第Ⅱ部、隠岐の神相撲[第4章、美田八幡宮の神相撲]

第4章、美田八幡宮の神相撲(Ⅱー4)

 ①美田八幡宮の祭祀(Ⅱー4ー①)

 ②美田八幡宮の大祭(Ⅱー4ー②)

 ③美田八幡宮の三度の相撲(Ⅱー4ー③)

 ④三献の儀式(Ⅱー4ー④)

 ⑤生命の奉納(Ⅱー4ー⑤)

 ⑥美田八幡宮の獅子舞(Ⅱー4ー⑥)

 ⑦獅子と獅子児(Ⅱー4ー⑦)

 ⑧近江の獅子舞(Ⅱー4ー⑧)

 

①美田八幡宮の祭祀

 隠岐の島前(西ノ島町)美田に鎮座する美田八幡宮にも「神の相撲」が残されている。社伝によれば延喜元年(901)山城国男山より分祀勧請したとある。すなわち本社は石清水八幡宮である。祭神は当然ながら八幡三神で、誉田皇命(こんだのすめらみこと)足仲彦命(たらしなかつひこのみこと)気長足媛命(おきながたらしひめのみこと)である。

 浦郷の日吉神社が、近江国日吉社の神人によって勧請されたように、この美田八幡宮山城国石清水八幡宮の神人によって、この地に勧請されたのであろう。

 石清水八幡宮の祭祀は、清和天皇貞観元年(859)から始まり、朱雀天皇の天暦2年(948)勅祭となっている。円融天皇の天延2年(974)には、朝廷の諸節会に準じ、雅楽寮の楽人舞人が楽舞を奏することとなった。以来、ここでは舞楽や相撲や田楽などといった諸芸能が、にぎわい行われるに至った。

 山城の男山、大山崎の辺りは、運輸、通商、諸芸能に携わる数多くの神人、供御人、散所民たちがいた。この地は、彼らによって、中世日本の経済の核を形成する。八幡宮の神人たちは、油商人や皮革商人、また紺座商人や麹座商人として、淀川水系、琵琶湖水系を軸に、全国にその商業網を広げていた。隠岐へも当然、その商路を延ばしている。

 美田八幡宮の前身は、現地の土地神の祭祀であった。だが中世流通経済の発達、特に日本海水運の発達は、この八幡神への安全祈願、富貴祈願、子孫繁栄をと、祭祀の転換を促した。やがて土地神に替わり、八幡神の勧請、鎮祭へと至ったのである。

 

②美田八幡宮の大祭

 近江佐々木氏の隠岐入部は、この八幡神の祭祀に決定的な役割を果たした。佐々木氏は源氏の一党(佐々木源氏)である。当然ながら美田八幡宮は篤い信仰を受ける。隠岐国美田庄(美田郷)の総社として、以後、祭祀が営まれる。文化10年(1813)の『八幡宮祭礼式書』は、この総社祭が代々の隠岐守護職により、にぎにぎしく斎行されていたことを伝える。

 正長2年(1429)撰の『美田村神社縁起集』は寛延4年(1751)に書写され、現在に至ったものである。ここに元弘の変(1331)で隠岐配流となった後醍醐天皇八幡神との関わりを伝える説話が載る。

 天皇隠岐から脱出する折、八幡神が「翁と現じて、天皇を守り奉り、美田小向ノ津まで案内」し、それを謝す天皇は「天下一統の上、正八幡大神宮と拝し奉る旨、御綸旨被下云々」と記してある。すなわち美田八幡宮は、古来、この地で篤い尊崇を受け続けたことはもとより、至高の帝からも、極めて篤い尊崇をうけたのである。それゆえ、その大祭は民衆の支持により、大いににぎわっていた。

 近世に入ると、隣接の別府の地に、隠岐国島前代官所が置かれ、為政者、松江藩松平家の代官、およびその配下の者たちが暮らし、彼らによる崇敬もあり、いよいよ賑わっていた。

 現在、美田八幡宮の大祭は、隔年9月15日に行われ、旧美田村地区7集落(大山脇、美田尻、美田、別府、物井、蔵の谷、宇賀)の奉仕により行われている。大祭の当日、美田八幡宮では、神主が禰宜を同道し本殿に上る。そして神前の御扉を開く。その後、籠所にて神楽が始まる。拝殿前に設けられた桟敷(演芸用の舞台)で「神の相撲」「獅子舞」「十方拝礼(田楽舞)」が順次に奉納される。

 

③美田八幡宮の三度の相撲

 神の相撲は、日吉社のものと同様、少年2人で行われる。1人は白褌を締め、今1人は赤褌を締める。それぞれ白の後ろ鉢巻をして、小幣を額の左横に挿す。昔は、小幣は髷(まげ)に挿したという。柄の長い白幣に麻布一反を懸け、これを両手で支え持ち、奉納桟敷に入る。そして神座に対面して座し、三度の拝礼を行う。その後、2人は桟敷の中央に進み、互いに向き合う形で立つ。その斜め後方の左右に、行司役の2人が付き添っている。

 少年2人が麻布を懸けた幣を、それぞれ下に置き、両手を腰に当て構えると、左座の行司が「神の御相撲を致す」と声を発する。すると2人は拍手を打ち、左右に手を開く。続いて頭に挿した小幣を交換する。そして麻布の幣を持って桟敷を駆け下り、互いに左右に分かれて桟敷を回る。向こう側の拝殿前で2人は行き会い、そこで麻布を軽く触れ合わせる。直ぐに半回転し、また元の道に馳せ戻る。これを3回繰り返して終わる。この時、行司役も2人の少年の桟敷回りに同行する。これが「三度の相撲」である。

 2人の少年は左右に桟敷を回る。この左右に分かれた2人の少年は、まず左座の少年が先に桟敷に戻り、右座の少年が遅れる。次に右座の少年が先に桟敷に戻り、左座の少年が遅れる。そして三回目は左右が同時に桟敷に戻るというもので、一勝一敗そして一引分けの相撲を演じる。

 こうして行われる美田八幡宮の「神の相撲」も、全く日吉神社のものと同じである。同じ頃、同じルートで伝わったものであろう。近隣ゆえに、互いに伝承を伝え合い、崩れることなく今に至った。

 

④三献の儀式

 日吉神社の神相撲も、美田八幡宮の神相撲も、奇妙な拝礼を三度繰り返す。拝殿あるいは桟敷を三回まわる。つまり三度の出合いの所作ごとを行う。それは節会における「三献(さんこん)の儀」あるいは「式三献(しきさんこん)」と同じである。

 三献の儀は、結婚式における「三三九度」の杯ごとや、出陣式や勝ち鬨における「えい(鋭)えい(鋭)おー(応)」の三度の掛け声や、宴会での「一本締め」や「三本締め」に見る終了儀式に、その名残りを残す。だが本来は五体投地にも匹敵する鄭重な拝礼の儀式であった。

 『小右記』寛弘元年(1011)正月の条は、元日節会の「三献の儀」に、大和吉野山から国栖が参賀し、歌笛を奏するのが毎年の慣わしであるが、この儀が執り行われなくなったと記す。国栖とは土蜘蛛の一族で、神武天皇八咫烏の先導で吉野山中を進んだ折、服属してきた蛮族である。三献の儀とは、この服従を示すもので、鄭重な所作を伴う服属拝礼の儀式なのである。

 

⑤生命の奉納

 神の相撲において、三度の服属拝礼を行う相撲人(童子)とは、その額に白鉢巻を巻き、御幣を挿す存在である。それは自らの身を奉納品として差し出す姿で、服属服従の結果、生殺与奪の権も含め、全てを委ねるということである。赤紙によって戦場に赴き、真っ赤な血に染まり斃れていった天皇の赤子(せきし)と同じで、神への生命奉納ということである。

 相撲人(子供)の鉢巻は、後結びの「後ろ鉢巻」である。後ろ鉢巻は、古墳から出土する力士埴輪にも見えるところで、古い慣習に基づいている。死者を棺桶に入れ、神送りするとき、その額に巻く三角形の鉢巻は後ろ結びである。特攻隊が突撃するとき、その戦士の鉢巻も後ろ結びである。沖縄の神事「イザイホー」で神女が白鉢巻を結ぶのは、後ろ結びである。

 そもそも鉢巻の結び方には、大別すると、結び目を前あるいは横にする「向こう鉢巻」と、結び目を後ろにする「後ろ鉢巻」とがある。簡単に言えば「向こう鉢巻」は陽の威力(活力、生産、祝事)に、そして「後ろ鉢巻」は陰の威力(霊、魂、死)に関わる。そのような鉢巻に挿した御幣とは相撲人自身の生命の象徴であり、神相撲そのものも、神への力の奉納、活力の奉納、生命力の奉納であった。

 

⑥美田八幡宮の獅子舞

 「神の相撲」の次は「獅子舞」である。角折れの胴長獅子が、二人立ちで登場する。見物席である桟敷を一周したあと、舞台に上がる。酔っ払ったような恰好で、ふらふらと回ったあと、横になり寝る。すると周りから「獅子こそ寝たれ、起きることァならぬ」の声が揚がる。だが、やがて目覚める。目覚めた獅子は大あくびをしたあと、ノミを取る所作をする。そのユーモラスな恰好に笑いが起こる。鼕(どう)と鐃鉢(にょうばち)の囃子(はやし)に合わせ、これを三回ほど繰り返す。そして大あくびのあと退場する。

 相撲の原型を思わせる「神の相撲」に続き、こうして年占と諸霊鎮めと言われる「獅子舞」が舞われる。獅子舞に悪霊退散の意を汲み取ることもできるが、獅子が寝入り、また起き出すこととは、大地の聖霊の「死と再生」の意味がある。死の冬が来て、生の春が来る。巡り来る豊穣と繁栄を舞台上で演出するものである。

 だが猛獣の獅子が登場することから、この生死循環の思想は、大陸起源の牧畜民の文化に起因する。その大陸から半島を経由し、日本列島へと流れ込んだ。さらに隠岐の島へと至ったのである。

 

⑦獅子と獅子児

 獅子舞は日本各地の祭礼で、よく行われている。その普及は日本ばかりではない。韓国でも中国でもインドでも、そして東南アジアでも行われている。日本へは伎楽伝来の頃に、芸能の一部として将来された。正倉院東大寺法隆寺などには、古い獅子頭が残されている。伎楽は仮面仮装の行列つまり行道(ぎょうどう)と舞踊劇から成っていて、仏教の教義の外相を現そうとするものという。

 行道は法要などに行列をつくり、音楽に合わせ練り歩くものである。伎楽の場合、まず先頭に立つのは治道(ちどう)で、口髭、顎髭を蓄えた赤い鼻高面を被り、手に矛を持って、先払いの役を務める。進む道を浄める役割という。治道の次には、獅子が続く。獅子には一頭あたり二人の獅子児が付く。これは童子で、獅子の手綱を取る獅子あやしである。獅子は可憐な少年にあやされつつ行進する。

 また舞踊の場にあっては、獅子舞は伎楽の序曲として最初に舞われる。やはり舞台を浄めるのだという。舞台では獅子と関わる獅子児の舞も演じられるが、美田八幡宮の獅子舞には、その童子舞はない。替わって童子による相撲がある。

 神の相撲とは、その起源は獅子舞と共に舞われた童子舞で、二人の獅子児が相対して舞う相双舞であった可能性がある。これについては、また後に述べる。

 

⑧近江の獅子舞

 さて隠岐の獅子舞は、どこから流れて来たものか。江戸初期に成った『人倫訓蒙図彙(じんりんきんもうずい)』の獅子舞の項には「悪魔を払といふなり。出所たしかならず(中略)日吉の神事に田楽法師というもの獅子の頭をかつぎてねりわたる也。今の獅子舞は是をうつしたる也」とある。

 文化12年(1815)刊行の秦石田と秋里籬島の『近江名所図会』には、近江日吉社の神幸図が載る。その行列を眺めると、先頭を行くのが御幣で、高僧がそれに従い、その後を幸鉾と巨大な榊が進む。次が騎乗の神人で、その後を一疋の獅子と二人の田楽法師が続くというものである。つまり日吉社の祭礼には、獅子舞と田楽は付きものであった。それゆえ隠岐の獅子舞は、やはり近江から、田楽と共に伝わったものであろう。