第Ⅱ部、隠岐の神相撲[第3章、日吉社の五つの神事]

第3章、日吉社の五つの神事(Ⅱー3)

 ①五本の祭(Ⅱー3ー①)

 ②眞言の読誦(Ⅱー3ー②)

 ③神楽祭典(Ⅱー3ー③)

 ④隠岐神楽(Ⅱー3ー④)

 ⑤庭の舞(Ⅱー3ー⑤)

 ⑥東遊の歌詞(Ⅱー3ー⑥)

 ⑦日吉社の神相撲(Ⅱー3ー⑦)

 ⑧神事奉納の御幣(Ⅱー3ー⑧)

 ⑨三度の相撲(Ⅱー3ー⑨)

 ⑩十方拝礼(Ⅱー3ー⑩)

 

①五本の祭

 隠岐の浦郷(西ノ島町浦郷)に鎮座する日吉神社の古式祭典は、古来「五本の祭」と称され、伝えられてきた。次の如き五つの神事で構成されている。

 

   ①真言  :神扉を開き大般若経を読誦する。

   ②神楽祭典:これが祭式の中心で、勤仕するのは社家である。

   ③庭の舞 :東遊(あずまあそび)で、舞う奉仕の家は決まっている。

   ④神の相撲:子供二人で奉仕する。

   ⑤十方拝礼:田楽舞でシュウハイラという。舞人は十二人である。

 

②眞言の読誦

 眞言というのは、日吉神社の神扉を開き、その前で大般若経を転読する式典を行うものである。古老の伝えるところによれば、日吉神社別当寺、常福寺真言宗)の住僧により、古くから執り行われていたという。

 浦郷村の常福寺には、大般若経を転読するための古い経巻が残っている。現在383巻が残り、そのもっとも古いものの奥書には「正応二年巳牛九月、日供養了、願主沙門西蓮、執筆僧道忍法師、南無阿弥陀仏、奉込隠岐国美田庄浦方山王御宝殿」とある。浦方とは今の西ノ島町の浦郷(かつての浦郷村)のことである。正応2年(1289)とは鎌倉時代元寇弘安の役)の直後である。祭礼は「ムクリコクリ(蒙古高麗)」の災厄を、この国境の島で祓うものでもあった。

 日吉神社における鎮祭の開始時期は、この経文奉納の時期を、さらに遡る筈であるから、後白河法皇の御代という伝承は、充分首肯できる。それは近江佐々木氏の入部の時期でもある。

 高倉天皇の承安4年(1174)それは後白河院政の時代であるが、その7月5日、相撲の召し仰せがあり、22日に院の御所で相撲が行われている。この相撲に高倉天皇も足を運び見物していた。この天覧相撲では、勝負の前に僧侶の法会が行われた。神仏習合の式典で、前代までの相撲節会には無かったことである。勝負の後は、これまで通りの節会の展開で、また舞楽が演じられている。

 日吉神社で行われていた大般若経転読の儀式とは、この相撲の前段階で行われた法会のことであろう。そして相撲が演じられた後、同様に舞(拝礼舞)が演じられていく。それが日吉社の「十方拝礼(シューハイラ)」であろう。神仏習合の「神の相撲」とは、この時期の儀式の伝播で、時代的に矛盾は無い。

 

③神楽祭典

 五本の祭では、眞言に続き神楽が執り行われていた。隠岐には代々の神楽家が方々にあり、もともと神楽は盛んな土地柄である。島前に五家、島後に十一家が、代々続いていた。

 島前の世襲五家は、黒木村の宇野岩見家、浦郷村の秋月日向家、海士村の秋月和泉家と駒月越前家、知夫村の石塚備前家である。これら社家は、それぞれ自村の神楽祭典を司ってきた。大神楽の折は、五社家が一堂に会し執り行う。日吉神社の祭礼で演じられる神楽は、この五社家が全て揃う大神楽であった。

 一方、島後の神楽は周吉(すき)神楽と穏地(おち)神楽とからなる。周吉方の方は七家があり、下西村、東郷村、目貫村、有木村、原田村、元屋村、加茂村に、それぞれの社家がいた。穏地方の方は四家、郡村、北方村、油井村、都万村に、それぞれの社家がいた。つごう十一家である。その昔、十三家が有ったという。

 

隠岐神楽

 隠岐神楽について、番組の次第を掲げると、先ず前座七座が舞われる。これは七曲の舞である。

 

   ◎前座七座

      ①寄せ楽(場ならし)

      ②神途舞(神門舞または神戸舞)

      ③入れ申し(降神すなわち神降ろし)

      ④御座清目(巫女舞

      ⑤意趣の舞(祝言舞)

      ⑥花舞(散華舞)

      ⑦八神舞

 

 この七曲に続き、儀式三番が舞われる。この式三番に「岩戸」が加わり四曲となると「式の神楽」と総称する。

 

   ◎儀式三番(あるいは式三番)

      ①先払い(一番立、先駆け)

      ②湯立て(熊野)

      ③随神(弓矢八幡)

 

 次に舞われるのが「式外の能」で「神遊び」である。全曲舞われるのではなく、その場の雰囲気により、随時、または時間を見て、適当に入れられる。ゆえに「入れ舞」ともいう。最後に切部(市切部)が舞われる。

 

   ◎式外の能

      ①鹿島(かしま)

      ②愛宕(あたご)

      ③荒神(こうじん)

      ④天神(てんじん)

      ⑤佐陀(さた)

      ⑥恵比寿(えびす)

      ⑦鵜の羽(うのは)

      ⑧八重垣(やえがき)

      ⑨十羅(じうら)

      ⑪切部(きりべ)

 

 日吉神社で舞われていた神楽は、これらを適当に省略したものであるが、儀式三番は必ず舞われていた。だが今はもう神楽自体が行われなくなっている。

 隠岐の神楽は、もともと夜を徹して行われ、夜が明け始める頃、ようやく最も重要な神楽「御注連神楽(おしめかぐら)」が行われる。巫女が登場し、神懸かりとなって、お目当ての神託を告げるという儀式である。この巫女舞の神懸かりの秘法は、一家相伝の極秘事項である。外部に漏らされることなく、代々に伝授されてきたものである。

 

⑤庭の舞

 神楽舞の次は「庭の舞」である。庭の舞は、その名の通り、かつては神殿の前庭で行われていた。だが今は拝殿内で行われている。

 侍烏帽子に白の千早(ちはや)そして扇を持つ六人の舞である。三人ずつの舞人が、左右に分かれ、対面して座る。大相撲で言う、千秋楽の三役そろい踏みの如く、土俵の東西で対面して座る形で、舞は始まる。三役のそろい踏みが、三人一緒に土俵に入り、一緒に右、左、右と四股を踏むのに対し、庭の舞は一人ずつ舞う。

 まず左側(向かって右側)の上座の者から一人ずつ立ち、正中に進み、無言で手を右、左、右と交互に開き閉じして退く。そして右側(向かって左側)の下座の者が、また一人ずつ立って同様の所作を行う。それが一通り済むと、六人が一緒に立ち、神前に向かって唱和する。さらに輪になって連唱しつつ回る。これは東遊(あずまあそび)の歌詞に似る。

 

 左頭(三唱)けさの せくのもの ななつもの やつもの ことのしらべるがごとし

 右頭(応唱)おおー

 左頭(三唱)よくよく ちゅうもん ととのへて うたうもの しるべし

 一同(応唱)おおー

 一同(連唱) つるがなる うのはまであそぶはちどり あんぱれーれー らーれれ

 一同(連唱) こーまつるが うえで あそぶは ちどり あんぱれーれ らーれ

 一同(連唱) よろづ よーまでも あんぱれーれーら れーれー

 

⑥東遊の歌詞

 東遊(あずまあそび)は、競馬、賭弓、相撲など、勝負ごとが終わり、勝った方の主人がその配下をねぎらう環饗(かえりあるじ)の折、奏される舞である。東遊は宇多天皇が寛平元年(889)賀茂の臨時祭を創始した時に奏されたもので、以来、春日大社石清水八幡宮、山王日吉大社など、諸社の祭礼で行われるようになる。

 東遊の構成は、一歌(いちうた)二歌(にうた)駿河歌(するがうた)求子歌(もとめごうた)片降(かたおろし)の五部から成り、それぞれに歌詞がある。「庭の舞」の歌詞は、東遊の二歌や駿河舞の歌詞に類似する。

 

 ◎二歌

   え 我が夫子(せこ)が 今朝(けさ)の言出(ことで)は

   七絃(ななつを)の 八絃(やつを)の琴を 調べたる如(ごと)や

   如や 汝(な)をかけ山の かづの木(け)や をををを

 

 ◎駿河

   や 有度濱(うどはま)に 駿河なる 有度濱津に

   打寄(うちよ)する波は 七草(ななくさ)の妹(いも)

   ことこそ良し ことこそ良し 七草の妹は ことこそ良し

   逢へる時 いざさは寝なむや 七草の妹 ことこそ良し

 

   千鳥故(ゆえ)に 濱に出て遊ぶ 千鳥故に あやもなき

   小松が梢(うれ)に 網な張りそや 網な張りそ

 

 隠岐の「庭の舞」の歌詞を、二歌や駿河歌に倣い、復元してみれば次の通りである。相撲を取った後の還饗(かえりあるじ)に、中門口(田楽法師)により舞い謡われたものであったろう。

 

    今朝の夫子の者 七絃の八絃の琴の 調べたる如し をををを

    よくよく中門(中門口)整えて 謡う者知るべし をををを

    駿河なる有度濱で 遊ぶは千鳥 あやもなし れーれーらーれれ

    小松が梢(うれ)で 遊ぶは千鳥 あやもなし れーれ らーれ

    萬代までも あやもなし れーれーら れーれ

 

 日吉社の「庭の舞」に奏楽はない。だが本来はあった筈である。いつしか消滅し、その名残りの演奏が「れーれー らーれれ」「れーれー らーれ」の唱和へと転化したのである。ことのついでに付け加えておくと「をををを」とは、警蹕(けいひつ)で、歌の合図であろう。『催馬楽(さいばら)』の「阿知女(あちめ)」にも登場する。

 さて六人の舞人は、唱和しつつ舞い納めると、始めの如く神座に面し、一同で「此の宮の五本の祭する人は 寿(いのち)も長く千代の世までも さんよ さんよ」と唱える。庭の舞いは、こうして終わる。最後の詞章については「寿(いのち)も長かれ 智恵ふかし」と言う人もあったという。法師(中門口)たちによる、祭礼での祝いの詞葉(祝言の歌詞)である。

 

日吉社の神相撲

 神の相撲は、庭の舞に引き続き行われる。二人の少年が、庭の舞が行われる間、拝殿の左右の下座にひかえる。白の後鉢巻、額の中央に小さな白幣を挿し、着物姿で座っている。庭の舞が終われば、彼らは着物を脱ぎ、白褌の裸姿で立ち上がり、すぐに所作ごとを始める。

 席の前に準備してある三尺の白木綿(しらゆう)を、御幣に懸けて両手で捧げ、拝殿内を二人並んで神前に進む。一旦すわり、御幣と白木綿とを前に置き、そこから立ち上がり「相撲」と称する奇妙な所作ごとを行う。

 先ず左座(向かって右側)の少年が、立ったまま左手を腰に当て、右手を上に挙げ、身体を前に屈める。直ぐに身体を起こし、右手を挙げたまま屈伸して座り、三度の拝をする。次に右座(むかって左側)の少年が同様の所作を繰り返す。これが済むと、二人は前に置いた御幣と白木綿とを両手で捧げ、立ち上がる。「ホーハンニャゴヘイ」と掛け声を発し、同時に拝殿から外へ飛び出す。左に座っていた少年は左に、右に座っていた少年は右に、拝殿を回り、その後方で出合いを行う。つまり本殿の御前(庭前)で、両手に捧げる御幣と白木綿とを、互いに突き合わせる。その後そのまま引き返し、再び拝殿前から内へ向かい、拝殿の殿内に駆け上がる。これを三度繰り返す。一回目は左が早く、二回目は右が早い。三回目は二人が同時に拝殿内に駆け上がる。そして御幣と白木綿とを前に並べ置き、最初の座に直り、一連の所作ごとを終える。これが神の相撲である。

 

⑧神事奉納の御幣

 二人の少年が発する「ホーハンニャゴヘイ」とは、「奉般若御幣」のことであろう。大般若経を読誦し終わり、御幣と白木綿と共に奉るという意味である。神前にて拝礼(三拝)の所作ごとを終え、二人の少年は拝殿を降り、拝殿の後方で両者が出合いを果たす。この出合いこそが、おそらく相撲なのであろう。ここでは3回の相撲があり、一勝一敗の後、さらに三回目を行い、それを引分相撲という形にする。

 隠岐の対岸、出雲の美保神社では、船競争の「蒼柴垣(あおふしがき)神事」が執り行われる。この有名な祭の後に、拝殿で「座り相撲」が行われることを知る人は少ない。紋服袴着のまま、二人の達者が、互いに鉢巻に挿した小幣を座ったまま取り合うという相撲である。行司は御船番で、祝舞の時の扇を用い、この奇妙な相撲を裁いていく。三番勝負で勝敗を決し、これを行った後に、祭は解散となる。

 額の小幣とは、節会相撲の挿頭花(かざし)であり、相撲人の象徴でもある。すなわち相撲人自身の生命、存在そのものであろう。それを奪い合うのである。敗者となれば『古事記』が記す八重事代主(ヤエコトシロヌシ)の如く「その船を踏み傾けて、天の逆手を青柴垣に打ち成して、隠りましき」となる。つまり敗者となり服属となれば、その御幣(挿頭花)を差し出すのである。

 奈良の奈良豆比古(ナラズヒコ)神社(奈良市奈良坂町)の「神事相撲」は、相撲人二人が宮司から御幣の付いた榊の小枝を受け取る。宮司の「ミアワセテ、ミアワセテ」の声と、宮司の持つ御幣の挙上を合図に、相撲人二人は両手に持った榊を頭上高く差し上げる。そして「ホーオイ、ホーオイ」と大声で言いながら、拝殿の周囲を一歩ずつゆっくりと歩く。三周して元の位置に戻り、宮司に榊を返して終わる。両者とも、その生命の象徴を神に奉納する形である。両者の間には、対戦も無く勝負も無い。御幣(榊)が相撲人の生命の象徴であれば、そして相撲が儀礼となっていたのであれば、やはり引分けにするのが良いのであろう。だが元々は、神の託宣を尋ねるという勝負があった筈である。

 

⑨三度の相撲

 京都の静原神社(京都市左京区静原)の秋祭では、御旅所の天王社で相撲が行われる。素袍を着て弓と矢を持つ一和尚と二和尚とが、先ず登場する。二人は東西から出て、神前まで、ゆっくりと歩む。向き合って3回お辞儀をした後、また東西に分かれる。次に裃を着けた二人の相撲人が何も持たず、東西から出てくる。二人は歩み寄り、和尚と同様、お辞儀を3回した後、また東西に分かれる。これを3回ほど繰り返す。三回目に相撲人は「今度は、ほんまにとりまひょう」と声を掛け合い、自分の腰を叩く。だが両足を揃えて跳び上がるのみで、結局、取り組むことなく終わる。この3回の仕切りの如きものが相撲である。結局のところ、三度ほど神へ御伺いを立て、三度目で結論を得ようとするものである。

 奈良の水越神社(奈良市邑地町)の秋祭でも、やはり奇妙な所作事が三度繰り返される。宵宮に拝殿で行われる相撲である。褌姿の二人が、まず右手をつないで左回りに3回、ついで左手をつなぎ右回りに3回、拝殿の床板を踏み鳴らして歩き回る。それが神事相撲である。

 神の前で回るという所作は、奉納の舞に他ならない。それは乱拍子を伴うもの、神の降臨を促し、神に御伺いを立てる仕草である。それが三度ほどなされる。右するか左するか、迷いの末に三度目で結論を得る。

 近江の多賀神社(滋賀県犬上郡多賀町)秋祭で行われる「古知古知(こちこち)相撲」も、同様の三度の相撲である。古知古知とは古伝を知ることの謂いで、古い知恵を尋ねるという託宣の相撲である。もともとは童子による三度の神事相撲であったというが、今は氏子の青年たちによる三番勝負として行われている。

 日吉神社の「神の相撲」も同様で、迷いの末、ためらいの末、託宣の神にすがるという姿である。それは自らの運命を知ろうとして、無言の衆に、古い知恵を求めるというもので、結局の所、集団の叡智に他ならない。

 

⑩十方拝礼

 庭の舞、神の相撲に続き、日吉神社では十方拝礼が行われる。これは「しゅうはいら」と呼び慣わされている。十方拝礼の文字から判断すれば、四方八方そして天地二方への拝礼であったろう。だが今のそれは拝礼の儀式ではなく、喜悦する田楽舞(田楽踊)そのものである。

 その昔、うやうやしい十方拝礼の後、にぎやかな田楽舞となったのであろうが、厳正な拝礼はとっくに忘れ去られ、衆が喜ぶ舞や踊りや楽だけが残った。

 今残る「十方拝礼」は、中門口(田楽法師)2人、中踊り4人、四天師2人、子簓2人、子簓脇2人の、計12人で行われる。綺羅の衣装に四角笠を着け、太鼓や笛に合わせ「ソーイ、ソイ」といった掛け声を掛ける。竹の簓(ささら)、鼓などを手にして奏で、様々な所作ごとを披露しつつ、遊びつつ踊る「風流踊(ふりゅうおどり)」である。

 寛永元年(1624)9月9日の日付が残る古文書『浦之郷山王御祭礼之時記之者也』は、この踊りの次第を伝えている。前文はちぎれて無いが、その後に続く部分で、様子を詳しく記している。以下の通りである。

 

「先中門口、次四天、次小ざさら、次惣おどり次第、左右ながら舞出、正面渡候也。向合左右ながら正面なびきして、又楽屋へなびきして又向合すりちがいて、次正面、外をおがみ内をおがみ、又楽屋へ向、外をおがみ内をおがみて座渡りして、我が座のごとくおどりて、又すりちがいして、まるく成て順に渡りて、人の座にうつして外にあふぎをとりて、ひらいて渡り候なり。又我が座ニ而、はら合、せな合して、向合すりちがいして、立わき、居わきして、又まわり合、すりちがいして笠合して、左右へのぞき合、又うしろへ向おい合、次に立せきを正面へして、居せきを楽屋へあときまゑ引候也」

 

 風流踊は、中門口(ちゅうもんぐち)、四天師(すってんで)、子簓(こざさら)が順次に踊り、最後は総踊りとなる。各地の盆踊りの「花笠踊」にも似た風流の舞踊である。だから、この「しゅうはいら」とは、あるいは「衆拝礼」のことかもしれない。大衆が集い、衆人歓喜する中で、外を拝み、内を拝みと、踊りつつ四方八方を拝むさまが記される。天地の神々、四方八方の神々、千万億の仏達へ、そして遍き代々への、舞踊の拝礼であった。