隠岐の相撲(23)

第Ⅲ部、隠岐の舞相撲

第3章、蓮華の舞楽(Ⅲー3)

 ①れんげの覚書(Ⅲ-3ー①)

 ②麦焼舞(Ⅲ-3ー②)

 ③山神貴徳の舞(Ⅲ-3ー③)

 ④太平楽の舞(Ⅲ-3ー④)

 ⑤宴飲の舞(Ⅲ-3ー⑤)

 ⑥林歌の舞(Ⅲ-3ー⑥)

 ⑦抜頭の舞(Ⅲ-3ー⑦)

 ⑧花の舞(Ⅲ-3ー⑧)

 

①れんげの覚帳

 隠岐国分寺の楽人の家には、文政10年(1827)書写の『れんげの覚帳』という手控え帳が残されている。舞の手を心覚えとして記したもので、書いた人さえ分かれば良いという程度の、メモ書きの如きものである。

 ここには現在行われている眠仏之舞、仏舞麦焼舞などはなく、逆に今では演じられることのない、抜頭(ばとう)、中門口(ちゅうもんぐち)、華舞(はなまい)、林歌(りんが)などが載る。順を追って記せば「三番忠文口、四番さんぢん舞、五番太平楽、六番きとく、七番花まい、八番ゆんをん、九番りんが、十番ばどん」とある。このそれぞれに、手振り足振り身のこなし、舞台上の動きや仕草などが記される。例えば「六番きとく」など、次の通りである。

 

「ふがしのはし あがり ほこ右のかたいいない 正めんほこをろし 右之て丶中いゆ こみ 花とり ふり 花とり 五ほん 此て丶 まわり 正めん むかう ほこむねあて 右い三ど ねちる 西まわる 五ほん まわる 正めん むかう 中をで はやまい こしすい三と したからすくうばかりて こしすいで 西まわる 五ほん 正めんむかう たちを右いねぢる たちみせる そとめせる がくやみせる 中みせる 正めん 五ほん 花とり まわり(以下略)」

 

 この『れんげの覚帳』には、一、二番が欠落している。欠落は紙面の脱落によるもので、本来は十番の曲を記すものであった。その一、二番の曲名は不明であるが、今も最初の一、二番に演じられる眠仏之舞と獅子之舞である可能性は高い。

 

 

②麦焼舞

『れんげの覚帳』には三番からが載る。その「忠文口」とは、中門口つまり田楽法師の舞で、今の麦焼舞であろう。麦焼舞は土俗的な田楽風の滑稽舞だからである。だが現在、麦焼舞に中門口の名は伝わっていない。麦焼舞は、かつては還城楽(げんじょうらく)と称されていたと、古伝にある。だが麦焼舞は畑の掘り起こしの舞で、蛇を見付けて喜ぶという還城楽(見蛇楽)の舞ではない。

 麦焼舞は、大地を耕し、種を撒き、実るを待って刈り取りをするという舞である。穂を叩いてつぶし、揉み、そして扇で穂殻を飛ばす、そして焼くと、そのような所作ごとを四囲に披露する。腰の曲がった年老いた鄙の農夫、その農作業の次第が、巧みに舞に取り入れられている。まさに農耕神の舞である。収穫の祭の舞、麦の節句にふさわしい祝言の舞である。

 だが、このような下々の農作業など、宮廷の正式雅楽や大社寺の舞楽で、見ることは無い。舞楽においては、僅かに舞名目(動作名目)の中で、種子播手(たねまきて)というのがあるだけである。掻寄手(かきよせて)とも称するが、左右および両手の掻き寄せを、手早く二度続けるというものである。これが舞われるのは「甘州」という曲だけで、しかも竹林の中で、竹伐りに関する所作ごとにしか過ぎない。麦焼の翁が示す所作ごとからは程遠い。

 結局のところ麦焼舞とは、猿楽や田楽の古い演目が、ふとしたことで紛れ込んだものという可能性が高い。だが麦焼の翁の面は、能狂言にある三番叟の黒式尉に類似する。しかも麦焼の舞は大地を寿ぐもの、その足踏みは農事に関わる地固めにほかならず、三番叟が示す五穀豊穣の舞姿と類似する。まさに古俗の祭事なのである。

 

③山神貴徳之舞

 『れんげの覚帳』四番「さんぢん舞」とは、山神之舞すなわち散手(さんじゅ)の舞である。太刀を佩き鉾を持ち、敵を平定する勇壮な一人舞である。これは左方の舞で、その番舞(つがいまい)が、六番のきとくで、すなわち貴徳(帰徳)の舞である。貴徳は右方の舞で、同じく太刀を佩き鉾を持つ勇壮な一人舞である。

 隠岐国分寺では、舞の四番と六番として、本来別々に舞われていた。だが今は山神貴徳之舞として、両者が同時に双び舞うという相舞(合舞)である。頬被りし赤色面を着けた山神は、左方から舞台に登場し、同じく頬被りし青色面を着けた貴徳は、右方から舞台に登場する。山神は左肩に鉾を持ち、装束の模様は牡丹の花である。貴徳は右方に鉾を持ち、装束の模様は銀杏の葉である。花木を身をまとう山神の姿で、その持つ鉾は木鍬にも見えてくる。ここで静か舞と、早舞の二部からなる舞を舞う。大陸からの渡来舞「散手」と「貴徳」は、古俗土着の「草荘神」の舞と重なってくる。

 

太平楽の舞

 『れんげの覚帳』五番の「太平楽」は、今も太平楽之舞として隠岐国分寺の蓮華会舞の中に残されている。本来は甲冑を着けた武将の勇壮な剣舞で、武将破陣楽とも武昌太平楽とも称される。

 隠岐国分寺のものは少年四人の童舞で、顔に白粉を塗り紅をさす。着物姿に袴、頭に鳥兜を被り、太刀を佩き鉾を持つが、質素で田舎風のものである。やはり静か舞と早舞とからなるが、序破急三部形式で舞う。

 

⑤宴飲の舞

 『れんげの覚帳』の八番は「ゆんをん」である。ゆんをんとは、雅楽の宴飲(えんおん)の舞のことであろう。宴飲楽(えんいんらく)あるいは飲酒楽(いんじゅらく)と称する。また酔胡楽(すいこらく)や胡飲酒(こんじゅ)の別名でも知られる。その名の通り、酔胡の舞である。胡国の人が酒に酔って演じたものを模して作ったとされる。

 今の蓮華会舞では、もう忘れ去られてしまったが、舞台では酒の杓を示す桴(ばち)を取って大きく舞う。そして退場するときは、登場した時と別の階段を用い、酔っぱらって道を間違ったという風情を表わし、舞を終える。

 

⑥林歌の舞

 『れんげの覚帳』その九番は「りんが」である。りんがとは林歌の舞のことで、これは輪鵞とも臨河とも記す。鼠に関連のある舞のようで、子の祭(11月の子の日)とか甲子(きのえね)の日に奏楽するという。催馬楽の老鼠(おいねずみ)の旋律が、この曲に合うとも古記にある。また装束にも鼠の刺繍が施される。今の国分寺の蓮華会では、もう舞われることはない。

 

⑦抜頭の舞

 『れんげの覚帳』の十番「ばどん」とは、抜頭(ばとう)の舞のことである。猛獣に父を殺された胡人の子が、山中に分け入り、仇の猛獣を伐ち、復讐の喜びを示すという舞である。あるいは虎に殺された父の屍体を、山に入って探し求め、髪を振り乱して嘆き苦しむ痛恨の舞だともいう。だが『教訓抄』の説は異なり、抜頭とは髪頭(ばっとう)の意で、髪を振り乱し激しい感情を露わにする舞だという。唐の后が嫉妬の余り鬼になった姿だと伝える。

 隠岐国分寺の蓮華会舞には、今、この曲が舞われることはない。もう全く忘れ去られてしまった。

 

⑧花の舞

 『れんげの覚帳』七番の「花まい」とは、どのようなものだったのか。これは不明の舞である。今、実際に行われている蓮華会舞の中に、花まい(花舞)の名称はない。だが古記録の中には「華舞」あるいは「華之舞」として残されている。あるいは、その華の舞とは「蓮華の舞」の蓮の文字が取れた略称なのかもしれない。もしも蓮華会を代表する楽舞「蓮華の舞」を指すとすれば、それは優雅な二人舞の「仏之舞」がふさわしい。衆を導く蓮華の上の仏の舞である。

 今、隠岐神楽には、神への奉納舞として、優雅荘重の「花舞」が残る。隠岐神楽の「花舞」は、やはり静かに二人で舞う相双の舞である。だがそれは面を被らぬ素面の舞である。一方、蓮華会舞の仏之舞は、菩薩面を被る仮面舞である。だが静かに二人で舞う相双の舞であることは同じである。隠岐神楽の「花舞」が、その素面舞が、もしも仮面の亡失であれば、仏之舞との関係は俄然近づいてくる。

 だが花舞とは、花踊「鎮花祭の舞」であったかもしれない。いわゆる「やすらい花」である。定家『明月記』正治2年(1200)11月16日の条は「千寿万歳、やすらい花、師子」と並べて雑戯(百戯)として記す。やすらい花とは花笠で踊るものであるが、この花笠には赤い布の帽額(もこう)が垂らされる。五来重の『踊り念仏』は、この帽額の源流を、百済人の味摩之(みまし)が伝えた伎楽儛(くれのうたまい)の帽冠(ほうこ)と説く。

 天福元年(1233)刊の狛近真の『教訓抄』は、伎楽の内容を並べ「是を以て行道を為す。立つ次第は、先ず師子、次に踊物、次に笛吹、次に帽冠(ほうこ)、次に打物」と記す。蓮華会の花舞とは、あるいは、この雑戯(百戯)中に記される帽冠の舞であったかもしれない。だがそのような帽子と冠を被る僧体の舞など、今も昔も、この蓮華会舞の中には無い。だが行道(ぎょうどう)の中の舞とあれば、いかなる舞であったろうか。蓮華会舞は行道から始まり、その中にある舞楽だからである。