第Ⅱ部、隠岐の神相撲[第7章、武良祭風流]

第7章、武良祭風流(Ⅱー7)

 ①出合いの祭典(Ⅱー7ー①)

 ②拝馬神事(Ⅱー7ー②)

 ③騎馬神事(Ⅱ-7ー③)

 ④神子舞神事(Ⅱ-7ー④)

 ⑤風流の神事(Ⅱー7ー⑤)

 ⑥若宮御祭の行列(Ⅱ-7ー⑥)

 

①出合いの祭典

 武良祭では、祭礼当日の朝、八王子神社と一之森神社の両社から、互いに使者が派遣され、打ち合わせが始まる。打ち合わせの後、やがて行列の出発時刻が決まっていく。楽が奏される中、お旅所への巡幸が始まる。塩祓、鼻高面、幣榊、神𩜙、奏楽、尊形、神職、神輿四基、風流諸役の順で、八王子神社と一之森神社の両社から、互いの行列が出発する。やがて出合いの会所へと到着する・

 祭のハイライトである日神と月神の互礼は、この出合いの会所で行われる。赤い鉢巻、しごき、手甲、腰に小刀を手挟んだ若者が現れる。顔に化粧を施し、裃の裾をからげ、笛と囃子の合唱の中で、陰陽2つの大胴を「ヘンヨー、ハーッ」の掛け声もろとも打ち鳴らす。「ヘンヨー」とは「陰陽(インヨー)」あるいは「般若(ハンニャー)」のなまったものと言われるが、単なる掛け声のようでもある。

 そして甲冑に身を包んだ武者姿の「行司」役が登場する。左手に長槍、右手に軍扇、赤い小幟を背負い、この祭を戦の如くに指揮する。

 日神(日天子)の御神体は「三本足の烏」の像幢で、月神(月天子)の御神体は「白兎」の像幢である。それぞれ約4メートルの高さの幟の先端に取り付けられる。日神には赤い布帛が、月神には白い布帛が、それぞれ垂らされる。

 祭は日月両天子の出合いの儀式で、日月の像(尊形と称する)を日天子側は「一、一、三」度、高く差し上げる。これに対し月天子側は「三、三、九」度、高く差し上げる。これが日月陰陽和合を象徴する「神の拝礼」である。

 これが終わると、互いの尊像を高く掲げたまま、会所の古松(唐笠松)を中心に三回半回る。そして両行列は停止する。日神は御旅所の左座に、月神は御旅所の右座に安置され、いよいよ祭典が行われる。祭典は、拝礼、献饌、奉幣、祝詞奏上、玉串奉奠と続く。祭典の次が風流で、ここで「拝馬神事」「騎馬神事」「流鏑馬神事」「裏手神事」「神相撲神事」「巫女舞」が執り行われる。終われば、また行列を組み、二手に分かれ還御となる。

 

②拝馬神事

 武良祭風流では、まず武者装束に綾笠(あやいがさ)、弓矢を持った乗馬姿の「やくしさん」が登場する。そして拝馬(おがみうま)神事を執り行う。

 最初に馬上から像鏡(尊形)や御輿に向かい、両手を挙げて拝礼を一度行う。続いて右手に扇、左手に弓を持ち、また拝礼を一度行う。さらに右手に矢、左手に弓を持ち、また拝礼を一度行う。この後、少し下がってから、また同じ場所に進み、弓矢を持ち、今度は拝礼を三度行う。そして、また少し下がってから、また再び同じ場所に進み、今度は弓に矢をつがえ馬上の拝礼三度を行う。この「三、三、三」合計九度の拝礼の後、疾駆して去るというものである。

 この馬上拝を行う武者が「やくしさん」と称されるのは何故か。「やくしさん」とは薬師如来のことである。薬師如来は、西方極楽浄土阿弥陀如来に対し、東方浄瑠璃世界の教主である。西方の公家政権の天皇に対する東方の武家政権の将軍ということであろう。東国を拠点とする新たに勃興してきた武家の統領とは、東から昇る新たな太陽を象徴する。その憑坐(よりまし)こそが「やくしさん」である。「やくしさん」が拝礼するとき、二人の馬引きが左右に控え、くつわを取り馬を鎮める。それは薬師如来の脇侍つまり日光菩薩月光菩薩ということになる。

 左右に日光と月光を配する「やくしさん」とは、日神と月神の出合いの祭を執り行うにふさわしい。その聖なる司祭者の役柄を持つがゆえ、役神(やくしん)さんなのだともいう。そのような役柄を具体的な形で委ねたのが、祭事の指揮を執る武者「行司」役である。武家支配の現実の中で、武家の采配により、この祭礼が始まったことを如実に示すものである。

 

③騎馬神事

 拝馬神事に引き続き、赤い鉢巻を締め、花小紋の派手な衣装に騎馬袴を穿いた騎士3人が登場する。この3人の騎士が、3頭の馬にまたがり、神前の馬場を3回疾走する。これが騎馬神事である。騎馬神事が終われば、次に流鏑馬(やぶさめ)神事が始まる。

 赤い狩衣に五色の大綾笠を被り、頬紅を円く付けた流鏑馬役の射手が登場する。そして疾駆する馬上から、3カ所の的に向かい弓を引く。そして合計12本の矢を射る。

矢の当たり外れによって、農作の豊凶を占うような言い伝えはない。ただ的の中心に当たった矢を抜き取り、流鏑馬役の家に届けると、酒一升が貰えるなどの話はある。幸運を招き入れる「卜占」に繋がる伝承であろう。

 

④神子舞神事

 馬場で騎馬神事、流鏑馬神事が執り行われていく中、御旅所の桟敷では、準備が整えられ、やがて占手神事、神相撲神事が執り行われる。そして巫女舞へと続く。巫女舞は、今、女子中学生による浦安舞が奉納されるが、古くは隠岐神楽の神子舞(巫女舞)が舞われていた。

 隠岐神楽の神子舞は二人舞いである。神祇勧請の楽に合わせ、水干を纏い榊と中啓(扇)を持つ巫女が二人登場する。幣頭の唱える「そもそも上(かみ)は、三世三境天尊、下には四大将軍、五道の大神、内には天下界の宗廟、‥‥‥」といった長文の勧請文に合わせ、閑かにゆったりと舞う。静謐にして厳粛なる舞である。巫女舞は、隠岐神楽では最も重要な舞である。明治の頃までは、巫女が神懸かりとなり、託宣を下したという。豊凶の占いで、これこそが民の望む、祭の本旨の部分であろう。

 

⑤風流の神事

 隠岐武良祭の風流神事とは、保延2年(1136)に始まる大和春日社の「若宮御祭」に類似する。もとより鄙の簡素と都の華麗の違いはあるが、一連の風流神事は同様に進行する。

 若宮社の神事「御渡り式」の前半は「松の下式」といい、影向松(ようごうのまつ)の下を通過する儀式である。松(神樹)の下で、通過の折に芸能の一節が演じられる。演じてからでないと御旅所に参入できないことになっている。かつては、この神樹の下での芸能なのであった。後には舞台が設けられ、神樹を通り越し、その御旅所の方で芸能が演じられるに至った。行列は御旅所の舞台を三度ほど回る、武良祭も同様、舞台を三度ほど回り、神樹たる唐笠松(からかさまつ)の下で、風流神事を執り行っていく。

 春日若宮の風流は、中世の放生会において行われていた芸能である。隠岐の武良祭風流も、やはり元来は、中世の放生会で行われていた芸能であろう。放生会とは殺生を戒める仏教の儀式ではあるが、神仏習合の中世期、霊魂の祭祀、鎮魂の祭祀にも変遷していた。

 源平争乱の末、ここを領地とした近江佐々木氏により、戦乱で斃れた者たちの祭祀が、この辺境の地で執り行われたことに由来する。放生会の四方祭、その「北の祭典」こそが、この武良祭であった。だが祭典の常として、民の楽しみとして、賑やかさ華やかさが求められ、秋の収穫祭、感謝祭へと置き換わっていく。隠岐武良祭風流とは、この地の秋祭りとして、収穫を祝う惣村祭祀へと置き換わっていった。

 

 

⑤若宮御祭の行列

 春日若宮社「御渡り式」の行列の、その第1番は日使(ひのつかい)である。一行は赤衣(せきえ)の二人、梅白枝(うめのずばえ)と祝御幣(いわいのごへい)が先行し、その後を十列児(とおつらのちご)が続き、次いで日使が進む。

 日使は中央からの使者で、行列の中心的存在である。隠岐の武良祭で言えば、日神の行列と月神の行列を指揮する「行司」にも該当する。隠岐の「行司」も中央から派遣の武士、隠岐の「まつりごと(祭事、政治)」を取り仕切った。まさに行列の中心的存在である。

 若宮社の行列、その第2番は神子(みこ)である。神の巫女、春日の巫女(拝殿八乙女)で、神事舞を奉納する。そして第3番が細男(せいのお)と相撲、第4番が猿楽、第5番が田楽と並び、彼らが百戯の演目「もどき」の芸を披露する。

 大和猿楽の四座が、松の下で「開口」「弓矢立合」「三笠風流」を演じ、御旅所入口で金春太夫が「埒明け」を行う。埒明けとは、祭場を取り巻く柴垣(埒という)の所で、その垣根に結びつけられた白紙の封印をほどき、祭場に入るという儀式である。隠岐で言えば「らちん」の明け、準備が終わり、いよいよ祭礼だということである。

 この金春太夫の「埒明け」の後、興福寺の田楽座が、華やかな五色の御幣を押し立て、綾藺笠を著け、編木、笛、太鼓を持って登場する。松の下や御旅所で「中門口」「刀玉」「高足」等を演じる。賑わう華やかな風流絵巻が社前に現出する。

 第6番は馬長児(ばちょうのちご)で、神の依り代たる稚児、つまり尸童(よりまし)が馬上拝を行う。武良祭で言えば、その「やくしさん」と同じである。この稚児は地に足を着けない作法となっている。隠岐宮相撲(柱相撲)や能登羽咋神社の唐戸山相撲で、地に足を着けず担がれる力士と同じで、やはり憑坐(よりまし)である。

 この行列は、なお第7番に競馬、第8番に流鏑馬、第9番に将馬(いさせうま)へと続いていく。規模は小さいが隠岐においても、これは同様である。

 第10番は野太刀、第11番は大和士(やまとざむらい)、そして第12番は近世に至っての武家行事の付加、大名行列となる。御渡り式は、これらの全行列が御旅所に到着すると、終了になる。このような祭礼風流が、その昔、隠岐にも伝わっていたのである。