隠岐の相撲(30)

第Ⅳ部、隠岐の原相撲

第1章、普遍の相撲(Ⅳ―1)

 ①原っぱの遊び相撲

 ②力の伝承

 ③力の鍛錬

 ④力の競技

 ⑤素手の格闘技

 ⑥相撲のルール

 

①原っぱの遊び相撲

 子供は子供同士、相撲を取って遊ぶ。原っぱに、円く土俵の線を引いて遊ぶ場合もあれば、土俵を引かなくて、ただ四つに組んで押し合ったり、投げ合ったりする。それも相撲である。原っぱで相撲を取るので原相撲という。原に芝が生えていれば芝相撲、草だと見れば草相撲である。隠岐のあちらこちらで、少年たちが、いや青年たちや大人たちも、この原相撲を取っていた。子供ながらに、大人たちのそれを真似、しっかりと四つ相撲を取っていた。これは真似相撲で、遊び相撲である。力を試し、わざを試す、相手との駆け引きを試すのである。

 隠岐は原相撲(芝相撲、草相撲)の盛んなところ、大人たちも野良仕事の合間に、山仕事の合間に、浜仕事の合間に、土堤や原っぱや砂浜で、それぞれ相撲をとっていた。皆、相撲が好きである。相撲を取るのも、そして見るのも、また応援するのも好きだった。もちろん相撲遊び(力の遊び)をするのも好きである。

 この相撲の実体は「力くらべ」である。子供同士で誰が一番強いか、村一番の力持ちは誰か、それが競われていた。毎日毎日の遊びの中で、そして四季折々に、そして年ごとに、この原相撲は行われ、力者は世代交代する。子供遊びで一番強いお兄ちゃんも、やがて子供遊びの群れから離れ、若者宿(青年団)へと入っていく。かつての村一番の猛者も、やがて杖付く老人となる。だが次々と力強い若者たちが育っていく。それが村の活気を呼ぶのである。

 子供たちも大人たちに倣い、子供なりの「力くらべ」をする。力を鍛え、力を貯え、そして、その力を試すのである。大人たちも、そのような子供の向上心を育み、胸を貸し、相撲の相手をする。「さあ押せ、もっと押せ、もっともっと押せ」と。そしてわざと押され、負けてやって、誉めてやっていた。遊び相撲の喜びがここにある。

 力の競い合いは、大人や子供たちばかりではない。隠岐には「牛突き」と称する原っぱの牛相撲(闘牛)がある。牛同士の力くらべで、自分の育てた牛が、どれくらいの力量を持つのか、他家の牛と競わせてみる。その大会が一年に一度、八朔(旧暦の八月朔日)の頃に行われていた。これが八朔祭の牛突きである。集落を挙げての応援合戦が繰り広げられる。それは娯楽としての力くらべ、動物を介する遊び相撲である。

 

②力の伝承

 力自慢の話、力を競う話は、全国のどこにでもある。もちろん隠岐にも幾つかある。そのうちの一つ、隠岐島前の説話を紹介しよう。

 中ノ島に宇受賀(うすか)という所がある。ここに宇受賀ノ命という神が住んでいた。この神は宇受賀を中心に、中ノ島を領治していた。海を挟んで向かいの島に宇賀(うが)という地がある。ここに美しい姫神が住んでいた。名を比奈麻治媛(ひなまぢひめ)という。宇受賀の神はこの姫神に恋をし、結婚を申し込む。だが姫神から、なかなか良い返事が貰えない。それもその筈、この比奈麻治媛に、西ノ島の美田(みた)に住む大山の神も、また結婚を申し込んでいた。二人の男神に同時に結婚を申し込まれ、困り果てた姫神は、二人で力くらべをし、勝った方に嫁ぐと約束した。そこで宇受賀の神は大岩を中ノ島から西ノ島に投げ付けた。大山の神も同じく大岩を西ノ島から中ノ島へと投げ付けた。ここに天邪鬼といういたずら者がいて、その時、そっと大山の神の袖を曳いてしまった。その結果、大山の神が投げた大岩は中ノ島に届かず、途中の海に落ちてしまった。一方、宇受賀の神が投げ付けた大岩は、西ノ島の海岸に見事に届いた。こうして宇受賀の神が勝利することとなり、比奈麻治媛を娶ることができた。しかし大山の神は残念でならない。今一度、山の樹木を賭けて勝負を挑んだ。大山の神は焼火(たくひ)の山の榊を賭け、宇受賀の神は家督(あとど)の山の榊を賭け、再び大岩を投げ合う勝負を行った。見ていた天邪鬼は、今度は宇受賀の神の袖をそっと曳いた。その結果、宇受賀の神の投げた岩は途中の海に落ちた。一方、大山の神の投げた岩は安督山の頂上にまで達した。大山の神は「媛の代わりに榊を取った」と叫び、以後、この家督山には榊が生えなくなってしまったという。

 隠岐島後の説話にも、同様の大岩を投げ合う「力の競技」が残っている。穏地郡五箇村における説話で、その苗代田(なわしろだ)村の木生(きなし)神社の神様と、郡(こおり)村の水上(みなかみ)神社の神様の争いである。互いに大岩を投げ合って勝敗を決しようとする。だが互いの岩は、それぞれ水源たる苗代田川と郡川の土手に落ち、勝負は付かなかったという。今でも、この両集落は婚姻を結ばないという。

 説話の現代的解釈としては、宇賀の姫神とはその海域の漁業権の問題で、その権利(入会権)取得を木材で支払ったということであろう。争いの解決に一勝一敗の「力の競技」が執り行われた。それは手打ちの儀式でもあったろう。苗代田村と郡村との争いは水争いで、こちらの方は「力の競技」でも決着が付かず、あとあとまで問題を残したということであろう。

 

③力の鍛錬

 童謡に「きんたろう」というのがある。明治33年(1900)に発表された『幼年唱歌』に載る。作詞は石原和三郎(1865~1922)、作曲は田村虎三(1873~1943)である。

 

   まさかりかついで きんたろう くまにまたがり おうまのけいこ

     ハイシィドウドウ ハイドウドウ ハイシィドウドウ ハイドウドウ

   あしがらやまの やまおくで けだものあつめて すもうのけいこ

     ハッケヨイヨイ ノコッタ ハッケヨイヨイ ノコッタ

 

 金太郎の姿は、五月人形子供の日の童画などで、よく見かけるものである。裸姿で菱形の腹掛けをし、まさかり(大斧)を担ぎ、熊の背に乗るという、元気な少年像である。このような姿がもてはやされたのは、子供が逞しく力強く育つようにと、そのように願う親心によるものである。相撲を取ることは、力の鍛錬になること、それによって逞しい少年に育つと、人々に信じられていた。

 金太郎伝説には様々な話が流布する、だがその大凡の骨子は「山の力者」であったというものである。足柄山の金太郎というのも、足柄山という東海道の最大の難所、その峠道における力者を具体的に指し示すものであった。やがて源頼光の配下となり、その四天王の一人(坂田金時)として、大江山酒呑童子を退治する。これも大江山という山陰道の最大の難所、その峠道における力者(酒呑童子)を抑え込む話である。つまり峠の通行権を握り、その荷運び人足たちを支配下に置くという話である。

 力こそ艱難を乗り越える最大の要素、力なければ何事も達成できない。それゆえ優劣は力によって定まった、また正邪も力によって定まった、そして国家支配も力によって、力を持つ者の集合によって、定まった。

 そのような力は、一朝一夕に得られるようなものではない。日々の鍛錬によって、その長年の運用努力によって、ようやく得られるものであった。そのような力の信奉が世を覆っていた。力は鍛えよ、そして強くなれと。 それは日本ばかりの伝統ではない。世界の各地で、これは信奉されていた。

 

④力の競技

 相撲の如き素手の格闘技は、世界の各地にある。その名称を追えば、日本のスマイ(スモウ)、琉球のシマ、韓国のシルム、中国のシュアイジャオ(シャンプー)、東南アジア(マレーシアやインドネシア)のシラットなどと、アルファベットで言えば「S系の語彙」が連なる。貝原益軒の『日本釈名』は「すまひは相撲のこえ也。もとより和語にはあらず」と述べている。まさにその通りで、相撲はソウモク、ソモク、スモウと変化したもの、つまり「S系の語彙」を持つ外来語である。

 中国から角觝の文字が入っても『和名抄』が記す通り「角觝、今之相撲也。須末比(すまひ)」なのである。元々「スマ」あるいは「スモ」いや「ス」こそが、この日本の格闘技の語源であろう。だが格闘技自体は人間の存在するところ、どこにでもある。当然、原始社会の日本にも存在した。だが、その格闘技に「ス」の名称を与えたのは、文化伝播によるものである。格闘技の衆への披露、つまり衆への力の提示こそ、文化としての意味をなし、この国に伝播した。そして「S系の語彙」として名を残した。

 その伝播形態は、力の舞踏、秩序の舞踏で、それが力の儀礼、秩序の儀礼となり、施政者の力の維持に大いに役立った。では力の舞、力の舞踏とは何か。その初源の舞とはトーテム祭祀に基づくもの、すなわち猛獣の舞、獅子舞である。獅子の名称は、以前に述べた如く「S系の語彙」であった。このことに、もう気付かねばならない。シシ、シーツィ、シーサー、シンハ、シンハラ、シンガ、スリランカなどの名称である。

 相撲の「S系の語彙」は、力の舞(獅子の舞つまりS系の語彙)として、まずユーラシア大陸に発祥し、中国から朝鮮半島を経由し北九州に至った。これが「北伝」説である。これに対し、ユーラシア大陸からインド洋そして東南アジアを経由し北九州に至ったとするのが「南伝」説である。相撲の語源として「素舞」説あるいは「相舞」説などは、日本語を基軸とするもので、日本発祥説である。当然ながら、これは成立しない。だが語源の話は、あくまでも力の舞の伝播、S系語彙「シーツィ」すなわち「ス」の伝播に過ぎず、実質の相撲技が伝わったことを意味しない。それは力の儀礼「ス」の語彙を、ただ写しただけのことである。あくまでも力の競技、実質の相撲の方は、元々日本にも存在していた。

 

素手の格闘技

 素手の格闘技について言えば、これは世界の各地に存在する。先にも触れた東アジアのS系の一群の格闘技がある。そしてモンゴルのブフ、ロシアのバヤゾフ、蒙古族のバリンルドゥ(把鄰勒都)、女真族のバリス(跋里速)、元朝のボク(孛可)、清朝のブク(布庫)と、こちらはB系の語彙が続く。相撲の相の字はソウあるいはスであるが、撲の字の方はボクあるいはモウ(ボウ)で「B系の語彙」である。力の舞の「S系」と格闘技の「B系」の合字(合成語)と読めなくもない。これは「北伝」説を裏付ける。

 だが国の違いは、言葉の違いとなる。そして様々に格闘技は表現される。南印度のムグダーラ、ミャンマーのムカ、タイのムエタイと、こちらはM系の語彙である。相撲の撲をモウと読めば、これは「南伝」説の補強となろう。

 ユーラシア大陸を西へ進めば、アルメニアのコホ、アゼルバイジャンのクレッシュ(グレッシュ)、ウズベキスタンのクラッシュ、タジキスタンのカウ、カザフスタンのクレス、イランのコシティ、北印度のクシュティ、トルコのクルクプナル(カラクジャク、グレシュ)と、こちらはC系(あるいはK系、G系)の語彙として表現される。

 さらに西に行けば、オーストリアのランゲルン、スイスのシュビンゲン、アイスランドのギリーマなど、もう、その名称は様々となる。アフリカのセネガルではブレ、コートジボアールのダン族ではゴンである。相撲に類似する素手の格闘技は、世界の各地に存在する。スーダンのヌバ族にも同様の格闘技がある。オーストラリアのアポリジニーにも、カスキモーにも、さらには新大陸、南米のアマゾン川流域のインディオにも、同様のものは存在する。格闘技は人の存在するところに、自然発生的に始まったのである。

 

⑥相撲のルール

 どこにでもある格闘技、その格闘技にもルールがある。目を突いたり、喉を突いたり、睾丸を蹴り上げたり、指を折ったり、髪を持って引き摺り回したりは、一般には反則技として禁止されている。それを敢えて行えば、当事者の敗退が宣言される。試合の形式は、素手の格闘技の場合、もっぱら投げによって決着をつけるというのが一般的である。大地に投げ転がされれば、負けということである。

 日本のように土俵があり、試合場の枠規定がなされるのは、世界的にあまり例がない。しかし日本の相撲も、昔は土俵が無かったから、格闘技として見れば、本来、あまり差違の無いものである。すなわち相撲のような格闘技は、人間の存在するところ、どこにでも見出せる。そもそも子供がじゃれあって遊ぶ中に、格闘技の萌芽は見出せる。

 動物の世界を眺めて見ても、じゃれあって遊ぶ中に、格闘技の萌芽は見出せる。遊んでいるのか格闘しているのか、その境界すら明確ではない。そのようなところに、この競技の古さがある。

 このように考えていくと、相撲の起源は、人類の発生以前からあったと見る方が正しいのかもしれない。だがルールを決めて行うという点で、それは人類社会の発生から、と言い直す方が良いだろう。さらに言えば、儀礼相撲の発生は、儀礼を必要とする社会秩序の発生と軌を一にする。すなわち王権の確立と、その時期を等しくする。その王権の儀礼はと言うと、これは確かに伝播する。