第Ⅱ部、隠岐の神相撲[第5章、田楽の舞]

第5章、田楽の舞(Ⅱ-5)

 ①田楽の始まり(Ⅱー5ー①)

 ②田楽の奉納(Ⅱー5ー②)

 ③田楽の隠岐流入(Ⅱー5ー③)

 ④八幡宮祭礼式書(Ⅱー5ー④)

 ⑤美田八幡宮の棟札(Ⅱー5ー⑤)

 ⑥八幡宮の十方拝礼(Ⅱー5ー⑥)

 ⑦煌びやかな風流踊(Ⅱー5ー⑦)

 

①田楽の始まり

 永長元年(1096)の夏、祇園御霊会に伴い田楽が大流行する。京洛は狂乱の巷と化し、庶民から貴族まで装束を競い、2か月余りの間、日夜踊り狂った。それは江戸の「おかげ参り」や幕末の「ええじゃないか」の如きマスヒステリアで、全ての人が興奮乱舞する大流行であった。大江匡房の『洛陽田楽記』は「けだし霊狐のなす所なり」と記す。

 田(田作業)を囃す楽としての田楽は、労働を円滑に推進させるため、歌や囃子を用いた田植儀礼に、その端を発する。稲の豊かな実りを、奏楽により祈願するものであった。囃子が神の霊力を殖やし、より活発に発動させると信じられていたからである。『類聚国史貞観6年(864)2月25日条は、山城国司の紀今守が郡司百姓らを率い「耕田之礼」を行ったことを載せる。「耕田之礼」が楽を伴うことは、貞観8年(866)閏3月朔日の記事によっても知られる。

 

②田楽の奉納

 延喜22年(922)の「摂津国大鳥大明神五社流記帳」(『平安遺文』所収)は、4月7日の祭礼に十烈(とおつら)や細男(さいのお、くわしお)などと共に、田楽の奉納を伝えている。

 また『日本紀略』長保元年(999)4月10日条は、松尾神社の祭礼に、山崎の津人が田楽を奉納することを記す。それは恒例のものだという。

 『栄華物語』は治安3年(1023)5月、芸能化した遊興の田植行事を記す。白い笠に白い裳袴をまとった若く美しい早乙女らが5、60人ばかり、並び立ち、そこに汚らしい田主(たあるじ)という翁や、まだら化粧の女が、足駄を履き大傘を挿して登場する。「田楽といひて、怪しきやうなる鼓、腰に結い付けて笛吹き、ささらといふ物突き、さまざまの舞して、あやしの男ども歌うたひ、心地よげに誇りて十人ばかりゆく」という情景を呈する。まさに専業の田楽衆が十人ほどでリードを取り、大勢の女どもと共に、歌い、囃し、踊っているのである。

 このような遊興の田楽は、いよいよ人気を博し、世に広がっていった。歌い、囃し、踊るのは、もはや専門の田楽衆ばかりではない。一般民衆も、この田楽という芸能を、共に楽しんでいる。

 永長(1096~97)の大田楽の頃は、もう人々を日夜、行動に駆り立てるほど身近な存在に普及していた。『洛陽田楽記』には「高足、一足、腰鼓、振鼓、銅拍子(どひょうし)、編木(びんざさら)、殖女、春女の類、日夜絶ゆることなく、喧嘩の甚しき、よく人の耳を驚かす。諸坊、諸司、諸衛、各一部をなし、或ひは諸寺に詣で、或ひは街衢(がいく)に満ち、皆狂ふが如し」とある。田楽への興奮は、その頂点に達していた。このような田楽は、またたく間に地方へも伝わっていく。当然、隠岐にも渡って来た。

 

③田楽の隠岐流入

 平安末期から鎌倉期にかけ、村々の祭礼に田楽が多く取り入れられる。奉納の演者は専門の田楽衆ではない。それを演じるのは素人の村人たちであった。田楽が芸能として人々を捉え魅了した時期、都鄙の巷に田楽が一斉に風靡した時期であったからこそ、衆の集う祭礼に、これが取り入れられた。これは参加型芸能のはしりで、演じる者も、奏する者も、そして観る者も、皆、この田楽を楽しみ喜悦した。

 隠岐にこの田楽が伝わったのは、いつの頃だろうか。残念ながら、それを記録で追うことはできない。ただ近江佐々木氏が隠岐国の総地頭職として、この地に封ぜられて以来、近江、若狭、出雲、隠岐と、日本海水運の流れに沿い、近江の諸文化、諸芸能が、この鄙の地に濃厚に伝えられることとなった。神仏習合の日吉天台の信仰を始め、田楽や獅子舞や相撲が、この時期、隠岐に強く定着していった。

 近江佐々木氏の一統は、この地で、民が心を一にする神事、祭事を行い、風流田楽などにぎやかな諸芸能を催し、民衆の支持を集めた。そして新たな政治(まつりごと)を円滑に執り行うのであった。

 だが室町期に至れば、職業的田楽芸能者たちは、新たな猿楽の能、田楽の能を演ずるようになる。それは物語性を深く持つ洗練された芸能で、よりいっそう衆を引き付けた。世を興奮と狂乱に巻き込んだ田楽芸の流行は、もう終わってしまったが、社寺の祭礼においての奉納芸能は、この新たに流行してきた風流の能に置き換わり、なおも継続されていく。そして古い田楽芸の方は、社寺祭礼の中で、次第に儀礼化した伝統行事の中に埋没していった。

 

八幡宮祭礼式書

 文化10年(1813)の『隠州嶋前美田邑八幡宮祭禮式書』には、古記として「醍醐天皇の御宇延喜元辛酉年八月十五日に山城国男山より隠州知夫里郡美田院へ勧請」とある。摂関家近衛家)の荘園であった知夫里庄に、醍醐天皇の延喜元年(901)山城国男山から八幡宮が勧請されたのである。新しい神を迎え、その翌年の「延喜二年より、歳を隔て国主隠岐守義信公より、八月十五日、天下太平、国家安全、五穀成就、子孫繁栄の為に田楽の大祭を遊ばされ候所に、その後、御支配代り、元弘二年未八月より佐々木隠岐判官公より、国中の御祈祷この社において祈るに、霊験あらずと云うことなし」と、引き続き来歴が語られる。

 知夫里庄が美田院として摂関家領から四条宮の院領に移るのは永承5年(1050)のことである。その後、保延5年(1139)に高陽(かや)院領となるが、また再び近衛家領へと戻る。美田郷の宇賀牧が平家私領であった記録が残るから、摂関家領から平家領に、この荘園の変遷が窺える。そして源氏の世の到来と共に、平家領から、近江佐々木氏(隠岐国総地頭職)領へと転換した。国主の隠岐守義信とは、その佐々木氏の一族、頼朝挙兵に加わった佐々木兄弟の末弟、五郎義清の流れである。承久の乱(1221)により、隠岐守は太郎定綱の系統から五郎義清の系統へと移っていた。

 

  佐々木氏(義清流)系図

     佐々木(五郎)義清┬政義

                                                  └泰清┬時清─宗清─清高(隠岐判官)

                  ├頼泰

                  ├義泰

                  └義信

 

 さらに後年、元弘の乱(1331)が起こる。義清の子孫で隠岐判官の佐々木清高は、幕府の命により、隠岐配流の後醍醐天皇を厳重に監視していた。だが元弘2年(1332)閏2月、後醍醐は隠岐を脱出した。追い掛ける清高は、折悪しく、京の六波羅陥落に遭遇する。そして鎌倉幕府も崩壊した。行き場を失った清高は、敗走する六波羅探題北条仲時らと、近江の番場で5月9日、自決してしまう。だから八幡宮祭礼式書に載る佐々木隠岐判官は、その「元弘二年未八月」の時点で、もう生存してはいなかった。だがその年は、記憶に残る程の、確かにエポックを劃する程の年であった。

 

⑤美田八幡宮の棟札

 隠岐判官佐々木清高が近江番場で自死した後、隠岐の支配は五郎義清の系統から再び太郎定綱の系統に戻った。足利政権樹立の立役者、佐々木高氏(道誉)の功績による。隠岐守護職は山名氏であったが、明徳の乱(1391)で没落し、道誉の孫、京極高詮が隠岐国守護となった。そして隠岐守護代に左衛門尉清泰を充てた。

 

 京極佐々木氏系図(諸説あり)

  太郎定綱―信綱―氏信―満信―宗氏―高氏(道誉)―高秀┬高詮(京極佐々木)

                            ├高久(尼子佐々木)

                            ├清泰(隠岐守護代

                            └秀重(隠岐佐々木)

 

『明徳記』には佐々木(京極)高詮が「代官隠岐五郎左衛門尉秀重を出雲国に発向」と載る。高詮は隠岐守護代隠岐代官)として、清泰に代わり末弟の秀重を、出雲から隠岐へと派遣した。以後、秀重の系統は在地化(領主化)し、隠岐佐々木氏(隠岐氏)を名乗る。

 

  隠岐佐々木氏系図(諸説あり)

    隠岐秀重─清秀─清綱ー宗清(清政)─豊清┬為清─経清(少輔五郎)

                       ├清家─才五郎(甚五郎)

                       └清実(景房)

 

 隠岐佐々木氏は、隠岐宗清、豊清、為清の三代で、隠岐統一を果たす。そして戦国動乱期を生き抜いた。だが尼子氏滅亡の後、毛利氏に与するか織田氏に与するかで、家中が真っ二つに割れた。

 為清の死後、隠岐佐々木氏の支柱となったのは弟の清家で、彼は毛利方に付いた。我が子の才五郎(甚五郎)を人質に差し出し、隠岐支配の安堵を受けた。だが為清の遺児で家督を継ぐ経清は織田方に肩入れし、この清家を暗殺してしまった。すでに毛利氏に仕えていた才五郎が、この暗殺の情報を受け、毛利の援軍を率い、密かに隠岐島前に渡って来た。島後の今津から上陸し、夜陰にまぎれ、経清の居城(甲尾城)を急襲する。そして経清を屠ってしまった。だがこの内紛劇により、隠岐佐々木氏の支配は終わった。天正11年(1583)のことで、以後、隠岐は毛利氏の支配となる。

 本能寺の変、山崎の合戦、賤ヶ岳の合戦を経て、天下人となった秀吉は、天正13年(1585)京の大徳寺で大茶会を催す。戦国の世が終わったことの証、平和のための大饗宴である。

 美田八幡宮には古い棟札が残っていて、そこには「天正十三年、当国守護佐々木九左衛門尉源義信」とある。すでに隠岐佐々木氏は滅亡し、隠岐の支配権は秀吉の了解の下、なお毛利氏の手に握られている。毛利氏に仕えた才五郎の、祖先の名を掲げた、あるいは名乗った寄進が、ここであったに違いない。

 社殿を整えることは、甲尾城落城に伴う戦死者たちへの追悼の意味を持つ。この棟札は、戦国を駆け抜けた名も無い雑兵たちの死に対し、あるいは骨肉の争いとなった陰惨な殺戮に対し、その鎮魂の碑文にも読めてくる。美田の地は、才五郎が甲尾城に攻め入る出発地(兵站基地)であったから、その出陣の折、この八幡宮の社殿に詣で、必勝を祈願した。その霊験あらたかであったゆえ、社殿修復の寄進が行われたのである。修復が成った折、美田八幡宮の社前では、深い鎮魂の祈りと、追悼の諸芸能が執り行われた。それはやはり戦国の世が終わったことの証で、平和の祭典なのであった。

 

八幡宮の十方拝礼

 美田八幡宮の田楽も、浦郷の日吉神社の田楽と同じで「十方拝礼(シュウハイラ)」と称する。その田楽踊りの中心となるのは、やはり日吉神社と同様の中門口である。

 中門とは、権勢ある皇族や貴族の家の中門、また大社寺の聖域を区切る中門を言う。中門口とは、この門の口に控える法師たちを言った。田楽法師や千秋万歳法師たちが、この中門で「門誉め」しつつ舞ったことからの用語である。

 折口信夫の『国文学の発生(第三稿)』は、中門口の「口」の意を「語り」であると解く。「門誉め」の語りで、法師たちによって囃しつつ「門誉め」して踊るものであったという。万歳法師たちの「門誉め」の踊り唄とは、次のようなものでもあったろう。

 

   〽 御門のかかりを 見てあれば 門も黄金 扉も黄金 

         閂までが みな黄金 みな黄金   (踊唱歌 長者踊)

 

   〽 一の門あけ 二の門ひらき 三心得て 門あけろ

     錦を踏んで 白金を踏んで 黄金を踏んで 立ち廻る

     天竺の寺も あの如く あの如く

     月の若さで 場を広めろ 場を広めろ

     こりゃ なに踊り 

     長者踊りを 踊るよう ひんやあ 踊るよう (伊豆新島 長者踊)

      

 美田八幡宮では、鳥居の口(鳥居から門入りした場所)に、特設の桟敷が設けられる。そこは田楽の舞台で、僧衣に似た青摺の衣を着る中門口(田楽法師)二人が、花笠を被り、編木(びんざさら)を持って登場する。彼らは中門口脇(脇法師)二人を従え、かつての田楽法師の面影を残しつつ踊り始める。

 中門口(田楽法師)の次は、小鼓を持つ四天師(すってんで)の踊りである。四天師の二人は、鳥兜(とりかぶと)広袖(ひろそで)裁着袴(たっつけばかま)の装束で、鳥とも称される。彼らは編木を持つ鳥脇二人を従え、小鼓を打ちつつ、やや急テンポの四天師踊を踊る。

 四天師の次は、子簓(こざさら)の踊りである。二人の子供が花笠を被り、振袖着、裁着袴で、摺簓(すりささら)を持ち、子簓踊りを踊る。この子簓二人にも、やはり子簓脇二人が従っている。

 囃子(はやし)は鼕(どう)と笛とを奏する。そして元は楽譜の記号ではないかと思われる意味不明の囃子詞を、終始連呼する役柄がいる。この鼕、笛、囃子詞に合わせ、神前の特設桟敷で皆が踊る。始めは二人づつ、中門口、四天師、子簓の順で踊り、次いで総踊りと称し、それぞれの脇も含めた十二人全員が、この特設桟敷の上で一緒に踊り出す。最後にランジャ(乱声あるいは乱者)と称し、再び中門口二人が踊り、十方拝礼は終わる。

 

⑦煌びやかな風流踊

 美田八幡宮の十方拝礼そして浦郷日吉社の十方拝礼、これらは『太平記』に載る勧進田楽に類似する。南朝で言えば正平4年、北朝で言えば貞和5年(1349)のこと、足利尊氏が京の四条河原で主催したものである。余りの観衆の多さに、舞台桟敷は倒壊してしまう。多数の死傷者を発生させたことで記事になった。中門口や童子たちが登場する舞台は、だが実に煌びやかなものだった。以下のような情景である。

 

  律雅調冷く、颯声耳を清処に、両方の楽屋より中門口の鼓を鳴し音取笛を吹立たれ ば、匂ひ薫蘭を凝し、粧ひ紅粉を尽くしたる美麗の童八人、一様に金襴の水干を著して、東の楽屋より練出たれば、白く清らかなる法師八人、薄化粧の金黒にて、色々の花鳥を織尽し、染狂たる水干に、銀の乱紋打たる下濃の袴に下結して、拍子を打、綾笠を傾け、西の楽屋より煌めき渡て出でたる様、誠に天魔波旬ももろともに、袖を翻すかとぞ見へたりける。一の簓は本座の阿古、乱拍子は新座の彦夜叉、刀玉は道一、各神変の堪能なれば、見物耳目を驚す。(太平記、巻第27)

 

 奈良の春日大社にも風流の田楽踊が残されている。中世の春日社では、法師たちが田楽座を結成し祭礼に参勤、さらに本座、新座へと発展していた。長禄4年(1460)の『若宮祭田楽頭記』は、本座の田楽法師13名の交名を挙げ、その役を注記している。それによると編木(びんざさら)6名、太鼓5名、小鼓1名、笛1名という編成である。

 室町前期成立の『増鏡』には、関東の若宮(鶴岡八幡宮)を紹介する記事が載る。若宮の祭礼は本社の石清水八幡宮放生会を真似るが、その「法会のさまも本社にかはらず。舞楽、田楽、獅子がしら、流鏑馬など、さまざま所にしつけたる事どもおもしろし」とある。このような情趣に溢れ、綺羅綺羅しい田楽芸が、隠岐の美田八幡宮でも演じられていたのである。