第Ⅱ部、隠岐の神相撲[第6章、武良の祭]

第6章、武良の祭(Ⅱー6)

 ①日月陰陽和合祭(Ⅱ-6ー①)

 ②隠州の古祭祀(Ⅱ-6ー②)

 ③武良祭の起源(Ⅱ-6ー③)

 ④常楽寺の相撲(Ⅱ-6ー④)

 ⑤八王子神社の祭神(Ⅱ-6ー⑤)

 

日月陰陽和合祭

 島後(隠岐の島町)の中村は、律令期の隠岐国穏地(おち)郡武良(むら)郷で、中世には武良庄(むらのしょう)といった。ここに古い伝統を残す武良祭(むらまつり)がある。日神と月神とが出合う祭礼で、それゆえ日月陰陽和合祭という。略して陰陽和合祭とも日月祭(あるいは月日祭)とも称する。

 武良郷を構成する6村、すなわち中村、西村、湊村、元屋(がんや)村、飯美(いいび)村、布施(ふせ)村の集落が、二手に分かれ、集落集合の惣社祭(出合いの祭)を行う。一方は一分方といい、中村集落が担当し一之森神社(昔は常楽寺)に集い、月神を奉じる。もう一方は二分方といい、残り5村の集落で八王子神社に集い、日神を奉じる。

 秋10月7日、この日から武良祭は始まる。まずは頭宿(とうやど)始めである。祭宿の頭人が裃姿で、神職、村長(むらおさ)、八人衆(村発足以来の宮持ち旧家)、各種世話役に、役指会(やくさしかい)の案内を告げに訪れる。

 二日明けた10月9日、一分方は一之森神社に集まり、二分方は八王子神社に集まり、それぞれの役指会を開く。この役指会において、各祭役と役割分担とが、古式に則り決定される。ここから稽古も含む実質的な祭の準備に入る。

 10月16日には、村々総出で準備の「らちん」を行う。らちんとは埒人(らちにん)のことで、駆り出された人夫つまり埒(拉致)人夫をいう。御旅所までの道路の清掃と舗設、注連縄張り、幟を立て、柵を廻らせ、桟敷を作り、馬場を囲う。それは無償の労働奉仕で、それゆえ「裸賃(らちん)」とも書く。この日から役付き一同は別火の生活に入る。

 10月18日は祭の前日、各地区の神々たちが小さな神輿に乗せられ、次々に神集いする。これが諸神の神幸祭で、一之森神社には11社の神々が、八王子神社には16社の神々が、それぞれ集う。そして氏子たちの夜伽(よとぎ)を受け、夜を明かすこととなる。これが前夜祭である。

 翌10月19日が、いよいよ本祭である。そして神々の打ち上げ、つまり別れが行われるのが10月20日で、これが後祭(還幸祭還御祭)ということである。始まりが10月7日であるから、この間、延々14日間を要する長い祭である。

 

隠州の古祭祀

 寛文7年(1667)刊の『隠州視聴合紀』は、隠岐郡代であった斉藤勘助(豊仙)が著したもので、この祭が遙か昔の古祭であったことを述べる。以下の通りである。

 「元谷村、(中略)麓に八王子の社あり、(中略)濱に松数株あり、皆老樹なり、一小堂あり、其の堂を会処という、彼の八王子の社の神と、其の向こうの常楽寺の神と、三年に一度、爰に会して祭事あり、此を月日の祭という、その儀式は、季秋の中の九日吉辰を卜して、社より日神を奉じ、寺より月神を奉ず、皆長竿の上に其の形を掛けて、左右に玉輿を飾り出す、銀を以て月を色どり、金を以て日を色どれり、諸人前後に装束して立ち、此の堂に合祭して、僧徒呪を持し、読経し、畢って近隣の里人老若緇素(黒衣の僧侶と白衣の俗人)群り集りて、舞踊し唱歌す、按ずるに此の日月の祭は古の遺法歟」

 日月陰陽和合祭は、かつて9月9日(旧暦)が祭礼日であった。今は秋の10月19日(新暦)が祭礼日である。一之森神社が関わり始めたのは明治からで、その昔は常楽寺が担当していた。隠岐廃仏毀釈によって常楽寺は廃絶し、替わって常楽寺の寺内社であった一之森神社が行うようになった。

 

武良祭の起源

 武良祭の起源は鎌倉時代、近江の佐々木定綱隠岐一円地頭に任ぜられた時に遡る。定綱は飢饉と疫病の蔓延する当時の隠岐を憂い、この武良祭を始めたという。日月陰陽和合の祭事とは、そもそもは源平争乱後の融和、また神仏の融和、そして京鎌倉の公武の融和を祈念するものであった。

 戦乱の時代が終わり、平和の到来によって、島の五穀豊穣と島民の無病息災、また島の永続する繁栄を願うものであった。だがそれは武辺祭事、あくまでも武威を以て平和を維持するものである。だから、この武良祭を取り仕切る「行司役」は、甲冑を着けた武士である。

 近江佐々木氏は、近江国蒲生郡の沙々貴郷(『和名抄』では篠笥郷)を本貫とする。近くの観音寺山は鷯鷦(ささき)山とも称され、佐々木氏の拠点となる山城(観音寺城)が残る。佐々木氏の配下の者どもは、湖岸の常楽寺港から琵琶湖を渡り、日本海に出た。そして隠岐に渡り来た。これは新たな戦乱を島に持ち込むものではない。平和な秩序を、この島にもたらすものであった。

 常楽我浄の風と共に、麗しい七宝蓮華の波が、この島に押し寄せるようにと、そのように祈願してのものであった。

 

     近江の湖は海ならず 天台薬師の池ぞかし 何ぞの海

        常楽我浄の風吹けば 七宝蓮華の波ぞ立つ    梁塵秘抄

 

 近江国常楽寺の一帯は、近江佐々木氏の武略の拠点である。と同時に近江文化の交流の拠点でもあった。だから武良祭が中世武士祭事の面影を残しつつ、煌びやかな風流絵巻を繰り広げるのも道理である。日神の座す八王子神社とは、近江の日吉社、その奥宮たる八王子宮(八王子山)からの勧請である。そして月神の座す常楽寺とは、常楽我浄の風に乗せ、日吉天台の教理を、この地に遷すものであった。日月の合体とは、この神仏の合体である。

 

常楽寺の相撲

 隠岐国武良庄の常楽寺は、この地の城山(中村城址)の中腹にあった。隠岐国北辺の鎮守寺で、五穀豊穣、黎民長寿を願い、相撲の伝統を伝えてきた。一方、近江国安土山にあった常楽寺の方も、やはり鎮守の寺として、織田信長安土城を築いた後も、その法燈を守ってきた。今も滋賀県安土町には常楽寺の地名が存在する。そこには沙々貴(ささき)神社が鎮座する。近江佐々木氏の鎮守社である。

 『新猿楽記』に載る相撲の巧者「近江の薑(はじかみ)」が相撲を取ったのも、この常楽寺の境内ではなかったか。「はじかみ」の名は土師神(はじかみ)から来たものだからである。それは土師の神、つまり安土の神を讃える名なのである。

 太田牛一の『信長公記』によれば、元亀元年(1570)3月3日、信長は、この常楽寺で相撲の会を催した。天下布武を目指す信長は、職業的な力士を集め、力の取組を進めさせていた。この時の行司は木瀬蔵春庵という。信長は天正6年(1578)2月にも相撲会を催した。近江国の相撲人300人を安土城下に集め、小相撲五番打ち(五番の相撲か五人抜きか)大相撲三番打ちを行った。同年8月には、またもや相撲会を催す。だが、こちらは空前の規模となる。1500人の相撲人を近江や京都から安土に集め、その相撲会を通じて、信長の「力の規模」を満天下に示した。

 

八王子神社の祭神

 隠岐国武良庄の八王子神社は古社である。昭和48年、神社境内から、祭祀に使われたとみられる6世紀後半の須恵器類が出土した。それゆえ社名はともあれ、祭祀の発祥は遙か昔に遡ることが立証された。

 だが社伝は建久4年(1193)佐々木定綱隠岐国総地頭職補任に際し、先にも触れた如く、近江国鷦鷯山(観音寺山)から当地に八王子大明神を勧請し、宮を造営したとある。八王子大明神の本社は、近江日吉社の奥宮で、八王子山の山頂に鎮座する八王子社である。山の王として、山王権現として崇められている。

 武良の八王子神社の祭神は、社名の通り八柱の神(多紀理姫、多岐津姫、市杵島姫、天之忍穂耳、天之穂日、天津彦根、活津彦根、熊野久須毘で、三女神五男神)である。相殿に日天子神社があり、祭神は日神たる大日孁貴(オオヒルメムチ)である。また大山咋命が合祀されていて、この神は俗に大山権現(日吉権現、山王権現)と称されている。

 この八王子神社の境内には、摂社があり、佐々木神社という。若宮あるいは今宮とも称し、武良祭の創始者たる佐々木定綱が祀られている。佐々木神社の御神体は、武良祭の神幸の折、四番御輿の中央に置かれる。それは後ろ向きに掲げられる。新支配者の佐々木氏が、なお行列の続く後方に向かい、指南を続けた故事による。