第Ⅱ部、隠岐の神相撲[第8章、占手の神事]

第8章、占手の神事(Ⅱー8)

 ①占手の相撲(Ⅱ-8ー①)

 ②刀の礼(Ⅱ-8ー②)

 ③塩の礼(Ⅱ-8ー③)

 ④掬いの礼(Ⅱー8ー④)

 ⑤神相撲の礼(Ⅱ-8ー⑤)

 

①占手の相撲

 武良祭風流には、神の相撲が残されている。1つが「占手(うらて)」神事で、今1つが「神相撲(こずま)」神事である。「占手」神事は、少年二人による童(わらわ)相撲である。童といっても大童(十代前半の少年)によるもので、実際の相撲を取るのではなく、相撲と名付けた所作ごとを行う。「神相撲(こずま)」神事も、やはり少年二人による童相撲で、こちらは大童ではなく小童(七、八才の少年)による、やはり同様の所作ごとである。

 占手は二人一組で行い、「刀の礼」「塩の礼」「掬(すく)いの礼」「神相撲(こずま)の礼」を順に行う。大童二人が口に榊葉をくわえ、紅白の褌に白足袋を履き、祭場の横から登場する。赤い房を縫い付けた白布を太刀に掛け、それを両手で捧げ持ち、神前の桟敷の茣蓙にしずしずと向かう。ここで刀を捧げつつ、身体を左右にひねり、拝礼する。これが「刀の礼」である。

 続いて刀と布を茣蓙の上に置く。今度は向き合い、身体を半身にして横たわる。傍らの塩を掴み、後方に三度撒く。これが「塩の礼」である。

 次いで手を腰に当て、身体を左右にひねり、横綱の土俵入りのように、左右へ手を伸ばして掬い上げる。これが「掬いの礼」である。

 そして左、右、左と、ただ礼をするだけの「神相撲の礼」を行う。相撲とは言うものの、取り組むわけではない。あくまでも拝礼である。

 この四つの礼を、二度目は逆に演じ、三度目は元に戻し最初と同じように行う。これを一分方は三度、二分方は一度、行う。この奇妙な四種の拝礼は、子細に眺めれば、武器を置いての鄭重な拝礼、つまり服属儀礼とも理解される。

 

 

②刀の礼

 刀を棒持して神事相撲を行うものは全国方々にある。そもそも大相撲の横綱土俵入りにしても、そうである。刀は太刀持ちに持たせてはいるが、あれは本来、横綱が佩刀する太刀である。相撲節会に登場する力士は、狩衣を着て小太刀(剣)を佩用する。だが相撲を取るとき、小太刀を外し、円座の上に置く。そして衣を脱いで庭上に進み出る。相撲に太刀は必要ないから、置く仕草は理解できる。だが太刀を置く仕草は、諸処の祭礼で重要な要素として鄭重に執り行われている。その鄭重さとは、いったい何だったのか。

 隠岐と同じく「占手」と称される神事が、周防国佐波郡の玉祖神社(山口県周防市大崎)でも行われる。玉祖神社の占手神事は三番の相撲を行うものである。相撲に先立ち、左右の相撲人が、左右に控える宮付主座から、小さく「不浄除守(ふじょうよけのまもり)」と書かれた忌串を受け取る。昔はこれを髻(もとどり)に挿したという。相撲節会での髻に挿す花にも似ている。相撲人は円座を持ち、神門の前まで進み、宮司の前に置く。次に飾り太刀を捧げ持ち、この円座の上に置く。そして三番の相撲に入る。一回目は両者、両手を腰にとり、斜めに蹲踞する。互いに相手と向き合ったところで自分の腰を叩き、これを左右の構え、左右の手で繰り返す。足踏みし、腰を叩き、蹲踞しながら後退する。二回目も同じ動作を繰り返す。つまり二回とも組むことなく仕切り直しの態で終わる。三回目にやっと組み合う。互いに相手に左右の掌を示し、その手を組み合わせる。手だけを組む四つ相撲といった様子である。そのまま互いの位置を交換し、指を絡ませたまま、その手で同時に地上を打つ。つまり三回目に同時に地に手を付け、引分けの相撲を取る。その後、両者は手を離し、神前に向かって鬨(とき)の声を上げる。そして両手を挙げて万歳をする。隠岐と同様、全く奇妙な相撲である。

 大和国添上郡の長尾神社(奈良市阪原町)の秋祭では、御旅所の南明寺境内で相撲が行われる。褌姿の二人が左肩に太刀を担いで現れ、まず太刀を置いて後に下がる。二人は横に並んだまま、両手で自分の尻を叩きながら太刀の前まで前進し、そして後に下がる。こんどは風船を突くように左右の手を煽りながら前進し、太刀の前で「わーっ」と声を発する。やはり鬨の声で、乱声(らんじょう)であろう。そして両手を挙げて万歳する。

 大和国添上郡の夜支布山口神社(奈良市大柳生町)の秋祭では、宮座二十人衆の最年少者二人が、まわしを締めて相撲を取る。太刀と称される青竹を神前に置き、両手を相手の肩に掛けたまま、両足跳びで位置を替わる。そして手を離してくるりと後ろ向きになり、尻を叩く。再び向き合い、両手を相手の肩に掛け、両足跳びで元の位置に戻る。そしてまた尻を叩く。両足跳びは烏歩(うほ)、返閇(へんばい)であろうが、これと太刀を置き、尻を叩くことの意味と繋がりが、今一つ明確ではない。

 山城国相楽郡の和岐座天乃夫岐売神社(京都府木津川市山城町)、通称「涌出宮」の秋祭では「アーエーの相撲」が行われる。まず相撲人(子供)二人が太刀を肩に担ぎ登場する。それぞれの横には開扇を持った行司が付き添う。一歩ごとに「あーえー」と言いながら三歩前進、三歩後退し、もう一度三歩前進して扇の上に太刀を置くというものである。「あーえー」とは饗応(あえ)のことで、武器を置き、饗応するというものである。

 但馬国養父郡の水谷神社(兵庫県養父市奥米地)の秋祭には「ねってい相撲」が行われる。裃姿の男子二人(頭人)が肌脱ぎになり、裾をからげ、衣を掛けた太刀を捧げ持ち、神前の階段で、小さく三度の両足跳びをする。その後、太刀を置き、右手で太刀を押さえて左手で腰を叩く。手を替え、右手で腰を叩き、本殿前の境内中央に進み出て、向かい合う。互いに「よい、よい、よい」の掛け声で地面を三度踏みしめ、互いに拳を突き出し、互いの肩に手を置き、互いの首を抱え込むという所作ごとを行い、大きく跳び回る。だが勝負をすることはない。勝負の土俵はなく、勝負の判定をする行司もいない。「ねってい相撲」とは、何度も「練って」練り込んだ相撲ということらしい。

 結局、この太刀を置くという所作ごとは、武器を放棄する仕草、その証となる身振りではなかったか。だから尻を叩く所作、腰を叩く所作、左右の掌を示す所作、肩に手を置く所作は、武器を隠し持たぬ仕草(証し)であろう。そして烏返閇、乱声、挙手万歳などは、まさに降伏の所作と発声であろう。もしそうなら、武良祭の「刀の礼」とは武装解除の儀式であったということになる。

 

③塩の礼

 武良祭の占手神事、その「塩の礼」とは、大相撲の力士が立ち合う前、土俵に撒く浄めの「塩撒き」と同じである。半身に身を横たえる姿勢とは、自らに「塩撒き」するためのもので、自らの身を供する意味を持つ。半身ではなく、身を横たえた五体投地が、本来の姿勢であろう。自らの身に「塩撒き」するため、半身をよじらせた形ということである。これは神への供饌として身を捧げるものである。裸体で全身を横たえ、それを塩で浄める。それは打ち首、胴切りを覚悟した姿である。武装解除後の隷従服従、それを誓う絶対的な証しである。塩の礼は、三段に構成されていて、第一段が対面塩の礼、第二段が背面塩の礼、そして第三段がまた再び対面塩の礼である。裏表なく、全てを曝すという態で、身を委ねる。

 『日本書紀』神代巻、第十段、第四の一書には、火折(ホオリ)命に屈し服属する火酢芹(ホスセリ)命の話が載る。犢鼻(とうさぎ:褌のこと)ひとつの裸体で、赤土を顔や掌に塗り、服属する姿である。それは人物埴輪の如く古墳に生き埋めにされる姿である。説話の中では風招(かざおぎ)の呪術が行われる。奔流のような波が海から押し寄せ、火酢芹が溺れ苦しむという「もどき」が行われる。それは水刑、水死の有様である。風招の呪術は嘯(うそぶき:口をすぼめて息や声を吹き出す)の所作ごとである。潮水(うしお)を吐き散らし、海潮(うしお)を自在に操るという霊力を示す。

 隠岐の日月祭、その「塩の礼(塩撒き)」の儀式は、この霊力(威力)の保有保持を、服従服属によって手放すものである。つまり隠岐の海民の持つ海の技、海の業、海の産物を、大衆の面前で新支配者(遠来の近江佐々木氏)に捧げ、譲り渡すものであった。天津神(近江の武神)に対する国津神(土着の神々)が為した服属の儀礼ということである。

 火酢芹の子孫と称する隼人に貢を強い、相撲を取らせたのは天武11年(682)7月のことである。明日香寺の西、大槻の広場で、隼人に種々の楽(芸能)を行わせた。これは壬申の乱(672)に勝利した天武天皇の、その帝権確立の儀式であった。「道俗ことごとく之を見る」と、この隼人服属の儀礼は記される。陸地のみならず海原をも手中に収めたことを、隼人舞と風招の呪術によって大衆に広く知らしめた。大衆に武を以て統べる権力というものを、ここで強く印象付けるため、敢えて執り行った見せ物である。

 

④掬いの礼

 「塩の礼」の次は「掬(すくい)の礼」である。「掬の礼」は手を大きく伸ばし掬い上げる。横綱の土俵入りに類似する。「刀の礼」が太刀持ちに該当するならば「塩の礼」は露払いに該当する。そして「掬いの礼」で土俵入りとなる。

 昔から貴人の儀式には先導者(露払い)がおり、従者(太刀持ち)が同伴する。それが近世の横綱「土俵入り」に取り入れられた。占手神事では「刀の礼」「塩の礼」が先導し、その上で「掬の礼」が行われる。掬い上げる形とは、土俵入りの「手数入(でずい)り」の形である。「手数入り」では、これを行う横綱は、陰陽道的な七字の呪文を口の中で唱えるという。だが大相撲の「土俵入り」は近世からのもの、隠岐の「刀の礼」「塩の礼」「掬の礼」は中世からのもの、隠岐の方が、より古層のものを残している。

 この「掬の礼」とは、手を差し伸べる「手乞(てごい)」の儀礼である。手乞については『古事記』の葦原中国(あしはらのなかつくに)平定譚に記される。国津神の建御名方(タケミナカタ)が天津神の建御雷(タケミカヅチ)に闘いを挑む場面で現れる。「然らば力競べせむ。故、我先にその御手を取らむ」と建御名方が建御雷の手を取る。すると、たちまち建御雷の手は「立氷に取り成し、また剱刃に取り成し」ていく。建御名方は思わず「懼りて退き居」る。次いで建御雷が建御名方の手を手乞する。御名方の手を「若葦を取るが如、摑み批ぎて投げ離ち」勝利する。こうして「葦原中国は、天の神の御子の命の随に献らむ」となり「国譲り」に至る。服属の有様が、あたかも相撲劇の如くに仕立てられて、記される。

 

⑤神相撲の礼

 戦いの構え「手乞(てごい)」は、大相撲の「手合(てあい)」として今も残されている。それは三段構えとして知られるものである。上段の手合は、両手の指先を頭より高く挙げるもので立眼相という。勝負の情を察するもの、本然の型という。中段の手合は、ほぼ両眼の線に両手を挙げるもので、全身に力を込めて向かう攻撃の型という。下段の手合は、両手を肩の下に降ろすもので、これは攻防の型という。

 ことのついでに記しておくと、手合には三段構え以外に、奇相の手合、陰陽の手合、居眼相の手合と、三型が伝えられる。この最後の居眼相の構えが、今日の「仕切り」に該当する。相撲技が進歩し、不利な棒立ちから有利な匍匐突進型へ、闘いの構えは発達した。今や実戦の構えは、この居眼相のみである。

 ともあれ手乞は遙か昔から伝わる相撲の構えであった。勝負儀礼の定型で、高句麗古墳の舞踏塚や安岳第3号古墳の相撲図にも、この構えは残されている。

 隠岐の占手神事で大童二人は「掬の礼」を行う。建御名方と建御雷の闘いに倣う、俳優(わざおぎ)としての芸能「手乞」である。その闘いを終え、相撲人は服従を誓う。それが「掬の礼」に引き続き行われる「神相撲の礼」である。

 神相撲の礼は、単に左、右、左と拝礼をするだけであるが、それが重層化された儀礼となっている。並んだ二人は、先ず「左の礼」を行うが、その中で、拝礼、左礼、右礼、左礼、拝礼を行う。次いで「右の礼」に移り、同じく拝礼、右礼、左礼、右礼、拝礼を行う。そして最後の「左の礼」で、やはり同じく、拝礼、左礼、右礼、左礼、拝礼を行い、これで終了となる。口にくわえていた榊葉を落とし、二人は退場する。この間、相撲に関わる所作ごとは一切ない。これが何故、神相撲なのか、皆目見当が付かない。しかし古来、これを神相撲と称してきた。

 結局のところ、神相撲の礼とは、武器解除の後、なお有する力を奉納するもの、神への完全服属の拝礼である。この地を平穏ならしめる秩序儀礼、間違いようのない屈服の姿、衆人環視の下に行われた鄭重な服属儀礼、それを四囲へ向けて示す儀礼なのである。