第Ⅲ部、隠岐の舞相撲[第4章、菩薩の舞]

第4章、菩薩の舞(Ⅲー1)

 ①菩薩の行進(Ⅲ-4ー①)

 ②先導する先払(Ⅲ-4ー②)

 ③王の舞(Ⅲ-4ー③)

 ④行像(Ⅲ-4ー④)

 ⑤脇侍の菩薩(Ⅲ-4ー⑤)

 ⑥眠仏之舞(Ⅲ-4ー⑥)

 ⑦獅子之舞(Ⅲ-4ー⑦)

 ⑧獅子あやし(Ⅲ-4ー⑧)

 ⑨二菩薩の舞(Ⅲ-4ー⑨)

 

①菩薩の行進

 隠岐国分寺の舞相撲(相撲舞)を語るには、その相撲を取る菩薩たちが登場するところから語り始めなければならない。その登場の有様を行道(ぎょうどう)という。

 行道とは列を作って道を歩くだけのことであるが、仏教では特に本尊や堂塔の周囲を練り歩き、讃嘆、誦経、あるいは供養礼拝することをいう。それは仏道修業の一作法である。

 蓮華会の行道は「お練り」と称し、舞手たちの顔見せの行進である。大相撲で言えば、十両以上の力士が行う「土俵入り」にも該当する。というより大相撲の土俵入りが「お練り」の変貌を遂げた後年の姿である。

 本堂から蓮華会の行列が繰り出し、楽を奏でつつ、野外へ出る。門を出て蓮華松を降り、石段を登り再び門に入る、そして本堂前の特設桟敷へと戻ってくる。この桟敷舞台を時計回りに三周するのである。先頭を切るのは鼻高面を被り矛を持つ「先払(さきばらい)」である。

 先払は、その名の通り行列の先頭を歩き「露払い」を務める。つまり神聖なものの居るべき場所、行くべき道を、確保し、祓い浄める役割を果たす。続いて獅子が歩く。獅子の口取り(獅子あやし)をするのが、小さな仏菩薩である。この童子菩薩が眠仏之舞を舞う。獅子の口取りとは獅子児(ししこ)のこと、獅子飼いの童子である。つまり眠仏之舞とは、この獅子児之舞、童子舞のことである。

 

②先導する先払

 蓮華会の先払(さきばらい)は舞を奉納しない。ただ行道のとき登場するだけである。それもただ歩くだけ、舞いつつ歩くなどはしない。行道は、先払、童子菩薩、獅子に続き、装束を着けた舞人たちが歩く。楽人たちも笛や太鼓や繞鉢(にょうはち)を演奏しつつ共に歩く。行列の中心は四天王の御輿(厨子)である。さらに僧侶が続き、最後尾を篤信者たちが歩く。ただし行列の順については時代による変動、変遷がある。

 伎楽における行道も、この蓮華会の行道と同じで、最初に露払いの一団として、治道(ちどう)が歩く。この先導役に続いて、師子(しし)と獅子児(ししこ)の組み合わせが登場する。その後を伎楽面を着けた伎楽者たちが、そして楽人たちが続く。

 行道は、神社における祭礼(神幸祭)にも転写される。神幸の鹵簿(ろぼ)では、先払として、鼻高、王鼻、猿田彦など、様々に呼ばれる先導役が登場する。獅子は居ることも居ないこともあり、獅子児の存在は明らかではない。その後を種々の神宝を捧げる諸役が続き、行列の中心たる御輿(神輿)と神官たちの登場となる。

 隠岐一宮の水若酢神社では、その神幸祭の行列の先頭を切るのは、赤面で鼻高の先払である。この先払が、まず最初に舞台に上がり、そこで舞を舞う。先払は行列の一番先に立ち、道を祓い浄めるので、その舞を「一番立の舞」と称する。

 

③王の舞

 日本海に面する若狭湾一帯、そこは畿内文化が隠岐へ伝わる途中の経路、日本海交流の拠点に該当する。そこに広く分布する「王の舞」も、また先払(さきばらい)の舞である。

 王の舞は、顔に鼻高面、頭には鳥兜、鳳凰の冠などの被り物を着け、鉾を持っての舞である。伎楽の治道(ちどう)がその祖というから、蓮華会の先払と同じである。王の舞は、平安時代から鎌倉時代にかけ、社寺の祭礼で盛んに舞われていたという。そこでは獅子舞や田楽と共に演じられていた。

 王の舞は、藤原定家の『明月記』建仁2年(1202)の記事にも載る。御前乱舞し、唐櫃の蓋に小人を乗せ、それを御輿に見立て、獅子舞や王の舞を真似て遊んださまが記される。

 葉室定嗣の『葉黄記』宝治元年(1247)条には、新日吉社の祭礼に御輿に続き道張舞、獅子舞、田楽などがあり、この道張舞とは「王舞是也」と注記がある。道張舞とは道の見張りを行う所作ごとで、道の悪鬼(さわりとなる物や人や風習や環境など)を除くもの、つまり先払の所作ごとである。これが王舞だという。

 金春禅竹(1405~71)伝書の一つ『六輪一露之記』には「今ノ世ノ諸祭ニ、王舞ト名ヅケテ、神輿ノ前ニ歩ヌルハ、猿田彦ノ形をウツセリトゾ申伝タル」とある。金春禅竹は、王舞とは猿田彦の形を模したものだという。だがこれは話が逆で、猿田彦の舞が王舞(道張舞)を模したものであろう。

 さて、王の舞における王とは何であろうか。それは舞楽でいう蘭陵王(陵王、龍王)のことという。上鴨川の住吉神社(兵庫県加東市)に残る王の舞は「りょんさんの舞」という。りょんさんとは龍王様あるいは陵王(蘭陵王)様のことであろう。武勇に優れた蘭陵王とは、まさに悪鬼を払う軍(いくさ)神で、その舞を蘭陵王入陣曲ともいう。行道の行進を、陣立てした軍隊の行進に見立て、その先頭を切る先払に、勇猛果敢な軍神の姿を重ね合わせる。

 蘭陵王(陵王、龍王)の答舞(つがいまい)が納蘇利(なそり)で、納蘇利は舞人二人で舞う双龍舞である。雌雄の龍が、あるいは火龍と水龍とが、楽しげに遊ぶ様を表現する。りょんさんすなわち龍王様の態である。火龍と水龍とは、火王(火神)と水王(水神)でもある。

 勇壮な双び舞としては、散手(散手破陣楽)と貴徳(武将の帰徳侯)も類似する舞である。散手貴徳之舞は、これまた王舞とも称される。散手面は赤色、貴徳面は緑色(青色)と、やはり火王(火神)と水王(水神)を表現する。

 建治2年(1276)『八幡箱崎宮神宝記(石清水文書)』には「陣道装束二具」というのがあると記す。陣道とは鎮道のことで道の鎮め、すなわち王舞であり道張舞である。その陣道二人の装束として、左は火神で赤色、右は水神で青色とある。

 力人としての金剛力士像も、阿形と吽形の対である。阿形すなわち陽形は火王であり、吽形すなわち陰形は水王である。南九州の神社には鬼面(神楽面)が多数残るが、口を開けた面と口を閉じた面の、阿吽一対の面をしばしば見る。

 結局の所、王の舞は、先払いの舞で、それは行道に端を発する伎楽、大唐の舞楽に関わっている。だがそれは、さらに行像にも行き着いていく。つまりシルクロードを渡り来た仏教舞楽に関わっている。

 

④行像

 行道は仏教行事が整備されるにつれ、儀式化され荘厳化されていった。行列の次第は、聖なる仏菩薩が衆の集う法会の場に厳粛に登場するというものである。仏像や堂塔の落慶法要や、巡り来る舎利会や来迎会などに、儀式の一部として行われた。

 楊衒之の『洛陽伽藍記』は6世紀中頃、北魏の都(洛陽)の寺院情景を記す。4月8日の釈尊誕生日の頃、都中を練り歩く華麗な行列が行われていた。飾り立てた車や輿に仏像を乗せ、行列を作り、都城内を巡回するというものである。行列の先頭に立つのは、やはり露払いである。続く一団に、魔除けの獅子もいる。獅子児もいる。その後を、刀を呑んだり、火を吐いたり、竿登りや綱渡りをする奇術の集団が歩く。さらに舞踊の群れも続いていく。この行列行事を行像(ぎょうぞう)という。

 行像は行列形式の仏行事で、隊列を組んでシルクロードを渡り来た仏教文化に他ならない。釈迦生誕日など祝祭日に、仏像その他の信仰対象を奉じ、衆の中を練り歩る。この華麗な儀式による喜悦を介して、一般人を結縁帰依せしめるものであった。

 5世紀初頭、中国から中央アジアや印度を旅した法顕は、その有様を『仏国記(法顕伝)』に記している。彼がコータン(于闐)国に3か月滞在したのは、この行像を見物するためであった。

 コータンの行像は4月1日に始まり14日に終わる長丁場の仏事である。コータン城内の道路は綺麗に掃き清められ、城門の上には大帳幕が張られ、飾り付けられる。この綺羅綺羅しい道筋を行列は行進する。行列の中心となるのは高さ三丈余りの像車(像輦)である。像車には七宝で飾られた錦の天蓋が懸けられ、中に仏像が安置される。その両脇を二体の菩薩(脇侍菩薩)が従侍し、さらに諸天像も居並ぶ。みな金銀や玉細工で美しく飾られる。この像車の一行が城門を通過する折、楼門上から貴夫人や麗しい采女などが衆華を散じ、それが美しく車上に舞う。仏陀の華麗なる行進を一段と艶やかにする。国を挙げての一大イベントであった。

 

⑤脇侍の菩薩

 蓮華会の行道は、もとより鄙びた形ではあるが、厳粛かつ華麗な行像(ぎょうぞう)の名残りをとどめている。眠仏之舞を舞う二菩薩(童子菩薩)とは、その出自を言えば、仏陀の行進を華麗に飾る聖なる脇侍である。この二人の童子は、菩薩面を頭から被り、着物を着て山袴(モンペ風の袴)に白足袋を履く。そして肩から腰にかけ円い棧俵(さんだわら)をぶら下げる。童子菩薩が持つ二つの円い棧俵とは、実は日輪と月輪の象徴で、この菩薩の正体を顕している。すなわち脇侍たる日光菩薩月光菩薩である。

 仏陀の教えを伝える一行(僧侶とその従僧たち)は、印度から中央アジアを経由し中国へと、キャラバン(隊商)に同道して到達した。その行進の姿は行道そのものである。荷駄を運ぶ動物は馬や駱駝で、笛や太鼓で音頭を取り、口取りの巧みな誘導により、その輸送効率を上げていた。利を求める交易ゆえに、珍奇な文物、綺羅綺羅しい飾り物、貴重な医薬品、見世物となる鳥や獣を伴ってのものであった。ここに奇術師、力人、倡優、楽人など、百戯の者どもが同道し、道すがら衆を集め、宣伝しつつ、交易の旅を続けていた。それが結果として、東西の文化伝播に大きく寄与していた。

 行道に登場する獅子の知識は、このようなキャラバン隊により、西から東へと伝わった。猛獣の獅子(ライオン)自体も、また見世物としてキャラバン隊により、西から東へと移送された。その間、飼育係として獅子飼の童子たちが同道した。獅子の口取りとは、この猛獣の餌係の謂いである。猛獣を衆に披露しつつ、獅子に芸をさせ、自らは獅子踊りを踊ったのである。同道する呪師や僧侶たちは、一方で宗教行事を披露し、倡優、楽人などは他方で、仮面芸能を披露していた。力役の荷運び人足は、その力技を衆に披露していた。その一つが格闘技としての相撲である。

 百戯の者たちは、まことに多才であった。同じキャラバン隊の中に獅子飼いも、菩薩(仏道修行者)も、力人(相撲人)も居たから、菩薩が相撲を取るのも、当然と言えば当然であった。

 

⑥眠仏之舞

 蓮華会の聖なる二菩薩(童子菩薩)は仏陀の脇侍で、仏陀の行進を華麗に飾る。この二菩薩が舞台に上がると、二人は左右の両側に分かれて座る。ここから舞が始まる。

 互いに向き合い、腕を組み、あぐらをかいて、ただ座っている。だが次第に眠り出す。舞台で居眠りする小さな仏菩薩に、やがて一角の青獅子が舞台下から近づいて行く。

 獅子は先ず、左(本堂に向かって右)の童子に対し、その腰の棧俵に噛み付いていく。噛み付かれた左の童子は、びっくりして跳び起きる。と同時に、相向き合う右の童子も起き上がる。そして二人は舞台中央で、跳ねたり回ったり、舞いつつ相撲を取り始める。やがて噛み付かれた方の童子が勝ち、他方は負ける。勝負が付くと、再び対座して眠り出す。

 獅子は次に、舞台下から右(本堂に向かって左)の童子に近づき、その棧俵に噛み付いていく。再び起き上がった二人は、また跳ねたり回ったり、再度の相撲を取り始める。やがて噛み付かれた方が勝ち、他方は負ける。一勝一敗になったところで互いに抱き合い、ユーモラスに飛び跳ねて、この相撲舞は終わる。

 この相撲舞の一勝一敗になるところ、そして互いに抱き合う形は、隠岐一宮水若酢神社の奉納相撲に類似する。隠岐の宮相撲は、この舞相撲の次第を、いつとはなく取り込んでいた。

 

⑦獅子之舞

 二人の童子による相撲の間、舞台下で動き回っていた獅子が、次に舞台に上がる。そして獅子舞を演じる。頭と尾に一人ずつ入る二人立ちの獅子舞で、奏楽に合わせ、足踏み鳴らし舞う。獅子頭は大変に重く、舞手は途中で分からぬよう前後を交替する。

 獅子舞は祈りの舞楽である。四方を祈り、四方を拝し、四方を踏みしめる。それは獅子による僻邪の四股踏みで、悪鬼を祓い、この聖なる舞台を踏み鎮める。奏楽が激しくなると、獅子の動きも激しくなり、やがて四方の榊葉に噛み付いていく。この榊葉を銜(くわ)えつつ舞う。獅子に仮託した生命霊の昂揚、それを表現するかのような舞である。舞台四隅には幟(のぼり)が立つ。国家安康、家内安全、天下太平、五穀豊穣の文字が記されている。

 四隅を祈願した後、やがて奏楽は穏やかに変化する。ゆったりとしてくると、獅子は眠りにつく。それは死に至る舞で、臥した獅子は、その動きを完全に停止させてしまう。静寂があり、だがやがて死からの復活、再生が始まる。

 楽がまた速い舞楽に変わると、獅子が目を覚ます。ゆっくりと起き上がり、身体を揺すりつつ歩き、また舞を舞い始める。獅子は再び舞台を数回まわると、同じく舞台の四隅に向かい、足踏み鳴らし、立ち向かう。元気よく四隅を拝し、四隅を祈り、四隅に祈願する。そして舞台を降りる。

 

⑧獅子あやし

 眠仏之舞とは、獅子を統御する童子の舞である。それは鞭で獅子を追う獅子使い、獅子の口取りを行う獅子あやしの舞であった。眠れる獅子を起こし、獅子に芸をさせるのが、この獅子児(ししこ)の果たす役割である。その逆を行い、獅子が獅子児を起こし、芸をさせることで、劇としての興趣を呼び覚ました。滑稽芸であり、相撲の最初に行われる初切(しょっきり)と同じ意味を持つ。笑いの中で祝祭の興趣を盛り上げる。その昂揚の中で華麗な法会は進行するのである。

 行道では、可憐な童子にあやされ、手綱を取られ、獅子は衆の前を行進する。その姿は治道と同様、悪鬼を祓い、道を鎮めるといった呪術的意味をも担う。そもそも伎楽における獅子舞とは序曲である。始まり行く芸能の場を、舞を以て祝い鎮めるものである。その前に行われる眠仏之舞が、滑稽なる喜悦を以て芸能の場を祝い寿ぐのは、衆をなごませ、衆を一体化させる役割を果たすもの、祝祭の場には欠かせなかった。能狂言の「翁の舞」や「三番叟の舞」と同じである。その白式尉も黒式尉も、笑いを表現する切顎の面である。

 獅子児の見せる舞踊芸は、踏舞、旋舞、騰舞(跳躍舞)である。そこに相撲舞が加わり、舞劇として展開する。まさに芸能尽くしなのである。だが獅子児の相撲舞とは、いったい何を意味したのか。一見、猛獣(獅子)による格闘の代役とも受け取れる。猛獣の格闘は余りに危険が多い。比較的穏やかな動物の闘技として、闘牛や闘犬や闘鶏が知られる。さらに穏やかな童子相撲に、この祝祭の見世物は転換されたのだろうか。いや、ことはそう単純ではない。

 

⑨二菩薩の舞

 眠仏(童子菩薩)が肩から腰にぶら下げているのは、円い棧俵(さんだわら)である。その実体は光り耀く円形、聖なる光背である。仏菩薩の聖性を意味し、天空の二つの耀き、日月二円を象徴するものである。光耀く二仏(二菩薩)の舞とは、ゆえに日光と月光、両菩薩の舞であった。

 遠江一宮の小國神社(静岡県周智郡森町)と摂社の天宮神社には、隠岐と同様の古い舞楽が残されている。由緒ある「十二段舞楽」で、ここも菩薩舞や獅子舞を残す。その舞楽「色香(しきこう)」とは、金銀の円盤を背に負い、二菩薩が舞うというものである。それは「仏の舞」とも称され、日光菩薩月光菩薩の両菩薩の舞だという。

 日光と月光の両菩薩は、如来の登場を先導する脇侍である。この菩薩が獅子を伴うところから、この古い舞楽が遠くシルクロードの彼方、獅子の棲息する地方から伝わったことを知る。

 だが獅子にまたがる菩薩と言えば、一般には智慧文殊を指す。象にまたがる普賢菩薩と並び、釈迦仏の脇侍を勤める。釈迦の脇侍は、阿難(あなん)と迦葉(かしょう)とも、薬王と薬上とも、また梵天帝釈天とも言う。また阿弥陀仏の脇侍は観音と勢至、金剛力士も仁王(二王)として門衛の脇侍である。そのような並び立つ脇侍は、いずれも印度に端を発し、シルクロードを経由する仏典に依拠するものである。その教義、新文化は、交流の物資、祝祭の舞楽を携え、中国へ流入した。そして朝鮮半島を経由し、この日本列島にも到達した。そして京から若狭を経由し、隠岐に至ったのである。