隠岐の相撲(20)

第Ⅱ部、隠岐の神相撲

第10章、神事の子供相撲(Ⅱー10)

 ①小相撲(Ⅱ-10ー①)

 ②子供相撲(Ⅱ-10ー②)

 ③泣き相撲(Ⅱ-10ー③)

 ④小童の相撲(Ⅱ-10ー④)

 ⑤序列相撲(Ⅱ-10ー⑤)

 

①小相撲

 小相撲は日本各地で行われている。近江の三上神社(滋賀県野洲市)では相撲(そうもく)祭が行われ、その相撲神事には、まず子供が出て「小相撲」を取り、次いで若者が出て「大相撲」を取る。ともに取組の型だけを演じ「やあ、とう」の掛け声だけで終始する。この三上神社には鎌倉期か室町期か不明であるが、社宝として木製の古い相撲人形が残されている。その相撲人形の相撲人は、立ち合う行司よりも背が低い。つまり小相撲である。

 紀州国海部郡の衣奈八幡宮(和歌山県日高郡由良町)では「小引童子相撲」が行われる。小学生から中学生までの男子十人が、儀礼相撲の様々な型を行っていく。「獅子のほら入り」「水車」「鴨の入首」「猿すべり」「谷わたし」など、珍しい相撲技の披露がある。

 豊前国下毛郡の古要神社(大分県中津市伊藤田)や上毛郡の八幡古表神社(福岡県築上郡吉富町)では、傀儡子(くぐつ)人形による細男舞(くわしおのまい)と神相撲が行われる。細男と相撲の組み合わせは、奈良の春日大社「若宮御祭」にも見られる。この傀儡子人形による神相撲は、元々宇佐八幡宮放生会に奉納する芸能であった。すなわち霊魂の祭祀である。東西から力士人形が出るが、一番小さな力士(小兵力士)が、結局、最後に勝利を収めるというものである。

 

②子供相撲

 平安時代、宮中ではしばしば「童相撲」が行われていた。『三代実録』貞観3年(861)6月28日条には「天皇、前殿に御して童相撲を観給ひき」とある。当時12才の清和天皇の天覧があった。九番の取組の後「左右互いに音楽を奏す。種々雑技、散楽、透撞、咒擲、弄玉等の戯は、皆相撲節儀のごとし」とある。それは少年天皇を楽しませるためのものであった。事実お気に召したようで、翌日にも「昨日の如し」と行われた。

 また貞観7年(865)7月23日条には「天皇、南殿において御簾の中より相撲を観る。左右の司は逓(たがい)に音楽を奏し、百戯をなす」とある。相撲節会は2日間に亘り行われるが、最初は「占手」すなわち童相撲である。その第1日目は相撲の「召合」で次々と勝負舞が演じられる。そして2日目は勝者ばかりが選抜される「抜出」である。相撲に引き続き諸芸能「百戯」も演じられた。

 様々な芸能が宮廷で演じられ、少年天皇を楽しませていた。この童相撲を執り行わせたのは、天皇の外祖父で太政大臣藤原良房である。それは自らの権力の誇示の場であった、この余興宴席により、さらに群臣の歓心を集め、いっそう自らへの支持を広げた。そして翌貞観8年(866)応天門の変により、宮中から大伴氏、紀氏を追い払う。臣下としては始めての摂政の座に就いた。

 相撲とは、その力の誇示、序列の提示、秩序の顕示により、時の権力者の支配体制を現前させる。江戸時代には、将軍の上覧に供する子供相撲も執り行われていた。

 

③泣き相撲

 子供相撲は今も全国で賑やかに執り行われる。子供よりも観覧する父母の方が、遙かに熱が入っている。子供の「泣き相撲」に至っては、父母、祖父母の思い入れによる相撲である。赤子を抱き抱えて土俵に入り、互いに見合わせる中で、先に泣いた方を勝ちとしたり、負けとしたり、様々に行われる。別に取り組むわけではないが、いずれも子供が泣くことで、見守る観衆が大喜びする相撲である。

 泣き相撲は、京都の松尾大社や、東京の浅草寺のものは全国的にも有名である。岩手県花巻市毘沙門天の祭、栃木県鹿沼市の生子神社の祭、東京都八王子市の子安神社の祭、静岡県焼津市の焼津神社の祭、京都府笠置町国津神社の祭、和歌山県海南市の山路王子神社の祭、長崎県平戸市最教寺の祭、熊本県天草市の不動神社の祭など、方々で熱心に泣き相撲が行われる。泣き相撲とは、泣き声を神様に聞かせることで、新しい氏子の増加を承認してもらうという民俗学的な理解がある。だが子供の泣き声とは、新しい世代が生まれ出たことの証、その再循環こそが地域社会を活性化させる。そこに未来に続く秩序が構築されるからである。相撲とは、この秩序の確認、秩序世界の新たなる構築である。

 

④小童の相撲

 小童の相撲は、相撲節会においても行われた。『九条年中行事』や『小右記』などの史料によると、節会における相撲の取組は二十番と定められている。左右が対抗し、小童一番、白丁二番、近衛および兵衛十七番という取組の中の、最初に出てくる小童一番である。この童児相撲は占手と呼ばれた。

 相撲節会では、まず舞楽が奏される。『内裏式』によれば「左の司が先ず厭舞(えんぶ)を奏す、訖(おわり)て太夫等が着座す。次に右の司が厭舞を奏し、訖て着座す」とあり、相撲に先立ち厭舞(振桙)が行われた。次いで占手の相撲があり、その勝負が決まると「占手の勝方、即ち乱声(らんじょう)を奏す」と、雅楽の乱声が奏された。

 節会相撲は力の序列が明らかである。弱い者から強い者へ、順に階層化されている。最初は占手と称される子供の相撲、それは力を誇示するわけではない儀礼の相撲である。続いて少し年長の垂髪(うない)の少年、さらに上の総角(あげまき)の少年、彼らによる相撲が展開する。それから通常の相撲人が出て、最後に脇(わき)そして最手(もて)となる。それは秩序を重んじる国家の儀礼にふさわしい。

 手合があり、勝負が着くと、勝方は乱声という勝ち鬨の声を上げる。立合舞(自分の方の相撲人が勝った際に、弓を負った立合が舞う舞)が舞われ、また舞楽が奏される。左方が勝つと左方舞(抜頭など)が、右方が勝つと右方舞(納蘇利など)が奏される。それは現代のスポーツ祭典における応援合戦と同じである。歓声を上げ、笛を鳴らし、太鼓を叩き、チアガールが踊り舞う光景と、何ら変わらない。

 相撲は力の存在を讃えられるもの、強さが序列化されたものである。それはとどのつまり、国家体制の階層序列化を例示するものである。そして相撲が終われば、最後に寿ぎの千秋楽、万歳楽が奏された。国家体制の永続を、ここで請い願うからである。

 占手の小童とは最弱者のこと、それは最強者の最手と、両端で対置する。つまり一方が最も陰であり、もう一方が最も陽という位置付けで存在する。その陰は極まれば陽となり、また陽も極まれば陰となると、そのような関係にも繋がっている。陰陽の極致は繋がっていて、その極致にこそが神が存在する。その顕現こそ卜占の世界である。ここに占手の存在意義がある。

 

⑤序列の相撲

 節会相撲の序列で最弱者は、幼い占手である。相撲の場を祓い、国家体制の力を占う。この占手に続く垂髪(うない)は俗にいう「おかっぱ頭」で、次の総角(あげまき)は髪を中央から二分し頭の上に巻き上げた年少男子の髪型である。やはり童形の相撲人で、相撲の場に神の降臨を仰ぐものである。こうした髪型は、一見、童子としての年齢階層を表示するかのようである。始まりは、確かにそうであった。だが、やがて相撲人の体力と技能、そして位を表現するものに置き換わっていった。

 占手は確かに小童による相撲である。だがそれ以後の手合は、青壮年による相撲となる。童子髪をしていても、彼らは青壮年の偉丈夫であった。童子名を名乗っていても、酒呑童子茨木童子、また皇室の賀輿丁役を務める八瀬童子などは、大男で凄まじいばかりの力の持ち主である。西部劇のカウボーイ(牧童)も、実際にはボーイ(少年)ではなく、逞しい青壮年の偉丈夫である。つまり垂髪や総角や脇や最手は、力の階層化、力の序列化によって出来上がった名称なのであった。

 隠岐の水若酢神社の宮相撲でも、この階層性、序列性、順位制は存在するが、最初の草結(くさむすび)は全く別の扱いである。この宮相撲では、先ず年少者の草結から相撲が始まる。草結は占手と同じで憑坐(よりまし)である。神霊の降臨により相撲場を祓い浄め、幸を招き寄せる。そして割相撲(わりずもう)へと導く。割相撲の後、役力士(三役力士)の相撲、その最後は大関の相撲である。階層序列を衆に示し、無意識にうちに秩序を教示するのである。