隠岐の相撲(12)

第Ⅱ部、隠岐の神相撲

第2章、日吉神社の神相撲(Ⅱー2)

 ①日吉神社の神事(Ⅱー2ー①)

 ②近江の相撲(Ⅱー2ー②)

 ③日吉神社の相撲奉納(Ⅱー2ー③)

 ④神人たちの活動(Ⅱー2ー④)

 ⑤芸能の伝播(Ⅱー2ー⑤)

 

日吉神社の神事

 隠岐の島前(西ノ島町)浦郷の日吉神社山王権現)では、隔年に祭礼が行われる。五種の神事が行われるところから「五本の祭」と称されてきた。五種の神事とは、真言、神楽、庭の舞、神の相撲、十方拝礼である。今は三種で、庭の舞、神の相撲、十方拝礼とが奉納されている。

 地元の真野家および吉田家という祝部の家系に伝わる古伝承によれば、日吉神社は元は近江の真野庄に祀られていたという。真野庄の人、真野宗源(真野家の家祖)が、近江日吉社の祝部、吉田某(吉田家の家祖、名を失する)と共に、後白河法皇の御代、隠岐へ渡って来た。その折、氏神たる近江日吉社の祭礼神事を、そのままこの地に移し置いたものだという。

隠岐日吉神社のルーツは、だから近江国滋賀郡真野郷にある。日吉大社のある坂本(近江国滋賀郡大友郷)から少しばかり北で、琵琶湖の最狭溢部つまり北湖と南湖の境界部、その西岸に位置する。今、琵琶湖大橋が架かっていて、その西の袂にある。

 真野の日吉社とは、日吉大社の最も近隣の末社(小社)である。ここからは西近江路あるいは琵琶湖水運を利用すれば、日本海側へ直ぐに出られる。そして湊々を渡り継ぎ、隠岐へ渡ってきた。その途上には、やはり数多くの日吉社がある。

 浦郷の日吉神社、その祭祀に関わる真野家とは、近江の真野郷の出自であった。そして同じく祭祀に関わる吉田家とは、中世の吉田神道と深く関わっている。それは吉田(卜部)兼倶(1435~1511)に始まる神道の一流派であるが、別名、唯一宗源神道、元本宗源神道などと称していた。真野家の祖が宗源と名乗っていたのは、山王神道から宗源神道へ、ある時期、祭祀家として変遷していったからであろう。だが天台比叡の神仏習合祭祀であることは動かない。真野宗源と吉田某とは、この宗教的な同士つまり神人で、宗教的教線に沿い、共に隠岐へ渡ってきた。 

 

 

 

②近江の相撲

 浅井了意の『東海道名所記』は「近江の国は昔より相撲を取るもの多く、石部草津の両の宿より出合て相撲を取るに、云々」と記す。近江国東海道の中でも、殊に目立って相撲が盛んであった。高名な力士「近江の薑(はじかみ)」の名は『新猿楽記』にも載る。

 『庭訓往来抄』序によれば「田楽という事、山法師の下部し出したり、近江の坂本よりはじまりぬ。秋田なんどへ行てさるかく(猿楽)のまねをし、刃玉を取曲をして、後には神事祭礼をつとめしなり」とある。

 新井白石と安積覚との往復書簡『新安書簡』にも「坂田田楽の儀、古昔比叡の下法師、是を学び、日吉祭禮に此の儀式を為し」とある。

 また『申楽談儀』にも「田楽は、坂の上の良阿法師、山の力者也が、東塔に参りけるに、開き笠着、赤き物着たる者、棒の先に乗り、刀を廻らす、と見て、青蓮院にて申されければ、さらに汝学ぶべしとて、十三人の力者是を学ぶ。それより此道起こる」とある。

 確かに比叡天台の力者(力仕事を勤める下働きの者)たちは、相撲や猿楽や田楽などの諸芸に深く関わっていた。

 『明月記』によれば、承元元年(1207)の牒(相撲人の召し出し)は、和泉、河内、摂津、播磨、伊賀、近江、若狭に発せられている。すなわち近江国は、国相撲人(相撲節会に勤仕する相撲人)を常に貢進する、相撲の盛んな国であった。だから寺社祭礼の折、いつでも相撲奉納は可能だった。

 

日吉大社の相撲奉納

 『百錬抄』の仁安2年(1167)10月条にも「二十五日太上天皇日吉社に御幸(中略)二十六日競馬、二十七日相撲、二十八日還御」とある。太上天皇(後の後白河法皇)の臨御のもとに、日吉大社では奉納相撲が行われていた。

 日吉の神は天台護法の山王権現である。本地垂迹によって、仏と一体になり篤く尊崇されていた。遊興の人、後白河法皇は、参詣を兼ねた遊山遊楽に、この日吉社に赴いていた。そして、この間、相撲を叡覧した。

 比叡天台では、そして足下の大津や坂本の辺りでは、競馬、騎射、相撲、田楽、そして後白河法皇の好む今様歌謡が盛んだった。『梁塵秘抄』には、日吉の社、近江、天台などについての歌が載る。

 

   願(ねぎ)かくる 日吉の社の 木綿手繈(ゆうだすき)

                 草のかき葉は とよめづらしき

 

   王城東(ひがし)は 近江(ちかとうみ) 天台山王 嶺のお前

         五所のお前は 聖眞子(せいしんし) 衆生願いを一とうに

 

④神人たちの活動

 時は源平争乱の時代、力をいかに手中にするか、その力の信奉に比叡天台も関わり始めていた。「日本一の大天狗」たる後白河法皇も、その王城鎮護に寺社の役割を充分承知していた。それゆえ彼らの力を活用しようとする。

 琵琶湖水運を舞台に、経済力を高め、かつ武力も有していた日吉社の神人たちを、自らの手足にと、法皇は目論んだ。だが彼らは、鴨川の水、双六の賽と並ぶ「天下三不如意」の一つたる山法師である。当然、法皇の意のままにはならなかった。

だが力者たる山法師は、僧兵にもなれば人足にもなる。義経に付き従う弁慶のように、また従者にもなる。優れた技を持てば、相撲人にも推挙される。そのような力者たちが、坂本や真野の浦には多数いた。『金葉集』には「眞野の入江」を詠う歌が載る。

 

   うづら鳴く 眞野の入江の 浜風に 尾花なみよる 秋の夕暮れ

                           源 俊頼

 

 吉田東伍の『大日本地名辞書』は近江の真野郷について「和名抄、滋賀郡真野郷、訓は末乃(まの)。今眞乃村存す、堅田村、和邇村等も此中なりけん、中世眞野入江と云ふ名所は、眞野川の末なる湖湾なるべし」とある。

 その入江の里から日吉社へと人々は参詣した。寄進の荷を担ぐ力者を従えてである。少し後年ではあるが、足利直義日吉社奉納歌(維宗光吉集に載る)にも「眞野の入江」を詠った歌がある。

 

   みし秋の 尾花のなみに こえてけり 眞野の入江の 雪のあけぼの

                           足利直義

 

 隠岐の「神相撲」は近江の日吉社、その坂本(坂の上、坂の下)そして真野の入江の神人、力人たちによる奉納相撲が、そのルーツである。そこから琵琶湖を経由し、さらに北の日本海を渡り、隠岐に伝わったものである。

 

⑤芸能の伝播

 神人たちは、山王日吉社の麓、坂本や堅田や真野の浦を拠点に、琵琶湖を縦横に移動する。流通業のうま味を知り、琵琶湖水運を握っていた。さらに伊勢湾や日本海へも進出する。

 近江佐々木氏の勢力拡張は、その手足となる彼らの活動を、一挙に拡大させていた。利を求める神人たちによって、喜悦の祝祭(神楽、猿楽、田楽、相撲など諸芸能)は日本海沿岸へ、そして隠岐へと伝播していった。

 比叡山の麓、近江国滋賀郡の八幡神社滋賀県大津市南小松)には、隠岐と同様の「神の相撲」が残されている。神社拝殿前に紅白の幕を巻いた四本柱が立てられ、赤い褌姿の児童二人が「神の相撲」を取る。それは必ず一勝一敗の勝負とされる。その後、白い褌姿の児童たち大勢で、また奉納の相撲を取る。変遷の末、今や相当に異なっているが、隠岐日吉社の「神の相撲」と、そのルーツを同じくする。

 日本海側の丹後、その宮津の山王日吉神社にも、同様の「神の相撲」が残る。こちらのものも、子供の相撲である。ただし、見えない神と相撲を取るという神事である。やはり近江日吉社の芸能伝播の痕跡で、神事には神楽や太鼓(浮太鼓と称する)の打ち鳴らしがある。