第Ⅰ部、隠岐の宮相撲[第2章、宮座の相撲]

第2章、宮座の相撲(Ⅰー2)

 ①勧進の相撲(Ⅰー2ー①)

 ②座元と寄方(Ⅰー2ー②)

 ③宮座の成立(Ⅰー2ー③)

 ④宮座相撲(Ⅰー2ー④)

 ⑤巡業相撲(Ⅰー2ー⑤)

 ⑥奉納相撲(Ⅰー2ー⑥)

 

勧進の相撲

 江戸の勧進相撲とは、どのようなものであったろう。それは大衆がにぎわい集う所、交流交歓の場であった。当時の江戸情報、文化情報の、発信の源であった。相撲興行は人気を得て、宝暦(1751~64)以後、定期的に行われる。春3月と秋10月、時には春2月あるいは4月、また秋は11月になることもあった。だが本場所は常に春秋の2回として、興行が行われた。

 本場所の日数は、当初8日間であった。だがまもなく10日間となる。力士は「一年を二十日で暮らすよい男」と、江戸川柳にも楽しく詠まれている。場所も日数も増えるのは昭和以後で、大相撲が今のように年6場所、各15日間を勤めるようになったのは、昭和33年(1985)からである。

 勧進というのは、寄進を勧めることを言う。もともとは神社仏閣の建立、あるいは修復の資金を捻出するためのものであった。水若酢神社の社殿修復というのも、これである。室町時代には、勧進田楽、勧進猿楽などと並び、勧進相撲はよく行われていた。しかし次第に本来の勧進の意義は薄れ、江戸時代には木戸銭を取っての営利興行に振り替わっていた。

 闘技の常として、相撲場は興奮の余り、喧嘩や口論、また傷害沙汰が絶えなかった。勝負を賭けての金銭も関わり、争いごとは日常茶飯事だった。風紀は乱れ、そのため、しばしば禁止令が出される。寺社奉行の監督下、きちんと願書を差し出し、勧進相撲たるの営業許可(免許)を受けなければ、興行は、もうできなくなった。今、大相撲の番付中央に「蒙御免(御免をこうむる)」と大書してあるのは、かつて勧進許可を受けたことの名残りである。

 

座元と寄方

 水若酢神社の宮相撲は、座元(主催者たる地元)と寄方(寄り合いの相手方)とで対戦する。座元と寄方では、それぞれ頭取以下役員たちが、力士選抜を行う。いわゆる番付編成会議である。

 三役などを勤める力士を、役員たちは、慎重の上にも慎重に選んでゆく。選ばれた力士は、以後、潔斎し、神事相撲の開催の日まで、日々練習に励んでゆく。この練習風景を「地取り」と称する。頭取以下の役員たちも、同じく潔斎し、地取りに励む力士たちを応援し、宮への奉納相撲に臨んでいく。

 役員たちの家族も親族も、そして地元民も、この地元の力士を支えて「やこい」をする。やこいとは、配慮、気遣い、思い遣りのこと、つまり遣乞(やこい)である。地域ぐるみで力士に飲食物を提供し、休息場所を与え、この力士の鍛錬を、物心両面で支えるのである。

 座元の名が登場するのは、この相撲がもともと宮座主催による相撲であったことの名残りである。宮座は今も水若酢神社講という講組織として残っている。水若酢神社は隠岐一宮で、それゆえ講名を、また一宮講(いっくこう)とも称する。この講が中心となり、水若酢神社の祭礼が執り行われる。寄方にしても同様で、各村々の長老や各氏子神社の責任役員たちが、それぞれの講組織によって準備し、その上で一同に会し、古来からの祭礼儀式、その役割分担を確認する。

 

宮座の成立

 宮座の成立は室町期で、成員の村落共同体意識を表出する場であると共に、またそれを維持発展させる組織であった。それは農村の発展や農民自身の成長と深く関わる。

 宮座に出席する各村々の長老とは、かつての名主たち、つまり自ら農地を保有し、同時に何人かの下人を指揮監督するような上層の農民たちである。そのような者たちが共に顔を付き合わせ、一座(同座)するところに、惣村の祭祀は成立した。

 隠岐の宮相撲もそうである。長老たちは順に当屋(当番の家)を勤め、各村々から有力力士を募り、神前奉納の相撲を取り仕切った。これが相撲座である。当屋とは頭屋であり、頭屋を取る(勤める)者ゆえに、これを頭取といった。

 

宮座相撲

 宮座相撲で有名なのは、近江国野洲郡の御上神社滋賀県野洲市三上)の芝原式(芝原相撲)であろう。ここでは氏子集団を、東座、西座、長之家と、三筋に分ける。東の上座と下座、西の上座と下座、それぞれの座から小相撲(子どもの相撲)1人ずつ、大相撲(青年の相撲)1人ずつ、計8人を選び出す。彼らを、1年間厳重な潔斎をさせた後、社頭の芝原に荒筵を敷き、焚き火をあげ、四番の相撲(夜相撲)を取らせる。江戸時代初期の御上神社文書には「十二番之神ノ相撲有リ」とある。だから以前は、もっと大勢で行われていたであろう。この相撲は「やぁ」「とぅ」と掛け声を掛け合い、組み合ったままで分かれる。つまり勝負をつけない儀礼の神事相撲である。

 播磨国加東郡の上鴨川住吉神社兵庫県加東市上鴨川)にも、同様の神事相撲が残されている。それは厳格な世襲的宮座制度によって守られ、伝え来たものである。ここの本殿は棟木銘によれば正和5年(1316)創建というから、これは中世に淵源を持つ神事相撲である。ここの相撲役も、東西に分かれた頭人が務める。相撲といっても、親に抱かれた子どもが、互いに、ただ手のひらを合わせ、引き押しするだけである。だが、それによって豊作を祈るのだとする。祭の最後は餅撒きをすることで終了する。

 中世の宮座は、その管掌する座の様々な役柄を、次々に特化させていった。猿楽座や田楽座そして相撲座などの登場である。その特化した神事、演能や田遊(たあそび)や相撲を通じて、土地霊への祭祀を行っていく。その神事奉納は差配する座頭(ざがしら)すなわち頭役(頭取)たちによって、勧進の形を取る興行となっていった。

 やがて大衆の意向を汲み、完全な娯楽興行へと変換した。彼らは専門職化し、能狂言や歌舞伎といった様々な役者集団に育っていった。相撲座も同様で、ここに力士集団として専門職化し、専門職としての特別の職名(芸名、源氏名)つまり四股名(しこな)を持つようになった。

 

巡業相撲

 その昔、相撲座の頭取(年寄)たちは、腕に覚えのある素人たちを集め、社前での奉納相撲を取り仕切っていた。だが近世に至れば、やがて専門の相撲人を集め、寺社奉行あるいは領主の免許を得て、勧進という形で相撲興行を執り行った。

 相撲人集団も、また自らの頭取(親方)と共に、各地、各村々を転々と回り、村興行の生活を繰り広げていた。今で言えば巡業興行である。この集団が寺社に招かれ相撲奉納となれば、あるいは寺社を宿舎に相撲興行を行うとなれば、集団は丸ごと一体で参加した。これが勧進方つまり座元(元方)となって相撲運営にあたり、他の相撲集団を寄方として、神社仏閣の境内興行を執り行った。つまり相撲集団は、あるときは座元(元方)となり、あるときは寄方となっていた。互いの集団は適宜、その役割を分担、交替していた。今に至る相撲部屋の始まりで、部屋別取組の開始である。この地方巡業の伝統の延長線上に、今の大相撲の地方場所(大阪場所、名古屋場所九州場所)がある。

 また相撲人集団は、賑わいを求め、力自慢の素人衆を誘い、対抗相撲を執り行っていく。勧進方を勤める相撲人集団を東座(東方)に、寄方の素人集団を西座(西方)とするものである。地元の観客たちは、素人衆が勝てば大喜びである。相撲場は喧噪と興奮で沸き立っていた。この素人力士たちを「芝居の者」ともいった。傍らの芝原に、彼らはたくさん集まり、順番を待ち、土俵に上がっていったからであろう。彼らだけで、また芝相撲(芝原相撲、草相撲)も行われた。

 専門の相撲人集団が大勢参加していれば、この相撲人を東西に分け、相撲興行を行った。これは草相撲とは言わず、花相撲と言う。観るに堪えるだけの、花のある力士たちの取組だからである。当然、座元寄方の名称は消え、東方(東の方からの登場)西方(西の方からの登場)として「花の力士」を土俵上に呼び出し、取組が行われた。

 また専門の相撲人を招かないで、地元の郷民村民たちだけで、座元寄方の勧進相撲興行を行う場合もあった。相撲を取る前、やはり巡業の真似事をし、行列を組み、村中を回り氏子神社(産土神社)に参拝した。ここで勝利祈願を済ませ、それから土俵に上っていった。隠岐の宮相撲とは、そのような相撲である。

 

奉納相撲

 水若酢神社の奉納相撲は、初期勧進相撲の形式をよく残している。すなわち元方と寄方の対抗形式である。相撲の節会(せちえ)では、元来、左右対抗の形式であった。これがやがて寺社勧進形式として、元方寄方の形式に移行した。今や大相撲は、元方寄方の形式を消滅させ、東西対抗の形式に移り変わってきている。

 東西対向の形式は、東方を上位とし、西方を下位とする形式である。そのような東方優位の形式は明治以降のことであるが、もともとは宮中における左方優位の伝統に基づいている。天子の南面に於ける左方優位すなわち東方優位から発生したものである。

 水若酢神社の宮相撲は、神社再建の費用捻出のため、修理修繕の費用調達のため、これまで行われてきた。その頃の名残りを今に至るも継続させ、20年ごとの遷宮行事の折、興行する。そのような勧進形式の相撲興行は、中世には、ごく普通のことだった。伏見宮貞成親王の『看聞日記』応永26年(1419)10月3日条には「法安寺造営のため勧進相撲あり。今夜これを始む。三ヶ日あるべしと云々。他郷の者ども群集す。密々見物に行く」とある。勧進によって寺院建立が成ることは、安宅の関で弁慶が読み上げる勧進帳を思い浮かべるだけでよい。あれは東大寺再建の勧進である。そのような資金調達は、寺院の再建財政に重みをなしていた。だから勧進相撲の勝者は、寺院の宗祖開山にもなぞえられる。すなわち無敵の日下開山(ひのしたかいざん)の尊称である。

 勧進による資金調達によって、寺社の建設、架橋や堤防の大土木工事をも行うことは、天平行基の頃に、すでに始まっている。あの東大寺大仏の鋳造も、勧進による資金調達に深く負うものであった。大仏開眼供養の折、聖武の天覧する節会相撲は、行基勧進行脚と底の部分で繋がっている。