隠岐の相撲(27)

第Ⅲ部、隠岐の舞相撲

第7章、武闘の舞(Ⅲー7)

 ①演武の勇壮舞(Ⅲ-7ー①)

 ②五方獅子舞(Ⅲ-7ー②)

 ③破陣の舞(Ⅲ-7ー③)

 ④被り物の舞(Ⅲ-7ー④)

 ⑤龍王の舞(Ⅲ-7ー⑤)

 

①演武の勇壮舞

 隠岐の蓮華会では、眠仏之舞、獅子之舞に続き、太平楽之舞が舞われる。太平楽項羽と劉邦の「鴻門の会」における項荘と項伯の剣舞を模した舞と言われる。また武将太平楽とも言い、唐の太宗の功業を伝える武舞とも伝える。あるいはまた古代中国の戦士舞、武将破陣楽とも言い、戦闘の陣形が変容するさまを形取ったものとも言う。宮内庁の楽部演奏や四天王寺聖霊会で舞われる太平楽は、壮年男子が甲冑装束に脛当脚絆を着け、太刀を佩き鉾を持つ姿で、重々しい勇壮な舞である。

 『続日本紀』大宝2年(702)1月15日「西閣に宴す。五常、太平の楽を奏り歓を極めて罷む」とある。太平楽五常楽と並び、古くから舞われていた。王朝の相撲節会でも、太平楽は左右近衛府の武威を示すものとして、また太平の世を維持し護るものとして、舞われていた。

 太平楽は、実は獅子舞と深く関わっている。唐の杜佑の記す『通典』坐立部伎の条に「太平楽、亦之名を五方師子舞と謂う。師子摯獣(荒々しい獣たる獅子)は、西南夷天竺師子等の国に出づ。毛を綴りて衣と為し、其の俯仰馴狎の容(かたち)を象(まね)る。二人の蠅払いを持ち、習弄の状を為す。五師子各々其の方色に依り、百四十人太平楽を歌い、抃(てをう)ちて以て之に従う。服飾は皆崑崙(こんろん)の象(おもむき)を作(な)す」とある。

 太平楽とは、その昔、五方獅子舞であった。蠅払いを持つ獅子あやし(口取り役)二人に導かれ、五匹の獅子が五色に彩られて登場する。その後を百四十人の隊列が続き、手を打ち太平楽を歌うというものである。これは軍隊の行進儀礼、歌われた太平楽とは、その行進曲(マーチ)ということになる。つまり武闘舞の太平楽とは、祭礼の行列舞で、陣形を作りつつ舞うというものであった。

 『史記』列伝に「孫子姫兵を勒す」というのがある。宮中の美女180人を孫子の指揮の下に、前後左右に自在に動かすというもので、兵法の何たるかを呉王に示したエピソードである。大勢の舞人を自在に動かすマスゲームのはしりであるが、140人の太平楽とは、まさにこれであった。

 

②五方獅子舞

 太平楽とは、太平の世を維持し護るための演武の舞である。それは五匹の獅子が舞う勇壮な五方獅子舞からの展開で、その獅子舞たるや西方を起源とする。

 段安節の『楽府雑録』亀慈部にも「戯に五方獅子有り、高さ丈余、各々五色を衣る。一獅子毎に十二人有り、紅の抹額(はちまき)を戴き、画衣を衣、紅の払子を執る。之を獅子郎と謂い、太平楽曲を舞う」とある。やはり五色に彩られた五匹の獅子がいて、その獅子郎(獅子の口取り役)が太平楽を舞う。一匹の獅子を動かすのに十二人を要するとは、かなりの大獅子である。

 今日の中国の獅子舞に、このような大がかりなものは無い。あるのは獅子頭を竜頭に変えた巨大な龍神の舞である。獅子舞の方は、二人立ちの「太獅」と一人立ちの「少獅」が残っているだけである。

 五方獅子舞と称する雅楽太平楽は、今、舞人は四人、獅子面を着けず素面である。その装束は袍袴に鎧兜、肩喰、帯喰、魚袋、胡簶、籠手、脛当をつける。この肩に当てる肩喰に、かつて獅子舞であった頃の名残りとして、小さな木製の獅子頭が残る。四人舞の太平楽とは、かつては四頭の獅子舞であったろう。五方獅子舞とは、この四頭の獅子が一頭の大獅子を囲む舞ではなかったか。それはさらに遡れば、獅子と四人の獅子郎(獅子児)による舞ではなかったか。中央と周囲四方、この五方に陣形を作り、その陣形を自在に変容させ、巧みに舞うというものである。それすなわち破陣楽である。

 

③破陣の舞

 五方に陣形を作り、それを縮小させ拡大させ、右旋回させ左旋回させ、また進ませては退かせる。そして陣形を開いては、また閉じると、様々に展開させ変化させる。それが破陣の舞である。実際の戦闘隊形を模するもので、五破陣楽(陪臚破陣楽、散手破陣楽、武将破陣楽、秦王破陣楽、皇帝破陣楽)として知られる。陪臚破陣楽は四人舞、散手破陣楽は一人舞、武将破陣楽は四人舞、秦王破陣楽は四人舞、皇帝破陣楽は六人舞と、様々であるが、いずれも勇壮な武人の舞である。鎧兜に身を固め、太刀を佩き、鉾や楯などの武器を持つ武闘の舞である。

 獅子舞には獅子頭一つに二人が関わる二人立ちの舞と、獅子頭一つに一人が関わる一人立ちの舞とがある。破陣楽は個々の武人が各自、獅子奮迅の働きをするゆえ、これは獅子の一人舞に該当する。

 青森県十和田市の南部切田神楽では「五方堅め獅子」があり、やはり五頭の獅子が一緒に舞う。早川孝太郎により紹介された愛知県奥三河の「花祭」では、五方舞の鬼舞が舞われる。また関東地方を中心に東日本では三匹獅子舞も舞われる。大道芸として有名な角兵衛獅子(越後獅子、蒲原獅子)も一人立ちで、数人による獅子舞である。この獅子頭には錏(しころ)が付いていて、武人が兜を被っていたことを偲ばせる。

 だが日本の一人立ちの獅子は、獣肉の宍(しし)の恩恵に預かる祭事も紛れ込んでいる。獅子舞ならぬ宍舞(ししまい)は、猪舞(いのししまい)や鹿舞(かのししまい)であり、それが三匹の獅子舞(男獅子、女獅子、子獅子)になったり、群れ成す獅子舞(六人舞や七人舞)になったりする。本来の獅子舞(渡来の獅子舞)と、この宍舞からの獅子舞(土着の獅子舞)とを、よくよく見定めなければならない。

 

④被り物の舞

 獅子頭をしっかりと被る大獅子が獅子舞として独立に舞うには、その重い獅子頭を操る前足役と共に、胴体を操る後足役が必要となる。これが二人立ちの獅子舞である。獅子頭は余りに重いため、隠岐の獅子舞では、途中で前足役と後足役が交替する。また数人で一匹の獅子を演じる「むかで獅子」もある。

 一人立ちの獅子舞で、その被り物が兜に変われば、もう破陣楽である。舞人は獅子頭以外、龍や虎や鹿や鷲や鷹などを象った被り物で舞う。隠岐太平楽之舞で言えば、そのような被り物は鳥兜である。そして龍王之舞では、被り物は龍頭である。流伝の間に、被り物は様々な形に変貌を遂げる。そして舞自体もまた様々に変貌を遂げる。

 動物の被り物の舞は、今も各地に残されている。例えば岐阜県不破郡垂井町の南宮神社には「竜子舞」が、岩手県陸前高田市には「虎舞」が、福島県会津若松市には「猪舞(彼岸獅子舞)」が、また東北諸県には「鹿踊り」が、それぞれ独特の被り物と共に伝承されている。

 人が他者と区別されるのは顔があるからで、この顔を隠し他者に変身する道具が被り物ということになる。被り物を被ることで、美女にも老人にも、道化にも英傑にも、神にも怨霊にも、いや動物にさえなれる。どんな架空のものにも、さらに所作が加われば、それに伴う感情さえも表現することができる。舞台の上では、もう世界が変わり始める。しかも観客は、そこに入り込める。これは大変なことであった。死屍累々の戦場に立ちつくす場合もあれば、宮廷の玉座の間にも入り込む。血の池地獄に浸かるとみれば、極楽の蓮台の上にも立つのである。舞台演芸とは、まさに時空を劃する存在であった。

 

龍王の舞

 戦いの舞の最たるものは、龍王之舞であろう。国分寺蓮華会舞では、麦焼之舞の次に舞われる。昇竜の面を被り、戦いの士気高揚を図る舞である。雅楽蘭陵王で、羅陵王あるいは略して陵王とも呼ばれる。余りに眉目秀麗であったため、戦いに臨み敵を畏怖することができず、常に金色の恐ろしい形相の仮面を着け戦場に赴いた北斉の王、蘭陵王長恭の伝説に基づき作られたという。

 龍王の舞は武闘舞の典型で、戦いの前に舞う戦勝予祝舞である。相撲節会では、取組前の厭舞(えんぶ)として舞われた。厭舞とは場の浄めの舞で、その天地を鉾で厭(はら)い、天地の悪霊(魑魅魍魎)を鎮めるという舞である。それゆえ振鉾とも称される。舞楽の「振鉾」は鳥兜で鉾を持つ舞人が、左右から登場し、中央で舞を舞う。だが龍王の舞は一人舞いである。

 この舞曲は天平年間(729~49)林邑の僧(仏哲)により将来された林邑楽とする説もある。7世紀頃、東南アジアで盛行していた印度神話に基づく古劇「ナーガーナンダ(竜王の喜び)」が起源だとする。宿敵ガルーダ(鳥神)との攻防の中での復活の舞、武闘舞だという。またラーマーヤナに登場する猿王ハヌマンの活躍、その猿面舞踊の異伝とするものもある。やはり武闘舞である。蘭陵王動眼、吊顎、鮮やかな赤色の装束は、東南アジア、南アジアで用いられる仮面や服装に類似するからである。

 北伝か南伝かは不明だが、ともかく日本へは大陸の唐を介して伝わった。正倉院宝物の中に「唐古楽羅陵王接腰」と記す断片が残る。宝亀11年(780)に書かれた『西大寺資材帳』にも、唐楽用具の一つに羅陵王のことが載る。この陵王は龍王にも解され、いつしか八大龍王の中の沙羯羅(しゃがら)龍王を象ったもの、雨乞いの対象(降雨神)にもなっていく。『嘉元記』には、正和4年(1315)8月から9月、雨が少なかったので、法隆寺で陵王を舞い、雨乞いを行ったとある。そのような祈りは、当然、地方へも波及し、やがて陵王(龍王)を舞うと雨が降ると信じられていく。武闘の舞は、いつしか雨乞いの祈願舞に、豊饒の祝祭舞になっていく。