隠岐の相撲(10)

第Ⅰ部、隠岐の宮相撲

10章、江戸相撲から大相撲へ(Ⅰー10)

 ①江戸の相撲会所(Ⅰー10ー①)

 ②幕府崩壊による頓挫(Ⅰー10ー②)

 ③明治の天覧相撲(Ⅰー10ー③)

 ④日本相撲協会(Ⅰー10ー④)

 ⑤大相撲の人気(Ⅰー10ー⑤)

 ⑥国技たる大相撲(Ⅰー10ー⑥)

 ⑦現代の相撲(Ⅰー10ー⑦)

 ⑧隠岐の古式相撲(Ⅰー10ー⑧)

 

①江戸の相撲会所

 大相撲の沿革を訪ねれば、それは江戸の相撲会所に遡る。五代将軍徳川綱吉の治世、貞享元年(1684)のことである。

 相撲浪人たちが、相撲興行の運営体として株仲間を組織した。雷(いかずち)権太夫ら15人の仲間たちで、彼らは寺社奉行に願い出て、江戸深川の富岡八幡宮境内において、勧進相撲興行を執り行う。これが相撲会所の発足である。

 膂力を誇る力士たちは、諸大名に召し抱えられ、相撲衆(相撲組)として取組を行っていた。藩の会合や宴席の場で、彼らは見事な相撲技を披露していた。相撲人を抱える諸藩同士、また互いに相撲の対抗戦を行っていた。だが力を競うゆえに、相撲衆の活躍時期は短かった。歳を重ね力衰えれば、直ぐに暇を出される。これを相撲浪人といった。

 彼ら相撲浪人たちは、自らの世過ぎ、口過ぎのため、相撲渡世人となり、相撲専業の興行師となっていく。相撲会所とは、そのような中で出来上がったものである。

 相撲会所は諸大名の後援を得て、宝暦(1751~64)のころから一層の整備が進む。ここに相撲社会が確立し、江戸勧進相撲へと展開し、その後の隆盛へと繋がる。

 

②幕府崩壊による頓挫

 江戸相撲の隆盛は、だが幕府の崩壊によって頓挫する。部屋や力士を後援してきた諸大名が、この期に没落したからである。維新回天を経て文明開化の世になった。古い江戸文化は、もう一顧だにされない時代に突入する。新しい西洋文化を前に、相撲興行は厳しい状況に立ち至った。

 鹿鳴館の饗宴の頃、相撲は、もう国辱とまで蔑まれるほどであった。「文明開化の御世に、相撲のような裸踊りなど許しておくのは怪しからん」という。当時は急速に洋風化が進む頃である。断髪脱刀の時代に、褌(ふんどし)姿の裸体に丁髷(ちょんまげ)を残す力士は、未開で愚劣の象徴であった。また刀を土俵上に持ち込むような興行は、野蛮な旧弊として侮られた。

 興行の衰退を防ごうと、相撲会所の改革が始まる。新たな観客動員、すなわち顧客の開拓が図られた。明治5年(1872)11月場所、始めて女性にも相撲見物が許される。それまで相撲会所は女性客を制限していた。その影響を残し、今も相撲協会は女性を土俵上には立たせない。当時の東京日日新聞は、女性への解放を「実に方今自主自由の権を賜うの際、相撲に限りて婦女を禁ずるの理あらざるはず、最も至当」と、大いに賛意を表していた。だがこの程度の改革では、衰退への歯止めは掛からない。まさに大相撲は消滅の危機に見舞われていた。

 

③明治の天覧相撲

 衰退の相撲興行に、予想もしない退勢挽回の機会が訪れた。それは意外な方面からのもの、至高の存在「帝(みかど)」の強い意向で、天覧相撲が行われたからである。

 昭和天皇も実に相撲好きであったが、時の明治天皇も、ことのほか相撲を好んだ。祐宮(さちのみや)と称した少年時代、学友の日野良光などと相撲を取って遊んでいた。天皇となって東京へ遷ってからも、なお侍従の山岡鉄舟などと、しばしば相撲を取っていた。

 帝が直々に相撲見物をする天覧相撲は、高倉天皇の承安4年(1174)以来、全く絶えていたものである。それが700年ぶりに復活した。明治天皇の相撲好きのためである。その天覧相撲は、前後9回行われている。

 最初の天覧相撲は、慶応4年(1868)の大坂行幸の折である。摂津一宮、坐摩(いかすり)神社の境内で、大好きな相撲を御簾(みす)の中から天覧した。第2回目は明治5年(1872)大坂造幣寮の庭上の相撲である。第3回目は明治14年(1881)東京の島津侯別邸で行われた相撲である。そして第4回目が有名な東京の芝の延遼館のものである。これは明治17年(1884)に行われた。

 延遼館においては、昔時の節会相撲に則り、絢爛の天覧相撲が行われた。これは様々な絵師により、見事な錦絵に描かれ、広く世に紹介されている。その結果、相撲興行は市民権を得て、再び世間の注目を浴びた。ちまたの相撲熱も、これにより再び盛り上がってきた。

 天覧相撲で結びの一番を取り、勝利した横綱梅ヶ谷(初代)は、その当時を回顧する。「玉座は土俵と三、四間しか離れておりません。それに向こうを見てはならない、とかねてから役人に注意されておりましたが、ただ嬉しさ、勿体なさに、胸が躍っておりましたので、龍顔を拝するどころではない。全然、眼が眩んだような気がしました」と、この時の興奮と一代の栄誉を、いつまでも記憶にとどめ語っていた。

 

日本相撲協会

 天覧相撲を契機に、丁髷、裸の相撲興行は、ようやく復権を遂げた。世の近代化に合致しようと、明治22年(1889)相撲会所は、ともあれ自らの名を「東京大角力協会」に改組した。そして大正14年(1925)文部省より認可を受け「財団法人大日本相撲協会」の名称を確保した。

 東京大角力協会(江戸勧進相撲興行)は、上方で相撲興行を続けて来た大阪角力協会(上方勧進相撲興行)と合意し、東西合併を調印する。そして昭和2年(1927)正式に「財団法人大日本相撲協会」として発足した。戦後の昭和32年(1957)ここから大の文字が削除され「財団法人日本相撲協会」と改称する。現在は「公益財団法人日本相撲協会」である。

 

⑤大相撲の人気

 公益財団法人日本相撲協会によって興行されるものを「大相撲」と称する。つまりアマチュア相撲(学生相撲や社会人相撲、あるいは草相撲や神前相撲)と区別する言葉として用いられる。その語彙の始まりは享保2年(1717)にも遡る。江戸相撲の番付の中で「大相撲興行仕り候」と記載したものが最初である。

 昭和に入り大相撲の人気は沸騰する。戦前は双葉山の前人未踏の69連勝という偉業があった。その不敗常勝の姿を、当時の皇軍と重ね合わせるファンも多かった。強国日本と大相撲そしてファンたる自分、そのような一体感である。

 戦後は栃錦若乃花による栃若時代を迎える。2人は小兵力士ながらも技は冴え、激しく動きながら巨漢力士を倒すのである。それは小国となった日本の、大国に対する姿を反映していた。逞しく激しく動く相撲、それは復興する戦後日本の姿なのであった。

 やがて柏戸大鵬による柏鵬時代が来る。豊かになった日本、茶の間の話題を大相撲はさらっていた。当時の流行語に「巨人、大鵬、卵焼き」と言うのがある。子供の好むものとして挙げられたのであるが、好んだのは子供ばかりではない。大人も老人も、そして女性たちも、みな大鵬が、そして豊かに成った日本が大好きだった。

 平成の時代に入っても、なお若貴兄弟の活躍があり大相撲の人気は持続する。豊かさ故に失われそうになった家族の絆を、彼ら兄弟はファンに成り代わり、取り結ぶのであった。そのような役割が、ラジオやテレビ、新聞や週刊誌など、マスメディアの普及により行われた。

 さらに言えば、いつでも、どこでも、だれでも、というインターネット時代に入ってきた。人々の自覚、国の自覚は、大きく様変わりする。相撲情報も国際化の時代に入ってきた。ハワイ出身の横綱、モンゴル出身の横綱が、ここに次々と登場する。伝統の国技、国技の相撲などという言葉は、もう死語になってしまった。

 

⑥国技たる大相撲

 相撲を国技と断じたのは、作家の黒岩涙香(1862~1920)が最初である。明治34年(1901)刊行の三木貞一編『相撲史傳』に彼は序文を寄せる。「汎く之を云へば、角力は日本の國技にて實は全世界の技藝なり」と、また「角力は我國の國技にして亦特技なり」と記している。涙香は海外小説の翻訳家としても知られ、明治20年から30年代にかけ「巌窟王」「唯無情」「鉄仮面」などを、始めて本邦に紹介した。それゆえ西洋文化と比較した日本文化の素晴らしさを、彼はよく承知していた。その見識は極めて高かった。

 明治42年(1909)に完成した両国「国技館」の名称は、その落成式の時に決まった。作家で好角家江見水蔭が、落成披露文に記した文中の文字に起因する。「そもそも角力は日本の国技、歴代の朝廷之を奨励せられ、相撲節会の盛時は尚武の気を養い来たり、年々この儀行われて、力士の面目、為に一段の栄えを加えしも、云々」という一節である。この文中の国技という文字に、水陰は特に大きな活字を指定した。これを見た当時の相撲界の重鎮、尾車親方(大戸平広吉)が、館名に「国技館」を提案し決定に至ったものである。

 以来、相撲は国技となった。両国の国技館が蔵前に移転しても、そしてまた再び両国に戻って来ても、その間、相撲は終始「国技館」で行われた。もう館名の変更はない。相撲は国技であり続けようとする。

 

⑦現代の相撲

 現代の相撲は、この国技相撲を少しずつ変質させていく。それは力士を送り出してきた日本の村落社会が変質し、大相撲の裾野であった村相撲(草相撲)が崩壊したからである。日本全土を覆う近代化(都市化)によって、地方の伝統相撲は消滅した。新たなスポーツとしての相撲に、いつしか意識変革が起こっていた。スポーツとしてのトレーニングを積んだ学生相撲出身者が、大相撲には増えてきた。相撲協会の理事長にも、この学生相撲出身者が就任する。

 アマチュア相撲の方も、活動基盤を、もはや村落に置くことはない。彼らアマチュア力士は、学校や職域から登場する。スポーツとしての競技会を経て、徐々に頭角を現してくる。行政の支援を受け、地域代表として、国体を始めとする全国競技会に参加する。相撲は今や純然たるスポーツとして、他のスポーツ競技との連携も顕著になってきた。当然プロとしての大相撲も、プロスポーツとしての自覚が進んできた。観客の意識も、もう様々に変わってきた。

 スポーツと見る一方で、それとは異なる「見世物興行」の一面も露わとなる。大相撲のショービジネス化である。そもそも江戸の興行相撲は、大衆の娯楽、観客を呼ぶ興行、芸能たるの相撲であった。その伝統芸能は、日本文化を代表する「能、歌舞伎、相撲」として並び称されていく。

 テレビ放映の結果、カラフルな「まわし」や、豪華絢爛な「化粧まわし」が、次々に登場する。塩撒きや仕切りの所作に、各力士は見せ場を作る。花のある土俵風景が今や展開する。「パフォーマンスが過ぎる」と、識者から批判も出てくるくらいである。勝負そのものも「相撲はケンカよ」と、ハワイ出身の大関小錦などは、率直に本音を語っていた。彼は派手なケンカ相撲を見せていた。引退後はタレントとして活躍し、相撲文化を世界に向け紹介する。

 大相撲が反映を遂げ、国際化し変貌してきたのと対照的に、隠岐の古式相撲、ことに水若酢神社に残る宮相撲は、変わることの無い伝統を今に伝えている。それは江戸期の勧進相撲を、そのまま、ありのままに残すものである。

 

隠岐の古式相撲

 公益財団法人「日本相撲協会」が主催する興行相撲を大相撲という。国技「大相撲」とも呼ばれ、古い伝統を伝えるものという。だがそれは江戸の勧進相撲が隆盛を遂げ、明治の近代化により大きく変貌してしまった新様式である。つまり全くの現代相撲なのである。これに対し、日本海に浮かぶ離島の隠岐には、なお今も古式の相撲が伝えられ、残されている。ここは鄙の地、文化の吹きだまり、中央では遙か昔に消滅したものが、なお化石の如く残り続けている。その遺残の文化を追うことで、古い相撲の姿を見出すことができる。

 第Ⅰ部として隠岐の「宮相撲」、すなわち隠岐一宮、水若酢神社に残る勧進奉納の相撲を、ここに紹介した。これは江戸期、寛政7年(1795)の記録を残す。つまり近世相撲そのものである。それが近代を経て現代の大相撲へと、どう変化し関わっているのか、それを解説した。

 次に第Ⅱ部で紹介するものは、神仏習合の惣村祭祀「神相撲」である。隠岐の幾つかの古社で行われる童相撲で、中世期の伝承と記録とを持つ儀礼としての相撲である。これを紹介しつつ、この中世相撲が、近世相撲、近代相撲へ、そして現代の大相撲へと、どう変化し関わっているのか、それを解説する。

 その次が第Ⅲ部で、隠岐国分寺に残る古芸能「舞相撲」の紹介である。これは隠岐国分寺「蓮華会舞」の中で執り行われる。蓮華会の舞は伎楽の痕跡を伝える仮面舞である。そこで行われる相撲の舞は、菩薩による相双の舞で、遙か天平の昔、執り行われていたものである。この古代から中世に至る相撲を解説しつつ、近世そして現代の相撲との関わりを考える。

 そして最後の第Ⅳ部に紹介するものは、この地に残る「原相撲(野相撲)」で、つまり野原で行われていた草相撲である。遊びとしての相撲、戯れの力くらべ、まさに相撲の源流にも遡り、解説を加える。さらには動物の相撲「隠岐の闘牛」などにも触れ、人類史上での相撲の意味を、今一度考えて見ることにする。そのような試みが、果たして成功するか否か。だが、相撲の深層に埋もれる人間の本質を、なんとか明らかにしてみたいと思っている。