第Ⅲ部、隠岐の舞相撲[第1章、古舞の伝承]

第1章、古舞の伝承(Ⅲー1)

 ①隠岐国分寺に残る相撲舞(Ⅲ-1ー①)

 ②隠岐国分寺とは(Ⅲ-1ー②)

 ③隠岐国分寺の蓮華会舞(Ⅲ-1ー③)

 ④蓮華会舞の由来(Ⅲ-1ー④)

 ⑤蓮華の祝祭(Ⅲ-1ー⑤)

 ⑥蓮華会の記録(Ⅲ-1ー⑥)

 ⑦蓮華会の舞台(Ⅲ-1ー⑦)

 

隠岐国分寺に残る相撲舞

 隠岐国分寺には、相撲の原初の形、相撲舞が残されている。それはこの寺に残る蓮華会の祭礼で舞われるもの、二人の子供による童子舞である。それを「眠仏之舞(ねむりぼとけのまい)」という。菩薩の面を被る仮面舞で、足を踏み鳴らす舞踏舞である。古い伎楽の面影を残す謄舞(跳梁舞)でもある。だが子供二人が組み合って、しっかりとした相撲を取る。また後に、この舞を紹介するが、まずは、この舞の背景から語り起こすことにする。

 

隠岐国分寺とは

 隠岐国分寺は、隠岐の島後(隠岐の島町)にある。かつての中条(なかすじ)村池田にあり「池田の国分寺」と通称されてきた。明治初年まで、本堂、庫裡、鐘楼、仁王門、宝蔵などがあった。明治初年、隠岐廃仏毀釈で堂宇伽藍はことごとく灰燼に帰す。ようやく昭和25年、再建されるに至った。だが平成19年、ふとしたことで本堂が再び焼失、再度の復興に至ったのは平成26年のことである。

 隠岐国分寺は聖武天皇の発願により、天平年間(729~749)に作られた諸国分寺の中の一つである。総国分寺(東大寺)では、天平勝宝4年(752)4月9日、大仏開眼供養が行われ、ここで舞楽が演じられた。それは遙か昔、大陸から渡ってきた舞楽である。三宝(仏、法、僧)に帰依する天皇は、寺院荘厳を図るため、都の大寺院、諸国分寺に、この渡来の舞楽を伝習させた。それゆえ、この天平年間に国家の楽として定着した。

 都が奈良から京都に移っても、なお舞楽は宮中の宴席を飾り続けた。それぞれの経由地名を冠し、三国楽(新羅楽百済楽高麗楽)、吐羅楽(済州島からの楽)、唐楽、渤海楽、林邑楽(チャンパの楽)、天竺楽などと呼ぶ。

 皇族や貴族、官人や僧侶などにより支持された舞楽も、時代を経るに従い、いつしか衰退する。だが中央から地方へと流れ、隠岐にも舞楽は、もたらされた。そして、この離島にとどまり続けた。その古式の舞楽は、細々ながらも伝承され、今ここに残る。隠岐国分寺「蓮華会舞(れんげえまい)」と呼称される。

 

隠岐国分寺の蓮華会舞

 隠岐国分寺「蓮華会舞」は貴重な古様の舞楽、地域民の努力で廃絶ぎりぎりの所でとどまっている。確かに幾多の曲(演目)は、もう忘れ去れている。だが現在、なお七曲の舞が残されている。眠仏之舞、獅子之舞、太平楽之舞、麦焼之舞、龍王之舞、山神貴徳之舞、仏之舞の七曲である。

 民俗学者の本田安治による『隠岐国分寺の蓮華会祭』(『季刊 山陰民俗』隠岐民俗特集、昭和32年、山陰民俗学会発行)から一部を抜粋し、この舞についての感慨を紹介しておく。 

隠岐島西郷町池田の禅尾山国分寺の四天王の祭りに、古くから「れんげ」と呼ばれる盛大な祭があることを知り、昭和三十年八月二十八日、地方史研究所の出雲調査旅行の折この地を訪ね、古老について色々お話を伺ひまた舞を伝へてゐる人達の御好意により、にはかではあったが、その夜実演もしていただいたのであった。(中略)この折の舞は、今ある本堂内、仏前に於て薄暗い電灯の下で行はれた。一方には太鼓、繞鉢、笛五管を奏する人達がゐた。楽器はこれだけであるが、雅楽の感じを巧みに出し、繞鉢が効果的で、その拍子には特別の美しさもあった。昔の舞の盛大さが偲ばれた。なお、散手、貴徳の両舞は、舞ひ得る人に連絡がつかなかったといふことで見ることができなかった。」

 ④蓮華会舞の由来

 隠岐国分寺の蓮華会舞は、隠岐では「池田のれんげ」と言い慣わされてきた。国分寺の所在地である池田村(かつての国分寺村)、そこで行われる蓮華会舞を指す。この蓮華会舞は、国分寺奥の院、四天王堂(四天王廟)の厨子を迎えて行われる。

 隠岐国四天王堂の記録は『三代実録』貞観9年(867)5月26日条に載る。「八幡四天王像を五舗造り、各一舗を伯耆、出雲、石見、隠岐長門等の国に下す。国司に下知して曰く、彼の国地は西極の堺に在り、新羅に近し。警備之謀、当に他国に異なるべし」とある。

 隠岐国四天王堂の御本尊は、海を隔てて西北に位置する新羅に対し、この海(日本海)を護る役割を担っていた。すなわち護国鎮守の寺である。そのための堂宇の整備があった。盛時の隠岐国分寺には、本堂を始め、四天王寺、三重塔、鐘楼、仁王門、山王二十一社、そして大乗坊、本蔵坊、玉蔵坊、大楽坊、安楽坊、岸本坊の六坊が付随していた。摂津国四天王寺が、西の海(瀬戸内海)に面し、国家を護る寺として、大いに庇護を受けていたことと同じである。摂津国四天王寺にも、同様の「聖霊会(しょうりょうえ)」の舞楽が残されている。

 古い昔、国家のための祭礼舞楽が、この辺境の地でも行われていた。それは異国から我が国を護るという役割、国境の鎮安警護を、仏に祈願するためであった。だが国が乱れ、政治も紊乱するに至れば、隠岐国分寺も、その存在意義を減じ衰退した。堂塔伽藍も崩壊し、いつしか消滅に至った。

 だが永正年間(1504~21)僧憲舜による勧進があり、隠岐国分寺は再建された。その後、再び荒廃するが、延宝4年(1676)僧来誉による国分寺の再々建があった。さらには先にも述べた廃仏毀釈後の明治の再興、そして火災消失後の平成26年(2014)の復興がある。不死鳥の如く隠岐国分寺は復活し、この貴重な舞楽が失われることなく、今に至るまで存続した。この間、蓮華会舞を伝える人々の営々苦心の努力があった。

 

⑤蓮華の祝祭

 隠岐国分寺の蓮華会は、旧暦の6月15日から3日間、昼夜、五穀豊穣を祈り、執り行われてきた。その盛大な祭事は、明治初年の廃仏毀釈の折、寺と共に消滅した。のち明治10年代、地元有志の熱意と努力で、蓮華会の舞楽は復活した。

 再興後、祭日は旧暦の3月21日となる。新暦(太陽暦)に改まってからは4月21日である。隠岐国分寺は真言宗の古刹、4月21日とは弘法大師の縁日である。祭礼はこの日に行われるようになった。だが蓮華の祭は、本来、弘法大師と何の関わりもない。だが法会の楽舞、放生会の供養舞であることは確かである。

 舞楽は宮廷や大社寺において、公式行事の公式楽として執り行われてきた。例えば、東大寺唐招提寺仏生会宇佐八幡宮石清水八幡宮放生会大原三千院の御懺法講、四天王寺聖霊会などである。

 隠岐国分寺の舞楽は「蓮華会」であるが、この名称は果たして何に由来するのであろうか。蓮華会の行われる6月15日の祭礼日とは、一般に言う麦の節句で、この麦祭の日を「蓮華の日」というからである。つまり麦秋の蓮華の日に行った行事のことを指す。

 新小麦を神仏に供え、その小麦粉で蓮華団子を作り祝うという風習が、山陰一帯に存在する。例えば、安来市の矢原神社の「れんげ祭」、宍道町氷川神社の「れんげ祭」、広瀬町の冨田八幡宮の「蓮華祭」など、これらは全て麦節句の祭である。

 中世に遡れば、山岳仏教の聖地、伯耆大山の大山寺でも「蓮華会」は行われていた。また、吉野や熊野また北嶺(比叡山)にも「蓮華会」はある。山岳修行の後、咒術の験競べ、酒宴そして芸能(延年など)が、夏期6月に執り行われていた。

 山岳のみならず、水辺の祭祀についても触れておくと、琵琶湖の竹生島にも「蓮華会」はある。船渡御の祝祭であるが、その始まりは神亀2年(727)3月3日のことという。この日に豊饒会(ほうじょうえ)を催したと伝える。続く第2回目が神亀4年(729)の6月15日と伝える。豊饒会とは放生会のことで、それが豊饒の麦秋の日(6月15日)つまり蓮華の日に行われたことから蓮華会と称されたのである。隠岐国分寺の「蓮華会」も同様であろう。

 

⑥蓮華会の記録

 貞享5年(1688)刊の『増補隠州記』国分寺の条に「此寺に五年に一度、蓮華の祭とて、本堂の前に舞台を飾り、笛太鼓を奏し、児童再三出て舞曲を成す。寺僧数人出て色々の舞有り。獅子舞、田楽有り、其事無言にして尤も殊勝なり。都万村高田明神の祭と似ると也」とある。

 国分寺の蓮華会の舞楽は、かつて5年に一度行われていた。その無言の舞楽は、国分寺村(池田村)から峠を越えた西方の、都万村高田明神の舞楽と類似するという。

 高田明神の舞楽は、近隣の千光寺の楽人や児童や僧侶が担当し、千光寺住職は導師として神前に立ち合い、舞楽奉納を取り仕切ったという。つまり古舞は高田明神と千光寺の神仏習合の中で保持されていた。だから明治の廃仏毀釈の折、千光寺が廃絶したことで、この高田神社の舞楽は廃絶してしまった。しかし天保6年(1835)の「祭礼記録」が残っており、そこには、華舞、貴徳、林歌、龍之舞、抜頭、太平楽、還城楽の7曲が載っている。

 このような古様の舞楽は、隠岐の島前にも残っていた。西ノ島(浦郷)の常福寺には、その古記録に「蓮華会舞」と、ただ名称だけが残っている。残念ながら、その内容の記載はない。また中ノ島(海士)の源福寺にも、その痕跡は残っている。今や消失してはいるが、かつて舞楽面を残していたという記録がある。またその舞楽が演じられた場所を「蓮華畑」という。隠岐国分寺も同様で、その舞楽が演じられた場所は「蓮華畑」という。

 

⑦蓮華会の舞台

 蓮華会の舞台は、国分寺本堂の前庭に二間半四方の舞台として組まれる。昔から、ここで蓮華会舞が行われていた。この前庭の小字地名は「蓮華畑」である。蓮華会で使う清水は、近くの「こもりだの井戸」で汲むが、この井戸水の名を「蓮華水」という。

 蓮華会の舞台は、欄干のある四尺ほどの高さで、その舞台正面に別途、四天王の御輿を安置する座が設けられる。舞台の手前には、仮の楽屋が建てられ、ここに楽師がいて楽を奏する。

 舞台正面の四天王の御輿座から奥の院の四天王廟まで、かつては注連縄が張られていた。また寺段下の「蓮華松」から舞台周囲にかけ、広く篝火(かがりび)が焚かれていた。今は舞台周囲にのみ注連縄が張られ、舞台四隅に旗が立てられるだけの、まったく簡素なものとなっている。

 祭の当日になると、庫裡から舞人、楽人、僧侶、そして信者の順で、行列を作る。供え物、四天王の御輿を中央にして、この行列は五常楽を奏しつつ「蓮華松」を下る。そして段を上がり、門を通過し舞台前に出て、舞台を三回ほど廻る。そして御輿を安置する。楽人と舞人は、舞台手前の楽屋へと入る。舞台上では、先ず僧方がお勤めをする。その後、順次、細々と伝承されてきた舞を行う。この残された舞の中に、古い相撲の所作が残されている。