隠岐の相撲(22)

第Ⅲ部、隠岐の舞相撲

第2章、豊饒の祭儀(Ⅲー2)

 ①収穫の祭(Ⅲ-2ー①)

 ②犠牲獣の祭祀(Ⅲ-2ー②)

 ③古代の神饌(Ⅲ-2ー③)

 ④角觝戯の始まり(Ⅲ-2ー④)

 ⑤蚩尤戯の舞踊(Ⅲ-2ー⑤)

 ⑥二度の収穫祭(Ⅲ-2ー⑥)

 ⑦循環再生の儀式(Ⅲ-2ー⑦)

 

①収穫の祭

 蓮華会、七夕(乞巧奠)、盂蘭盆会とは、畑作農耕のかつての収穫祭である。麦秋に行われる蓮華会については、すでに延べた。

 盂蘭盆会については、これは施餓鬼会(餓鬼に施す行法の日)であり、食糧難に陥り飢え苦しむ者たちへの施しであった。収穫の日となり、食糧に余裕ができ、飢えた者、貧しい者も、その分配に預かり、喜ぶという日なのである。

 七夕(たなばた)について言えば、七月は古代中国では黍稷(しょしょく)の嘗祭の行われる月である。黍(きび)など穀物の収穫を祝うという、やはり感謝祭である。このとき織女星は南中し、牽牛星も中天にあり「天の川」を挟んで互いに対峙する。そして「地の川」にあっては、実りを潤す河神に、収穫を感謝する刻限が七月七日の夕べであった。犠牲牛を捧げる古儀が、この河畔で執り行われる。その祭祀に関わる聖なる巫女こそ「七夕姫(織女)」であった。「牽牛」本来の姿は、巫女に牽かれ河畔に向かう犠牲牛である。ここに様々な祭祀の舞踊が奉納された。相撲舞も、その一つであった。

 相撲節会は、この河神祭祀の七月七日に行われた。河童(河伯)が相撲を好む理由も、この河神祭祀のゆえである。水の恩恵を謝する水辺の祭、河神祭祀こそ、この七夕の発祥であった。

 『日本書紀』皇極元年(642)七月戊寅条は、日照りに於ける河伯祭祀を記す。「村々の祝部(はふり)の所教(おしえ)の随(まま)に、或は牛馬を殺して、諸社の神を祭る。或は頻りに市を移し、或は河伯に祷る」と。この祈雨法は渡来の漢神祭祀である。

 『古語拾遺』は「田を営(つく)るの日、牛宍(うしのしし)を以て田人に食はしむ」と記し「牛宍を以て溝の口に置き、男茎形を作りて以て之に加へ、薏子(はとむぎ)、蜀椒(はじかみ)、呉桃(くるみ)の葉、及び塩を以て、其の畦に班ち置くべし」と記す。このような牧畜農耕(牧畑農耕)の収穫祭は、いつしか水稲稲作農耕の予祝祭へ、その殺牛祭祀は豊饒の祈願祭へ、水の恩恵を祈る祭事へと変貌を遂げた。

 隠岐に残る「牛突(うしづき)」神事は、牧畑農耕の収穫の祭で、八朔(八月朔日)に執り行われる。牛の力の勝負ゆえに「牛相撲(うしずもう)」ともいう。二頭の牛に、それぞれ牛追いの勢子(牛飼童子)が付き、巧みな縄さばきで闘いに導く。二頭の牛は、互いに角を突き合わせ、押し合っていく。その押し合いで、力負けした方が、負けとなる。だが負けた牛が殺処分されることはない。これは殺牛祭祀ではなく、役牛(開墾用の牛)と共に喜ぶ収穫祭祀だからである。それゆえ負けた牛も、また次回、再び勝負に挑戦する。

 

②犠牲獣の祭祀

 犠牲獣の祭祀は、古い昔から行われていた。人々が共同して動物を捕らえ、屠り、肉を食べるというのは、人類発祥の昔から存在したものである。犠牲獣の血肉は、狩猟民の生命を維持し、その活力を生み出していた。収穫の肉を切り分けし、皆で食事を共にすることが、原初の儀礼であり、原初の祭祀であった。神聖な動物を屠り、共に食事することは、おのずから一つの儀礼的饗宴であった。

 だが屠る動物を捧げるべき神、祭祀の対象となる神の観念は、まだ原初の段階では、存在しなかった。むしろ犠牲として屠る動物自体が、唯一の神聖な存在であった。つまり犠牲獣こそが、恩恵を与える聖なる神なのであった。これすなわちトーテム祭祀で、供犠と称する儀礼の原始的な形態である。だがやがて皮を剥ぎ、肉を切り、骨を割るための石の台が、祭壇としての聖性を獲得する。ここで分配される食物への感謝が、この切り分けの祭壇から発生するからである。

 壇上で犠牲獣を屠殺し、神に捧げる。それは解体し分配し共食することである。犠牲の肉にこもる神秘的な生命力は、神に捧げられ、分配され、人々に取り込まれる。犠牲の中から繁栄と喜悦とが生まれ出る。そのような豊饒の日々こそが、乞い願われた。

 『古事記』では須佐男(スサノオ)が大気都比売(オオゲツヒメ)を殺し、その屍体の頭部から蚕が生まれ、目に稲種、耳に粟、鼻に小豆、陰部に麦、尻に大豆が生じたとする。『日本書紀』では稚産霊(ワクムスビ)が分解し、頭から蚕と桑が、臍の中から五穀が生まれ出たとする。月夜見(ツキヨミ)によって屠られる保食(ウケモチ)神の話では、身体から粟や稗や稲や麦や豆が発生したとする。その保食神の頭部は牛馬であったという。これら説話の意味するところは、その本質は、犠牲獣の祭祀である。

 

③古代の神饌

 神饌として牧畜牛を奉献するのは大陸の風習で、それは捕獲獣を解体した人類の古(いにしえ)からの風習である。

 中国神話では、五穀を植えることを始めた炎帝神農氏は牛首人身であった。古代エジプトの農業神イシスは、古い段階では牛首人身の姿で表現され、その夫のオシリスは死に際し、屍体から麦を化生させている。

 謝肉祭とは牧畜社会と農耕社会の融合の祭祀で、収穫の麦祭に養獣を屠殺することで行われた。ギリシャディオニソス祭祀は葡萄の収穫祭であるが、その祭儀の折、八つ裂きにされるペンテウスとは、屠殺される神獣のことである。アテナイの英雄テセウスに斃される牛首人身のミノタウロスも、また屠殺される神獣であった。

 中国には殺牛祭祀の記録は多い。『周礼』祭儀篇は「古は天子諸侯必ず養獣之官有り」と記す。『史記』天官書は「牽牛星は犠牲を司る」と記す。古代祭祀に、聖なる犠牲獣の奉献は必須の要件であった。祭主たる天子諸侯は、この養獣之官から犠牲獣を受け取り、屠殺し、神に捧げるのである。そして参列者一同で、血を啜る「牛耳の儀式」を執り行い、友好的に会盟した。その切り分けられた肉によって、共食し、平和の饗宴を行ったのである。

 『漢書』郊祀志は、漢の高祖が天下に霊星祠を建てさせ、歳ごとに牛を殺して祀らせたことを伝える。霊星とは稼穡(かしょく)を司る星のこと、すなわち農業神である。漢の武帝や唐の太宗が執り行っていた郊祭とは、国豊かに民栄え、平和安寧が永続することを、天地の神に祈るものである。当然ながら、ここでは犠牲獣が捧げられていた。

 

④角觝戯の始まり

 祭壇に捧げる牛は聖なる標徴であり、この牛を飾り立て、人々はその周りを舞い踊った。そして豊饒を祈願する。西洋では、これを謝肉祭(カーニバル)と呼ぶ。

 漢の武帝の頃、子供が両手を地に降ろし、頭を触れ合うように格闘する遊びがあった。子供の力比べで、それを角觝戯(かくていぎ)と称した。収穫祭における百戯(雑戯)の一つで、牛の角突きの模倣である。本来は角を持つ仮面を被り、童子が舞い踊るというものである。それは牛に成り代わった二人の牛飼童子が、共に舞う童子舞(双び舞)であった。

 角を持つ仮面とは、もちろん犠牲獣(祭礼牛)の象徴である。童子が祭壇の前で、祭礼牛に成り代わり、神への奉納舞を舞うものであるが、聖なる牛が憑依した舞人とは、聖なる力を授かっている。その力が奉納供覧されるのが角觝戯で、角を突き合わせる力の饗宴、衆の喜ぶ娯楽芸能(見世物)へと至っていく。

 角觝の角(かく)は較(かく)に等しく、觝(てい)は抵(てい)として押す力である。すなわち角觝とは力比べを指し、古い中国の相撲である。娯楽芸能として、祭礼参加者を興奮と喜悦とに引き込んだ。当然ながら衆に、もてはやされ、衆みずからの闘技実践にも至り着く。そのような角をめぐる争いは『荘子』や『菜根譚』で「蝸牛の争い」として語られる。読む側も、聞く側も、角突き合いについては、よく知っていたから、容易にその蝸牛の角のイメージは了解可能だった。

 

⑤蚩尤戯の舞踊

 角觝戯(かくていぎ)は、また蚩尤戯(しゆうぎ)とも称される。蚩尤は五千年の昔、軒轅(後の黄帝)と涿鹿(たくろく)の野で激戦を交えた英雄である。

 『史記』楽書は「蚩尤氏は頭に角を有し黄帝と闘い、角を以て人を觝す。今、冀州(きしゅう)蚩尤戯を為す」とある。また蚩尤は人身牛蹄、四目六手を持ち、その81人もいたと言う兄弟たちも、全て獣身であったという。もとより伝説に過ぎないが、六手もあると称されるほどの剛腕であったろう。勇猛果敢、その角突き立てた兜姿が、相手を激しい恐怖に陥れたことであろう。

 百戯の一つである角觝戯、そして蚩尤戯について、袁珂『中国の神話伝説』は次のように語る。「漢代に始まった角觝戯や、晋代になってそれに新たな趣向をこらした蚩尤戯は、数人ずつグループを組んで、頭に牛の角を着けて格闘するのであるが、蚩尤が戦場で戦う光景を模しているように思われる」と。蚩尤は戦いに敗れ、殺された。黄帝の栄光の代を現出させるため、敢えて屠られた犠牲者なのである。

 征服されるに至った蚩尤一族は、黄帝の前で武装解除され、ここに服属の儀礼が執り行われる。蚩尤戯とは、戦いから屈服に至る戦闘の舞踊、その力技を新たな支配者(征服者)へ捧げるものであった。蚩尤は犠牲者すなわち犠牲獣として、祭壇の前で力技の舞踊を演じ続ける。それが蚩尤戯で、その力を抑え込んだ新支配者(征服者)は、祭事を取り仕切ることで栄光を得、支配を貫徹し、以後、繁栄と豊饒の世を築くことができた。

 王朝の節会相撲でも、競い合う力士は服属の被支配者で、西の隼人そして東の力人であった。その角髪(みずら)の髪飾り、髪への花翳しとは、角をつけた競技(角觝戯、蚩尤戯)の名残りなのであろう。

 

⑥二度の収穫祭

 古代中国の二大王祭は禘(てい)と嘗(じょう)である。それは春夏祭と秋冬祭のことで、麦と稲という二大作物の、二度の収穫祭なのである。祭壇には犠牲獣(養獣)が捧げられ、天子は斎戒沐浴し、この聖なる祭儀を取り仕切った。

 『史記』封禅書は「冬至の日、天を南郊に祀って長日(冬至の日から昼間が一日一日長くなること)を迎え、夏至の日、地祇を祭る。みな舞楽を用う。神を得て礼すべし(舞楽により天地の神々が現れるので、礼が行える、礼をすべきである)」と記す。

 『周礼』にも同様の記載があり、年に二度の区切りの時期、神へ供物を捧げ、人々は饗宴した。一年は春夏秋冬を廻り、気象天候は移り行く。この春夏と秋冬の二度の祭儀を軸にして、天地の世は円滑に運行した。

 そのような祭儀の思想は、日本列島にも移される。天子は斎戒沐浴し、やはり収穫の祭儀を執り行う。稲穀の初穂を天神地祇および皇祖神へと献じ、饗宴の直会(なおらい)を行う。祭儀の本質は中国も日本も何ら変わらない。稲の収穫が終わり、稲の収穫祭が終わった後、次の年の前半が始まる。そして麦の収穫が始まり、その収穫を終え、麦の収穫祭を祝うのである。祭宴が終わった後、その年の後半が始まる。だから七月七日に行われる相撲節会とは、麦秋における収穫祭であり、その折の感謝の芸能祭であった。

 だが雨量の多い日本では、麦作による収穫よりも、水田稲作の方が収穫は絶大である。だから禘の祭儀に比し、嘗の祭儀の方が格段に神聖視された。新嘗祭神嘗祭大嘗祭として、国家最高の祭に位置付けられた。一方、畑作農耕の収穫祭は、早い地方では端午の祭に、その後の蓮華の祭に、少し遅れて七夕の祭に、遅い地方では盆の祭に、それぞれ分散された形で、民衆祭祀として残された。

 

⑦循環再生の儀式

 一年を二等分する思想は、循環する再生の思想、作物霊の復活信仰を基にする。死から生へ、生から死へと、そのような信仰に則り、各種の祭儀は執り行われた。

 大祓は年に二度、6月の晦日みそか)と12月の晦日みそか)に行われる。6月の方は水無月祓(夏越祓)と称し、12月の方は年越大祓と称する。それぞれが作物霊の死の季節に該当し、ここで罪という罪を祓うのである。この収穫の区切りの時期、祖霊もまた黄泉の国から子孫のもとへと訪れ来る。それが盆と正月の祖霊祭の風習である。新たな生命霊の復活の祭りでもある。

 奈良や平安の王朝儀式も、やはり威令の復活、皇権の再生を願い行われた。年に二回の区切りの時期に、天子に国土掌握の力が復活するよう、深い祈りが捧げられた。

 まず年の初めの元旦に、文武百官を集め、朝賀の儀式が執り行われる。王朝秩序の再確認、忠誠を誓わせる儀式である。ここに今一度、揺るぎない体制を確認する。そして年の半ばの7月には、相撲の節会が執り行われる。それは王朝の繁栄を祈る力の儀式で、力による秩序の維持を、ここで再確認する。国土の東西から集められた力人たちが、ここで力の技を供覧する。その力技を天子に奉納し、天子こそ天下の力の保持者たることを示すのである。相撲の節会とは、そのような天下秩序の儀式なのである。