露相撲が行われていた。昔は高さ1丈二尺八寸(3.8メートル)あったという。『上野名蹟図誌』は日本三辻(日本三大土俵)として、能登一宮の羽咋神社、摂津一宮の住吉神社、そしてこの土師神社の辻(辻土俵)を挙げる。

 この三辻全てが高辻であったわけではない。辻(辻相撲、辻土俵)とは、野外相撲の野外土俵というだけにしか過ぎない。羽咋神社のものは唐戸山(からとやま)神事相撲として有名であるが、これは高辻ではなく、すり鉢状の窪地相撲である。住吉神社の方も『住吉名勝図絵』の相撲会では、境内の平地で、ただ相撲を取っているだけに過ぎない。だが住吉神社の相撲会は、賞品が多く「宝市」と称されていたから、俵がうずたかく積まれていたのかもしれない。

 

土俵は豊穣の祭壇

 隠岐の宮相撲の土俵についても述べておく。それは珍しい三段重ね、三重の土俵である。それゆえ「三枚土俵」と称する。その第一段は方形の基壇、第二段と第三段が階層を持つ円形土俵である。すなわち段々に天に至る正円の聖丘で「地方天円」の天壇の形に仕立て上げられている。三方(さんぼう)に載る重ね餅、お正月の鏡餅の如き様相である。

 土俵の俵は稲藁(稲霊)の象徴、その俵で区画された段々の壇上とは、豊穣の神の出現の場である。土俵とは豊穣を祈願する聖なる祭壇ということである。

 水若酢神社の三段三層の土俵は、信濃の大門稲荷神社や、甲斐の石尊神社や、上野の土師神社などのものと同様に、近世から出現したものである。それは近世農本主義の社会精神を体現するもので、そこで行われる相撲とは、豊穣を喜ぶ祝祭劇なのであった。

 秋田県藤里町粕毛米田(白神山地の麓の村)には「根城豊作相撲」が残る。ここでは結び三番は古様の神事相撲で、最後の大関戦は勝敗を付けず、ただ行司が引き分けを宣言するだけである。だが、ここからが面白い。行司の宣言を待っていたかのように、出場の全力士が一斉に土俵上に駆け上がってくる。大関、行司、役員たち、八幡幣を持つ者を胴上げする。その後、土俵の俵を掘り起こし、土俵中央に積み上げる。積み上げた俵の上に太鼓を置き、それを突如として打ち鳴らす。太鼓に合わせ相撲甚句が唄われ、ここで力士全員、甚句踊りを踊り出す。すると集まっていた近在の観衆も、皆一斉に土俵を囲み、周回しつつ踊り出す。この積み上がった俵とは、元来、米の入った俵であった筈である。皆が集い収穫を祝う、素晴らしい豊穣の祭礼なのであった。

 

五穀豊穣の祭ごと

 大相撲でも、土俵上で五穀豊穣の祭礼を執り行う。本場所初日の前日、相撲協会理事長以下、審判部さらには行司全員、四方に着座し、ここで土俵祭が行われる。祭主を務めるのは立行司で、脇行司二人を従える。各々の行司は神職の姿で、まず脇行司による修祓の儀が行われ、その後、土俵中央に進み出た祭主により祝詞が奏上される。「天地(あめつち)の開け始めてより陰陽に分かり、清く明らかなるものは陽にして上にあり、これを勝(かち)と名づく、重く濁れるものは陰にして下にあり、これを負(まけ)と名づく、勝負(かちまけ)の原理は天地自然の理にして、これを為すものは人なり、清く潔きところに清浄の土を盛り、俵を以て形と為すは、護国豊穣の祭ごとなり」と。この土俵祭も近世からのもの、当然ながら土俵が創られて以後のものである。

 隠岐の宮相撲でも、出来上がった土俵の上で、相撲に先立ち祭祀が営まれる。すなわち土俵祭である。三段三層の土俵の中央に、山形に盛砂(立砂)が置かれる。この積み重ねられた砂の山に、八幡幣(五行幣)が一本樹(た)てられる。神籬(ひもろぎ)であり、神樹であり、神の降臨の依代(よりしろ)である。

 

二重の土俵

 現在の大相撲の土俵は、四角い基壇の中の一重土俵である。これは昭和6年(1931)の天覧相撲からのことで、それ以前は、江戸時代を含め二重土俵であった。先にも触れた元禄12年(1699)の『大江俊光記』には、丸く二間の土俵が記されている。大江が見た土俵とは、一重の土俵であった。だから土俵は最初一重土俵から始まり、やがて二重土俵となり、また一重土俵に戻り、現在に至ったということになる。

 最初の一重土俵は、四角の枠囲いの中に置かれた、周回する俵であろう。それは円をなす一列の米俵、賞品である米俵から始まっている。延宝年間(1673~81)のものと思われる相撲大絵馬では、五斗俵が地上に円形に置かれている。いわゆる俵相撲で、この五斗俵には新穀が詰められていた筈である。すなわち秋祭り(収穫祭)で、勝者への賞品である。

 相撲人気が高まり、賞品の俵が多くなれば、当然二重の円形が出来上がる。大相撲の懸賞金では、人気の取組には懸賞金を表す旗列が、一巡では済まなく二巡三巡してくる。それと同じであろう。二重の土俵とは、当時の相撲人気、その結果の懸賞金増多である。熱狂と興奮の相撲であったことが推し量られる。

 

土俵に埋まる金

 観客の要望は、当然ながら白熱の相撲を、より見やすいようにというものである。ゆえに俵の高さに合わせ、闘う相撲場が造られる。その裾に賞品の俵が並べられるということになった。相撲基壇の登場である。

 だが賞金が多くなれば多くなるだけ、俵はうずたかく積み上げられる。方形基壇の四角の土俵、その中の円形の土俵、そしてさらに二重となる円形の土俵と、積み上げられていった五斗俵は、もう視界を遮ってしまう。そこで土俵をさらに高くする工夫、土俵そのものを高くする工夫がなされていった。そして高辻土俵ということになる。

 隠岐の三枚土俵は、この二重土俵が出来て間もない頃のもの、二重の円形段差を、そのままに残している。その先には、高辻相撲への展開がある。だが高すぎては臨場感に欠ける。仰ぎ見る形で、土俵全体が見渡せなくなる。相撲の醍醐味は欠けてしまうだろう。そこで俵のサイズを小さくし、内部も土で固めてしまうということになった。これなら身近な相撲として、観客は土俵に接することができる。

 新穀の五斗俵は、だから、もう視界から消え去ってしまった。だが賞品は新穀と、そのシンボルだけは俵として残った。勝負に勝てば賞品(金穀、金品)が貰える。それは昔も今も同じである。「土俵には金(金穀)が埋まっている」と、力士たちは意欲を掻き立て、稽古を重ねる。さらにいっそう、激しい稽古を積んで行く。

 

蛇の目の土俵

 土俵造りには様々な工夫が施される。段差の無い二重土俵、その二重の円の間に砂がまかれた。蛇の目のように二重であるところから「蛇の目土俵」と称された。

 二重の土俵の間に砂があり、きれいな箒目だけが残っていれば、土俵際の微妙な勝負、勇み足や踏み越しがあっても、痕跡が残る。つまり勝負判定が容易となる。この理由によって、二重土俵が一重土俵になっても、なお蛇の目土俵の砂は残された。

 蛇の目土俵の登場は、一重土俵が二重土俵となった江戸中期のことである。再び一重土俵となった今、勝負俵の外側に、なお約20㎝幅で「蛇の目の砂」を残す。土俵の発生から発達そして展開、その歴史の痕跡を、今も明白に残している。

 

土俵に上がる階段

 円形土俵の外側は方形基壇があり、その基壇の縁取りとして、四方の辺に「角俵」がある。そして四方の隅には「あげ俵」がある。

 基壇の上にある円形土俵に上がるには、基壇の斜面にある「踏み俵」を踏み、上がる必要がある。この踏み俵は東西の辺に、それぞれ三カ所、そして南北の辺に、それぞれ一カ所が設営されている。

 対戦する力士は、この東西の中央の踏み俵を踏み、土俵に入って行く。ここから円形土俵までが力士の入場口で、これを「二字口」と称する。かつて二重土俵で相撲を取っていた頃、二重の徳俵が、あたかも二の字の如く見えるので、このように言ったのである。

 ことのついでに徳俵についても附言しておく。土俵には東西南北、一俵だけ外側にずらした俵がある。これを徳俵という。勝負俵であれば、踏み切って負けになる場合でも、ここは少し外側にあるため、踏み切らず勝ちに繋がる。つまり得となる俵(俵一つ分だけ得になる俵)だからである。得俵を徳俵としたのは、美称からである。文字を飾ることで徳俵となったのである。

 

野外土俵の痕跡

 徳俵は、一見、二重土俵の遺残(痕跡)にも見える。だが徳俵は、かつて野天で相撲を取っていたときの名残りである。土俵に溜まった雨水を、素早く外に掃き出すための、工夫による産物であった。浅く埋められていた徳俵を、雨水を掃き出すため一旦取り除き、その後、再び埋め戻すということが、土俵の維持管理上、簡便であったからである。

 確かに雨水対策は重要である。隠岐の三段三重の土俵も、その段差ゆえに、水はけは良い。雨が降っても、その後の表面の乾燥は早い。やはり野外土俵の特徴を備えている。