隠岐の相撲(9)

第Ⅰ部、隠岐の宮相撲

第9章、祝祭の相撲(Ⅰー9)

 ①桟敷の酒(Ⅰー9ー①)

 ②溜り席(Ⅰー9ー②)

 ③相撲踊(Ⅰー9ー③)

 ④相撲甚句(Ⅰー9ー④)

 ⑤隠岐太鼓(Ⅰー9ー⑤)

 ⑥収穫祭としての相撲(Ⅰー9ー⑥)

 

①桟敷の酒

 土俵脇で飲み交わす酒は、直会(なおらい)の酒宴に似る。神人共食の饗宴で、ここで勝負の神も喜悦に酔う。相撲好きなら良い席を占め、余裕をもってしっかりと見たい。それは昔も今も同じである。そのような要望に応え、桟敷(さじき)が造られていった。

 桟敷の発生は古代にも遡るものであるが、一般的な観覧施設としては、平安時代以降のことである。例えば、祭礼の行列を見るため、街路に築かれた桟敷は、見物席として何も珍しいものではなかった。『太平記』は、貞和五年(1349)四条河原で勧進田楽が催された折のことを伝える。この時、二百余間の桟敷が観客の重みに耐え切れず、一気に崩壊し、大惨事となった。桟敷とは、棧を渡して作る仮設の席で、当然ながら脆弱だった。

 大相撲では、この桟敷席のことを枡席と呼ぶ。国技館の枡席は階段状に作られ、土俵から離れるに従い高くなっている。ゆえに雛壇桟敷とも呼ばれる。桟敷は、地面や土間から幾分高く構築された見物席で、本来上席である。だが力士の熱気が直に伝わる土俵際の方が、遙かに興奮を覚える。この「砂かぶり」の席、つまり土俵際の平土間の「溜り席」が、今は上席である。

 かつて平土間は下々の席、相撲の世話をする者たちの世話焼きの場所だった。人々は相撲と共に飲み食いし、にぎわいを楽しんだから、桟敷こそ上席で、ここに上客が陣取った。この桟敷客の求めに応じ、飲食物など様々な世話をする接客専門の者たちが登場する。それが桟敷方(さじきかた)である。

 江戸相撲が興行形態を整えつつあった宝暦(1751~64)から明和(1764~72)年間、相撲を見物する人々の中から自然発生的に、桟敷方が現れた。観客に桟敷札を渡し、場内では飲食物の世話をする。彼らは講中のような集団を作り、時代と共に成長した。

 寛政(1789~1801)年間には、桟敷札を売る出方(でかた)、観客を案内する物持(ものもち)、全体を仕切る桟敷方などに業務分担し、拡大発展する。やがて相撲茶屋として確立した。昭和33年(1957)には組織改革され、相撲サービス株式会社となる。昭和60年(1985)には国技館サービス株式会社と名称変更され、今に至る。

 

②溜り席

 平土間の溜り席は、土俵の砂が飛ぶ程に、土俵に近接する。だから「砂かぶり」とも称される。ここでの飲食は禁じられている。喧嘩争論が絶えなかった江戸の相撲、その禁止令の頃の名残りである。だが神聖な勝負の場「土俵」、その勝負の神殿に向かう拝殿の趣きをも併せ持つようになる。

 力士を神の求めに応じ呼び出す役割を持つ、その呼出しの溜まり場であり、また神の審判を受け持つ行司の、その行司の溜まり場でもある。聖なる勝負を見届ける場、勝負の神に対座する場とも受け取められ、勝負審判役も柱の下から移動し、ここに座る。だが、そのような意味合いの付加は、近代に入ってからのものである。国家神道の隆盛により、土俵にさらなる聖性が賦与されてからのものである。

 小屋がけの時代、平土間は下々の席、全くの娯楽の場所だった。ここは仲間内の席、身内の溜り場、相撲人への世話焼きの場でもあった。だから控え力士、控え行司、呼出し、世話焼きなどが座っている。そして今でも、ここには身内が陣取っている。相撲協会を支え、しっかりと後援する維持員のための席である。大相撲の「溜り会」とは、この維持員が組織する親睦団体のことである。

 

相撲踊

 酒が入り、笑いさんざめく中では、唄や踊りが始まっていく。それは当然のことである。娯楽としての相撲に、唄や踊りは付きものだった。

 相撲節会に於いても舞楽が演じられる。『内裏式』には「左の司が先づ厭舞(えんぶ)を奏す。訖(おわっ)て太夫等が着座す。次に右の司が厭舞を奏し、訖って着座す」とある。相撲に先立ち厭舞が行われた。厭舞は採物(とりもの)としての桙を取り、これを振りながら舞うところから、振桙(ふりほこ)とも言われた。悪魔を調伏し災禍を消す舞として、舞楽の最初に行われた。つまり露払い的な意味合いの舞である。続いて行われるのが勝負舞である。勝負が一番済むごとに、勝ち方の立合により、立合舞が演じられる。さらに勝負の結果を見て、左方が勝てば抜頭(ばとう)の舞が、右方が勝てば納蘇利(なそり)の舞が演じられた。

 その昔、相撲は「すまい」と発音されていた。それは裸の素舞(すまい)か、何も採物(とりもの)を持たぬ素(す)の舞なのか、あるいは二人で舞う相舞(すまい)なのかと。そのような説を信じさせるほど、相撲と舞踊との関わりは深い。

 現在の相撲踊は、巡業相撲などの花相撲や、相撲大会の中入などで披露される。相撲節(すもうぶし)つまり相撲甚句(すもうじんく)を唄いながら円陣を組み、皆で相撲踊(甚句踊)を踊るのである。差す手あり、引く手あり、足を前後左右に運んで回る。それは相撲の四十八手の型を表現するものという。

 

相撲甚句

 相撲踊は甚句(じんく)を唄いながら踊る。甚句とは、主に七七七五の四句形式で唄われる俗謡の一種である。甚句は甚九とも書く。元禄(1688~1704)の流行歌「甚九郎節(ゑびや甚九郎節)」から出たという説がある。だが名称の起源については、また諸説ある。「地ン句」の訛りだとする説、神に捧げる「神句」だとする説、あるいは「神供」説、輪になって順に唄う「順句」説、あるいは「巡句」説などである。

 律動的な面白さが受け、江戸の末頃より流行し、全国に広がった。隠岐相撲甚句を幾つか挙げておく。

 

  〽 見たかヨー 聞いたか 山田の力士はヨー

           ハアー ドスコイ ドスコイ

      腕とヨー 度胸で 乗せて行くヨー

            ハアー ドスコイ ドスコイ  (隠岐 五箇村 相撲甚句

 

  〽 相撲はヨー 今日ぎり 明日はヨー お帰りヨー

           ハアー ドスコイ ドスコイ

      あとに残るは 四本柱と 土俵ばかりヨー

            ハアー ドスコイ ドスコイ  (隠岐 五箇村 相撲甚句

 

  〽 相撲はヨー 済んだヨー 相撲取りは 帰るヨー

          ハアー ドスコイ ドスコイ

      あとに残るは 土俵の砂ヨー

          ハアー ドスコイ ドスコイ   (隠岐 五箇村 相撲甚句

 

隠岐太鼓

 この祝祭の唄と踊りの間に、にぎやかな太鼓が打ち出される。隠岐太鼓である。そもそも相撲に太鼓が用いられるようになったのは、平安時代からである。当時、宮中の太鼓は雅楽のためのもので、これが相撲節会舞楽の際に打たれた。

 江戸の相撲興行では、元禄の頃、木戸口に低い櫓が組まれ、ここで相撲開始に太鼓が打ち鳴らされた。今のように高く櫓が建てられ「櫓太鼓」が打ち鳴らされるのは宝暦(1751~64)の頃からである。町に繰り出す「町回り太鼓」は客を呼び込む「触れ太鼓」である。辻々で衆の興奮を掻き立て、木戸口へと誘い込む。

 朝の開場を告げる櫓太鼓は「寄せ太鼓」である。客を寄せ集め、相撲興行の一日の始まりを告げる。ゆえに「一番太鼓」ともいう。そして当日の取組が全て終われば「跳ね太鼓」を打ち出す。それは一日の興行の終わりを意味する。晴れやかに太鼓を打ち出し、満足した客を送り出すのである。終了を意味する「打ち出し」の語源は、この「跳ね太鼓」にある。

 隠岐太鼓について言えば、隠岐民謡を唄うときに打たれる。隠岐盆踊りを躍るときに打たれる。そして隠岐の宮相撲を取るときに打たれる。それは人々の喜悦と共に響き渡る。

 

収穫祭としての相撲

 祝祭の相撲の古い型を残すものに南九州の「ソラヨイ」がある。鹿児島県南九州市知覧町の十数地区で行われる興味ある相撲踊りである。「ソラヨイ」とは「それは良い」という意味、大地を褒め称える言葉だという。子供たちが豊穣の神に扮し、部落を訪れるという祭事「来訪神の祭り」である。

 異様な扮装の子供達が集落を触れ回った後、広場に進み、その中央にある藁積の山傘を回る。この山傘の中に子供二人が入り、その「サア」という掛け声で、皆が中央の山傘を向き、唄に合わせて四股を踏む。そして踊る。これを繰り返した後、最後に山傘を皆で引きずり崩し、その藁を敷き、その上で相撲を取るというものである。十五夜の行事、つまり畑作物の収穫の夜「ソラヨイ、ソラヨイ」と唄い踊りながら、地面を踏み鎮めるというもので、大地に感謝する収穫の祭である。

 同じく鹿児島県南さつま市金峰町に残る「高橋十八度踊」は豊穣を約束する水神への奉納祭である。ここに子供が相撲を取る「ガラッパ相撲」が残されている。ガラッパとは河童(かっぱ)のことで、水神の使いである。子供は「小ガラッパ」となり、この祭礼で相撲を取る。青年が扮する「大ガラッパ」は棕櫚(しゅろ)の皮を頭に被り、夜具を着流すので「ヨッカブイ(夜着被り)」と称される。「ソラヨイ」と同様の来訪神、草荘神(そうそうしん)である。異様な姿形で集落を駆け巡り、幼い子供たちを怯えさせ、泣かせて回る。ここの相撲は、型相撲、組み合わせ相撲、勝ち抜き相撲、弓取り式があり、最後に小ガラッパ、大ガラッパによる十八度踊(甚句十八番による総踊り)となって祭礼を終える。ここでは相撲取のことを「踊り子」と言う。

 相撲に踊りは付きものであった。収穫を祝う祝祭の場にあっては、祝祭の舞踊が豊穣の神に奉納される。それは世界各地で祝われる収穫の祭「感謝祭」である。隠岐の宮相撲も、やはり祝祭の相撲、喜び祝い、夜を徹しての奉納となる。