第Ⅲ部、隠岐の舞相撲[第9章、左右の秩序舞]

第9章、左右の秩序舞(Ⅲー9)

 ①秩序確立の舞(Ⅲ-9ー①)

 ②左右の判定(Ⅲ-9ー②)

 ③左右の力(Ⅲ-9ー③)

 ④左右の対立(Ⅲ-9ー④)

 ⑤左右の相撲(Ⅲ-9ー⑤)

 

①秩序確立の舞

 古式相撲は闘技というより儀式である。奉納相撲には、まだ闘いの要素は残る。だが、それより古くなると、もう完全に儀礼化した所作ごとであり、倣い覚えた舞である。

 相撲は一般には豊饒儀礼に伴うものと理解されている。近世初期に創設された相撲土俵、近世中期に始まる横綱の土俵入りなど、まさにこの意義を宣揚する。隠岐の「蓮華会」の獅子が立ち向かう旗幟の文字も、確かに国家安康、家内安全、天下太平、五穀豊穣である。だが、これは後の代の捏造で、創られた伝統である。社会秩序、国家秩序、天候秩序を願う言葉は美しい。だが、それは秩序が確立してしまった江戸三百年の平和に基づくもの、その秩序の維持を願い、儀礼を奉納するものであった。

 格闘技としての相撲は、本来、勝負を争うもの、闘うことである。それは安寧や安穏といった言葉とは相容れない。秩序と闘争とでは、その異質性は際だっている。相撲の発祥を考えるとき、このギャップはなかなか埋まらない。そこで年占説や演劇説が提唱される。勝てば実りが約束される。あるいは豊饒の神に勝利を渡し、つまり捧げ、喜んでいただくのだと、苦しい説明が行われる。

 だが闘いとは相手を倒すことに目的がある。当然、武器の帯同と結び付く。だが相撲は身に寸鉄も帯びぬもの、そこで贖罪決闘説や神明裁判説が登場する。諸説が語られる中、やがて武器を持たず裸身で登場する力士に、武装解除と敗北服従の姿が見出されてくる。その結果が、秩序の維持へとつながっていく。

 

 

②左右の判定

 相撲の起源として最初に語られる力比べは、建御雷タケミカヅチ)と建御名方(タケミナカタ)の出雲服属説話である。相撲の祖たる野見宿禰は、出雲から呼び出されていた。天武持統朝の隼人相撲、聖武朝における相撲人の地方からの貢進、全てこれ服属儀礼に他ならなかった。

 相撲節(天覧の相撲)は内裏の紫宸殿前、左近の桜と右近の橘の前で行われる。そこは都の中心、国の中心である。帝を中心とする中華思想の顕現、四方に広がる宇宙的秩序、曼荼羅世界の中心なのである。そこで行われる左右の力の競技とは、帝権の根源、力の秩序の開示であった。判定者は上御一人、善悪、正邪、優劣の全てを判定する。左方が勝者か、右方が勝者か、その決定者こそ、この世界に君臨する神である。

 帝王とは世界秩序の具現者で、国家の全てを総覧する。そして力士とは、その秩序維持に従うものの象徴である。裸身にての毎年の節会相撲とは、服従のさまの模倣と、その再演であった。古代的秩序の具象化と言ってもよいだろう。支配者と被支配者の身分階層の明確化である。秩序の維持を願う王権儀礼において、武装解除し反乱闘争を抑え、この化外の民、辺境の民を、礼に導き、服属王臣化を図るものであった。古い昔から、相撲の儀礼とは、この秩序の形成と維持であった。

 

③左右の力

 さて、左右の意識は、どこから始まったのか。それは手の世界からである。乳飲み子が母の乳房をまさぐる中、己の手の世界が始まっていく。人は二本足で立つ。それは手を大地から開放するためであった。その自由な手の中に、認識する世界が形成されていく。

 手の手たる機能は、両手の五本の指によって営まれる。その各々の関節は、対象の立体像を別々に捉え、その手の中に時空を掌握する。その複合感覚によって、手の中に小宇宙(ミクロコスモス)を理解し、それを通して外部の大宇宙(マクロコスモス)を脳裏に現出させる。すなわち掌(たなごころ)とは「手の心」の謂いで、ここには人の心が載る。

 人間の手の働きを知る上で「把握」という言葉は、たいへん象徴的である。この言葉は「手でものをつかむ」という意味だけでなく「しっかりと理解する」という意味をも含んでいる。

 親指一本と他の四本の指は協調し、水をも受ける容器となる。また対向しては、様々なものを把握し、保持していく。五本の指は数え上げることで、数の概念にも至り着く。「指折り数える」という言い回しである。また両手を合すれば「合掌」として、左右が結ぶ閉鎖空間、内的世界にも入っていく。これが祈りの構図である。

 様々な世界が、手の中で繰り広げられる。「手習い」という言葉の意味は、もともと字を習うこと、習字のことである。だが意味は発展し、学問、修行、稽古などという意味をも持つようになった。人間形成の修行である。それが手の中で行われる。

 そのような手の状況は、釈迦の手のひらで暴れ回る孫悟空を想像して見ればよい。『西遊記』の孫悟空は釈迦の手によって、五本の指の象徴「五行山」に封じ込まれた。囚われの孫悟空は五百年の歳月を経て、三蔵法師に助けられ、修行の旅に出るというものである。手の中には、意のままに行動する自分自身がいる。また容器たる手は、この自分自身を制御し、包み込む。それは大いなる世界、宇宙原理、広大無辺の仏の世界である。その世界の規律に従い、修行する自分自身がいる。すなわち手とは、最初の自分自身であった。

 この自分自身が、左右に分離し、外部へと向き合う。それが左右の手の働きであった。右手の力、左手の力、それが宇宙に開かれていく。横綱の土俵入り、そして力士の仕切り、それは拍手を打ち両手を大きく広げるものである。その広がった手掌の広大な世界を、人は無意識のうちに知る。そして土俵上の力士を見る。右手の力士、そして左手の力士、それぞれを見比べる。果たしてどちらが勝つのか、どちらが強いのかと。土俵上の勝負を見届けながら、左右の手の先に広がる広大無辺の世界、その時空を超えた世界を感知し、おもわず畏怖するのである。

 

④左右の対立

 人は両手を通して、その手の先にある世界を理解する。内部世界(小宇宙、ミクロコスモス)の認識から、外部世界(大宇宙、マクロコスモス)を認識する。すなわち世界秩序の形成は、この両手によって開始される。その最初の秩序形成は、両手左右の分離によって、新たな世界構築へと変容を始める。すなわち自分自身の原始世界から、まず一歩、外へと飛び出すのである。それが右手の世界と左手の世界で、対立する新たな世界の認識である。それは「対なるもの」の世界、二元性という普遍的な原型の姿を取る。

 左右は同じ動きと同じ感覚を持つが、それぞれ異なった動きもするし異なった感覚も持つ。すなわち類似性と異質性を兼ね備えた左右の意識である。ここには相互に引き合う結合力と、対立する反発力とが、同時に存在する。その結合と分離とが繰り返される中で、大いなる宇宙形成が進行する。すなわち自己を分離することで、結合内部のものを外部へと解き放つ。その分離が分離のままで競い合い、さらに分離を繰り返す。一なるものは二となり、二なるものは四となり、四なるものは八となり、八なるものは十六となる。かくして対なるものは、秩序の中に次々と、序列化、階層化を生むのである。

 この二元性からなる生成の連鎖が、世界を構築する。それは一個の人間の中にも、一集落の中にも、一国家の中にも、構築されるものである。宇宙創成神話において、最初に双子の神や、一対のペアが生まれ出る例が多いのは、ここに原因がある。『聖書』におけるアダムとイブ、『古事記』におけるイザナギイザナミ、中国神話における女媧と伏義、エジプト神話のイシスとオシリスヒンドゥー神話のシバとカーリーなどである。その対なるものの葛藤と競争とによって、世界は秩序を作り、さらに進展する。

 『聖書』のカインとアベルヤコブエサウ、『古事記』のアマテラスとスサノオ、海幸と山幸、ローマ建国のロムルスとレムス、中国神話の黄帝と蚩尤、エジプト神話のホルスとセト、ペルシア神話のアフラマズダとアーリマン、アステカ神話ケツァルコアトルとウィチロポリトリなどである。左右に始まる二元性原理は、ここに天地陰陽の対立、勝敗優劣の対立、生死老若の対立、男女愛憎の対立、強弱巧拙の対立、大小重軽の対立、等々を次々に生み出してくる。そして世界の序列化、階層化を進展させ、ここに壮大な体系を構築する。

 

⑤、左右の相撲

 相撲の場は、宇宙的な疑似左右相称のイメージを、そのままに再現する。葛藤と競合、分離と融合、模倣と転換、破壊と豊饒など、ここに不可思議な生産性を発揮する。

 相対する力士は、ギリシァ神話のカストールとポルックスの如き「双子の神」、蜜迹金剛と那羅延金剛の如き「仁王(二王)」にもなぞらえられる。互いを互いの分身として、共鳴しつつ競合し、互いに力を発揮する。そして互いに、向き合う他者、類似する他者を通じて、自己を発見する。互いが互いの分身なのである。

 だが分身は分身として、力の消耗と崩壊の危険性をも孕む。秩序が維持されるためには、その分身に転換や変容を余儀なくさせる。そして分身は置き換えられた代理となり、究極の形式として犠牲物にも至り着く。即ち供犠である。償いの道具、身代わりとなって傷ついたり、殺されたりする犠牲者となる。

 だが、そもそも至高の存在とは、自己犠牲によって世界を成り立たせるものである。キリスト教世界が、キリストの自己犠牲から発し、殉教者の存在が、その維持発展に貢献したように、犠牲こそが秩序を成り立たせ、秩序のほころびを埋めていく。『金枝篇』のネミの司祭者は、殺されるために存在する立場であった。それが王というものである。ダモクレスの剣の下こそが玉座なのである。剣の下なればこそ玉座となる。そのような犠牲者の話は、世界の成り立ちの基礎となる宇宙創生神話の全てに認められる。『古事記』のオオゲツヒメや『日本書紀』のウケモチの説話、中国神話の盤古説話は、その典型的な例である。

 左右の力の発露によって世界の秩序は始まっていったが、そのほころびを償うのは、常に支配者の分身たるもの、スケーブゴートとしての双子の神の一方である。日本武尊が斃れるのも、彼が双子の一方だったからである。それはカインとアベルの話と同じである。アベルは殺されなければならなかった。双子の兄弟の葛藤の結果、一方は勝ち、一方は負ける。それが秩序の維持につながる。

 王権を成立させるためには、体制は聖と俗とに二分される。すなわち帝王と奴隷である。そして帝王の帝権を維持させるためには、奴隷は死なねばならない。すくなくとも仮死を演じなければならない。それが相撲儀礼の本質である。勝者は帝王の模倣であり、敗者は奴隷の模倣なのである。そのような体制が維持されるよう、儀式が執り行われる。相撲の本質を葬送儀礼に置く理論もあるが、それも結局は、あの世にまでも、この現体制(秩序体制)が永続するよう祈願するもの、やはり秩序儀式の一つに過ぎない。相撲とは、この秩序の表示、この秩序の象徴なのである。