第Ⅲ部、隠岐の舞相撲[第5章、渡来の舞楽]

第五章、渡来の舞楽(Ⅲー5)

 ①菩薩舞の伝播(Ⅲ-5ー①)

 ②菩薩蛮の舞(Ⅲ-5ー②)

 ③伎楽の伝習(Ⅲ-5ー③)

 ④童子の舞(Ⅲ-5ー④)

 ⑤牛飼の童子(Ⅲ-5ー⑤)

 

①菩薩舞の伝播

 行列を作り、穏やかに進む行道には、シルクロードを渡り来た隊商(キャラバン)の姿が重なり合う。隠岐の蓮華会の行道を始め、日本各地に伝わる法会の「お練り」は、治道に続き、獅子と獅子児、異邦人を彷彿とさせる伎楽面を被る伎楽者たちが、次々と歩く姿である。それは大陸に起源を持つ行列で、先導者の後を追う荷を積む養獣(馬、牛、羊、駱駝、象)と、百戯の技を持つ舞楽人と、そして利を求める商人たちの群れである。険しい峠を越え、流沙を渡り、彼らは中華世界の都、長安と洛陽へと入ってきた。さらに東へと至り、奈良朝にはバラモン僧の菩提と仏哲とが渡来し、この菩薩舞を日本へと伝え来た。格闘技としての相撲舞とは、この菩薩舞の一つである。

 天平勝宝4年(752)東大寺大仏開眼供養の折、菩薩舞は行われている。だが鎌倉時代には、もう行われなくなったらしく『教訓抄』は「近来、菩薩舞は絶え了りぬ」と記している。そして古楽「菩薩」は文殊菩薩の霊験を伝えるもので「是は天竺の舞楽也」とも記している。確かに菩薩舞はシルクロードの彼方から渡って来たもので、異貌の人たちの異蛮の舞であった。唐代には菩薩蛮曲というものがあり、さらに知りたければ、これを尋ねるべきと『教訓抄』は附言する。

 

②菩薩蛮の舞

 唐代の資料『杜陽雑編』や『南部新書』などが伝えるところによれば、「菩薩蛮」とは一種の踏舞、菩薩形をして隊列を組む舞踊のようだという。隊列を組みシルクロードを渡り来た商人たちは、この西方の舞踊舞曲「菩薩蛮」を、東方の中華世界へと伝えたのである。それは、さらにシルクロードの終点、奈良平城京における「菩薩舞」となって、後年に至るまで伝えられたのである。

 シルクロードを渡り来た菩薩蛮とは、実のところ異蛮の舞ということである。そもそも菩薩蛮とは音訳により漢語化されたもので、本来の語はBussulman(Mussulman)である。すなわちアラビア語ムスリム」の波斯(ペルシア)訛り「ムスルマン」である。だから「菩薩蛮(ムスルマン)の舞」とは、西方起源の「イスラムの舞」というだけのことである。

 唐からすれば西域蛮夷の芸能で、紫髯碧眼の胡舞胡劇、もの珍しい仮面舞、舞踏劇であった。ここに奇術、弄玉、闘技などの雑芸が加わったもの、だから本来の姿は、珍しい異国情緒あふれる百戯(雑戯)なのであった。

 様々な人達により、様々なルートで、この行列の舞芸は伝えられた。渡来変遷の末には、舞そのものも大きく変貌する。物資交換や取引の行われる市の衢、渡来人が数多く居住する餌香の市や、海石榴市の八十の衢では、異国の舞踊(踏舞、旋舞、騰舞)も舞われていた。異文化は様々に展開し、やがて男女は行列し、踏舞しては歌を懸け合っていく。

 『続日本紀宝亀元年(770)3月条は、青摺細布の衣に紅の長紐を垂らす男女が行列する様子を記す。「乙女らに男立ち添い踏みならす西の都は万世の宮」と、大地を踏み鳴らしつつ踊り、歌っていた。その踏歌とは、もともとは渡来の踏舞である。

 『日本書紀』持統7年(693)正月条には「漢人等、踏歌を奏す」とある。同8年(694)正月条にも「漢人、踏歌」とあり、ついで「唐人、踏歌」とある。

 

③伎楽の伝習

 隠岐国分寺の「眠仏之舞」と「獅子舞」のように、菩薩と獅子が連動する舞は、今の雅楽の中には見出せない。これらの舞を彷彿とさせるのは、大阪の四天王寺に残された舞楽「菩薩」と「師子」だけである。左方が「菩薩」を奏すれば、右方は「師子」を奏するという番舞(つがいまい)である。だが四天王寺の「菩薩」は近年に復活されたもので、残されていたのは曲だけである。それゆえ隠岐舞楽は、より古い伎楽の痕跡をとどめている。

 この伎楽の伝来は、遙かな古に遡る。『日本書紀』によれば允恭42年(西暦不詳)天皇崩御に際し、新羅から楽人80人が貢上されたという。楽は繰り返し習得されなければ身につかない。雄略11年(467?)百済から呉人貴信という弾琴家が来朝した。渡来人たちは、その楽芸の技を当時の倭国人に繰り返し教え、伝授したに違いない。

 『新撰姓氏録』は呉国の子孫、和薬使主(やまとのくすしのおみ)が、大伴狭手彦に随い内外典薬書や仏像一躰などと共に、伎楽調度一具をもたらしたと伝える。また『日本書紀』は、欽明15年(554)百済から五経博士、易博士、暦博士、医博士、採薬師と共に、4人の楽人(うたまいのひと)が来朝したことを伝える。

 この4人の楽人とは、交代要員の楽師で、笛、箜篌(くご)、莫目(まくも:篳篥の一種)、儛の四師であった。伎楽の専門家として倭国で活動するが、芸能の常として後継者を選び、その歌舞を習得させる必要がある。そしてその通りに、推古20年(612)には、その伎楽伝習の記事が載る。百済人の味摩之(みまし)は、呉の国で学んだ伎楽儛(くれのうたまい)を、刷り込みの容易な子供たちを集め、伝習させるのであった。

 

童子の舞

 もともと子供というものは、歌や踊りが好きである。見よう見まねで、直ぐ覚えてしまう。そのような子供に舞わせ、宴席の余興や座興にすることも稀では無かった。相撲舞も同様である。可愛さゆえに宴席の場を盛り上げる。それを童舞(わらわまい)と称していた。

 童舞とは、だから舞楽の各曲を小童に演じさせる時の呼称である。曲目が決まっているわけではなく、また仮面を着けないのが普通であった。可愛い子供の、そのあどけない素顔を見せるのである。

 そのような余興の舞は『日本書紀』顕宗即位前紀、播磨の縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)忍海部造細目(おしぬびべのみやつこほそめ)の新室における宴に見ることができる。市辺押磐皇子の子、億計王(後の仁賢天皇)と弘計王(後の顕宗天皇)の舞は、まさに童舞であった。二人は丹波小子(たんばのわらわ)焼火小子(ひたきのわらわ)と呼ばれる牛飼童子、馬飼童子に身をやつしていた。

 このとき詠われた寿詞は「旨酒(うまさけ)餌香(ゑか)の市に直似(あたひ)て買はぬ、手掌(たなそこ)もやららに拍ち上げ賜はね吾が常世たち」である。意味するところは「この美味しい酒は、餌香の市で金を出しても買えない酒ですよ。(この美味しい酒を召し上がって)手の音もさわやかに拍子をとって下さい。わが御年寄りたちよ」である。勧酒の寿詞であるが、呪術的なものではなく、餌香の市の酒と比較した現実の新酒に対する、宴席の祝言であった。

 その比較された餌香の銘酒とは、餌香の市辺で渡来系の人々によって造られていた酒である。その舞とは、餌香の市辺で渡来系の人々によって舞われていた舞である。ということは、この舞は渡来系の人々によって伝えられていた酔胡楽(すいこらく)すなわち胡飲酒(こんじゅ)であろう。別名を宴飲楽(えんおんらく)と言い、隠岐の蓮華会で言えば「ゆんおん」である。桴(ばち:酒の杓となるもの)を採って舞う酔舞である。それは続く採桑老(あるいは太孤父)の舞を導くものであった。「三十にして情まさに盛んなり、四十にして気力微(かすか)なり、五十にして衰老に至る、六十にして行歩宜(よ)ろし、七十にして杖に懸(よ)りて立つ、八十にして座して巍々(ぎぎ)たり、九十にして重病を得、百歳にして死を疑うこと無し」という老人の舞である。常世(老人)たちへの受けを狙い、舞われたのである。

 童子舞は、いとけない者が舞うゆえに、その祝宴の場には神が降臨する。舞人とは憑坐(よりまし)で、ここに神が憑依する。丹波小子、焼火小子の童子舞は、神の恩寵を招き、帝権を引き寄せる話だった。童子舞とは、すなわち祝祭の舞、喜悦の舞、招福の舞なのであった。

 

⑤牛飼の童

 童子は祝祭において踏舞および踏歌する。獅子児の舞は、獅子のいない地方では、牛飼や馬飼の童子舞となる。丹波小子、焼火小子の如くである。牛飼童子は口取り役として牛を牽く。その行列のありさまは、葵祭(賀茂祭)などに見るところである。京の大路を進む祭列に、赤い服を着た二人の子供が牛車に添う。その昔、貴族の牛車を牽いた牛飼童子である。祝祭を通して、精神の心奥まで牛と牛飼の関係は進む。禅の教えを説く「十牛図」は、牧童(土牛童子)と牛の関係を十段階に分け、精神の心奥を比喩的に示している。

 牛と牛飼の関係は、獅子と獅子児の関係にも連なっている。獅子とは、畏怖させる威力を周囲に放射するものであり、獅子児は、それを制御する。だが制御するばかりではない。牛飼は牛の牛力を最大限引き出す者でもある。それゆえ、その扱う牛は力強い駿牛が求められることにもなる。鎌倉時代には「駿牛図」という牛の似絵までも流行する。隠岐の「牛突き」神事の如き、牛力の供覧である。奈良の菅原天満宮(奈良市菅原東町)では「御田植祭」で、やはり牛力の供覧が行われる。大きな牛面を着けた土牛童子が登場し、鋤で土を起こし、肥を施し種子を撒く。

 土牛童子は、寺院の雑用をする堂童子や、鳳輦(御輿)を舁ぐ八瀬童子と同じく力者である。『徒然草』114段には賽王丸という牛飼が登場するし『菅原伝授手習鑑』にも牛飼舎人の梅王、松王、桜丸の三兄弟が登場する。彼らは膂力のある成人である。伝教大師以来、叡山の高僧たちは、八瀬童子に牛車を預け牛を飼わせた。牛と共に力者として使役した。八瀬は都の丑寅つまり鬼門である。その鬼門に棲む力者ゆえに、八瀬童子は「鬼の子孫」と異名を取る。そして土牛童子も、また力役を果たす牛鬼であった。喜悦の折には鬼舞を舞う。追儺の鬼は、この土牛童子である。鬼役をする仮面劇と深く関わっている。