第Ⅳ部、隠岐の原相撲[第2章、相撲の発生]

第2章、相撲の発生(Ⅳ―2)

 ①農事儀礼説(Ⅳー2ー①)

 ②年占説(Ⅳー2ー②)

 ③葬送儀礼説(Ⅳ-2ー③)

 ④贖罪決闘説(Ⅳ-2ー④)

 ⑤神明裁判説(Ⅳ-2ー⑤)

 ⑥勝利者権能説(Ⅳー2ー⑥)

 ⑦演劇説(Ⅳ-2ー⑦)

 ⑧見世物説(Ⅳ-2ー⑧

 ⑨変形進化説(Ⅳ-2ー⑨)

 

①農事儀礼

 彦山光三の『相撲道綜鑑』は相撲の意味を農事の儀礼に置く。土俵の四本柱から説き起こし、五穀豊穣を祈願する相撲というものの意味を、彦山は考える。「四本柱を仏教に謂う須弥の四天に該当させ、西北柱を多聞天、東北柱を持国天、東南柱を増長天、西南柱を広目天にしたり、中国式に天の四神に相応させ、西北柱を玄武、東北柱を青龍、東南柱を朱雀、西南柱を白虎としたりすることは、理由もあり価値もあったであろうが、いささか形式に堕し、精神を逸脱した感が深い」という。それよりも農事生産が四季の循環を基調とする天候に支配されていることから、この春夏秋冬を象徴していると見る方が妥当だという。そして「農業国日本にあっては、四季の象気のつねに順調であらうことを切願し、五穀の豊饒を祈念するため、天神地祇とともに、四季を神化してこれを祭るのである。こと生産に関するがゆゑに、渾身のまごころを気力体力の日本的調和の極であるところの相撲によって顕露し、神々の嘉納を冀って神助を仰いだ。民族信仰に基づいた古来の行事が、現在にまで伝存されてゐるのである」という。

 相撲の根本を農事儀礼に置くことの意味は、彦山の説くように重要ではあるが、相撲は日本にだけ存在するものではない。遊牧の民にもあり、漁労民の中にもあり、また同様のものは世界の各地に存在する。

 

②年占説

 柳田國雄の『妖怪談儀』には「古人は腕力と勇気との関係をいまよりも一層深く結び付けて考えて居た。力の根源を自分一個の内にあるものと信ぜずして、何か幸福なる機会に外から付与せらるるものの如く解して居た。石を持挙げて見てその重さ軽さの感覚に由って願い事の叶うか否かを卜したと同様に相撲は又神霊の加護援助が何れの側に厚いかを知らんとする方法の一つであった」とある。

 折口信夫の『草相撲の話』も、古い時代の人々は、現代の我々とは違って「力の強さ」を個人の肉体に属するものとは考えず、何か超自然的な存在の恩恵とみなす傾向があったことを語る。折口によれば、九州の農村では、相撲場は村いちばんの用水のほとりに作られるのが常だった。田の神に扮した若者と、水の神の役をつとめる青年とが、そこで相撲をとった。かれらは裸身に青草をまとって演ずる習慣を持っていたので、いつしか「草相撲」と言われるようになったという。場合によっては本物の人間の代わりに、草人形や藁人形が使われるためしもあったという。行司はもちろん村の鎮守の神主が引き受け、勝負の結果によって、その年の米作の豊凶を占ったのだという。藁人形は占いが終わったあと、海や川に投げ捨ててしまう。単に用が済んだというばかりではなく、人々の罪や不幸を祓う道具として水に流された、と説明を加える。

 なかなか良くできた説明ではあるが、何かはぐらかされた感じがする。そもそも神観念が始まるより以前に、動物のじゃれあう中にさえ、相撲の起源はある。

 

③葬送儀礼

 相撲を葬送儀礼と説く識者もいる。神巫が執り行う死穢からの脱却の舞、それは葬送の儀礼舞でもある。『日本書紀』皇極元年(642)に記載される百済王子「翹岐」の前で行われた相撲も、そのような葬送の舞であった。

 葬送に関わった、その二人の舞で、死葬の時、屍体を取り扱う仕事に服したものたちの儀礼舞である。彼らは臭気を抜こうと、裸になって水の中に入り、動き回り、身をこすり合わせて洗った。そして身も心も清々しくなって、喜びに舞う。葬礼葬儀に参加した彼らの、浄めを果たしたという証となる舞踊である。

 伊邪那岐イザナギ)が日向の橘の小門という海辺で行った禊ぎとは、そのような死穢を祓う裸の姿である。伊邪那美イザナミ)の腐敗し崩れ落ち、蛆のたかった屍体に接したから、その身を水洗いせざるを得なかった。『魏志倭人伝』に載る葬送の儀礼にも、同様のことが汲み取れる。「始め死するや、停喪(葬るまで服喪)すること十余日、時に當りて肉を食はず。喪主は哭泣し、他人は就いて歌舞飲酒す。已に葬るや、挙家(家人すべて)水中に詣りて澡浴(みそぎ)すること、以て練浴の如くす」とある。腐敗した屍体に十数日も接していれば、臭気は付着し、そう簡単に除去できるものではない。しっかりと汗や垢や汚れを、その身からこすり落とさねばならなかった。その洗い浄めが終われば、いよいよ忌み明けとなる。その清浄さを周囲に公にすることこそが、浄めの舞(葬送の舞)であった。

 

④贖罪決闘説

 相撲を犠牲舞と捉えることも可能である。『魏志倭人伝』によれば、倭人はことごとく顔や身体に入墨し、つまり身を汚し、それで水禽の害を防ぎ、水に潜り魚を捕っていた。彼らは、その裸のままに、みそぎ、はらいなど、聖なる儀式を執り行っていた。

 裸のままに聖なる儀式を執り行う神巫も、儀礼の前は汚らしい「持衰」として、衆の罪穢を一身に被るものであった。頭髪を梳らず、虱を取り去らず、衣服は垢に汚れたまま、肉を食べず、婦人を近づけず、喪に服している人のように過ごす。一旦、不具合があれば、神巫としての犠牲舞を舞う。すなわち髪を落とし、裸になり、入水し、死を以て償う。

 神争いに負ける八重言代主(ヤエコトシロヌシ)の如く、敗者の日本武尊ヤマトタケル)に付き随う弟橘媛オトタチバナヒメ)の如く、山幸彦に負ける海幸彦の如く、溺れる舞、つまり死の舞を舞う。敗北とは汚れであり穢れであり、死を以て償わなければならなかった。

 これらは、いずれも神への贖罪であり、敗北により犠牲となる姿である。フレイザーの『金枝篇』に見る「殺される王」の伝説とつながっている。決闘し勝利すれば玉座へ登り、敗北すれば犠牲となって屠られる、あるいは奴隷となるという姿である。

 

⑤神明裁判説

 足立照也『フィリピンの相撲』によれば、M.ロペスの報告するフィリピンの相撲に、紛争解決の手段として相撲が挙げられている。ルソン島にはポントック族という少数民族が暮らしているが、その人たちの間で揉め事が生じた時、相撲競技(ウン・ウノング)が開かれる。例えば他人のものを盗むといった個人的な揉め事か起こった場合、当事者同士で、この相撲競技を行うことで決着をつける。また二つの村の間で棚田の水利権をめぐる紛争が起こった場合、それぞれの村を代表する者が選ばれ、やはり相撲競技を行う。

 勝負の裁判は、アニト霊という超自然的な存在の判断に委ねる。アニト霊が守護霊として、個人や村(集落)を護ってくれる場合もあれば、そうでない場合もある。アニト霊の判断が間違いであると思えば、またアニト霊と相撲競技を行うといった場合もある。

 日本における神との相撲や、聖書におけるヤコブが天使と相撲をとったことなどと類似する。勝負相撲が神明裁判となるには、ある信仰体系の存在が前提である。つまり勝利とは神(超自然的存在)が勝者に与える加護の証しと見做される文化観念(宗教概念)がなければならない。

 

勝利者権能説

 相撲とは、競技一般がそうであるように、優劣を判別する文化装置である。それを、さらに神を持ち出すことによって、正邪をも判別しようとする。ここには相撲が力士と力士の純粋に生理学的な「むき身の力」の対戦ではなく、力士の背後に控える霊的な力と力の対戦があると考えられている。だから勝負の判定を下すのは神であり、勝利者とは神から神意を賦与される者だとする。そして敗者とは神の意思にそぐわぬ者であった。これが闘審文化(決闘文化)の本質である。

 王者とは神に愛でられるものを指す。決闘の場に身を置き、次々に挑戦を受けても、ただ一人倒れることなく、立ち続けることができるもの、最強の存在である。王権神授説の成立基盤はここにある。王者の前では、全ての人が膝を折り、身をかがめ、頭を垂れ、敗北の姿を呈するのである。その中で、王者のみが、ただ一人屈することなく、頭を轟然と上げ、周囲を睥睨し、その力を顕示する。だから何としても勝たねばならない。また勝ち続けるからこそ王であった。

 勝利した王の姿は、天に向かい聳え立つもの、その頭頂には勝利の象徴たる王冠が、天空を指して燦然と耀く。その王権は、それゆえ永遠に立ち続ける世界樹の如きものとなる。当然ながら倒壊したり、朽ち果てるようなものではない。勝利者は王冠を手に入れ、巨大な権能をその手に握ることとなる。

 源頼朝徳川家康征夷大将軍の称号を得て幕府を開いた如く、選挙戦に勝ち抜いた議員たちは、勝利の表徴(議員バッチ)を手に入れ、政治を左右する発言権を、国会で持つ。そのような議員同士の選挙戦を経て、日本では最後の勝利者が首相となる。この戦いに勝った者こそが、最大の権能を持つ。

 勝利者こそが権能を持つ。それを周囲も、認めざるを得なかった。最手(もて)の称号を持つ者は、土俵における第一人者で、それだけで他を圧した。大相撲で言えば注連縄を張る横綱の存在は破格である。もう土俵の神をも象徴する存在になっている。相撲とは、その勝つことを象徴するイベントである。その勝利を見せつけ、見届ける場こそが、まさしく土俵であった。

 

⑦演劇説

 俵を並べた円い土俵、土俵を覆う神明造の大屋根、その屋根の四方に垂れる四色の房、神主を思わせる装束の行司、また行司から祭主となって執り行う土俵祭、力士が行う力水、四股、塩撒き、拍手、手刀、そして横綱の土俵入り、弓取り式と、これらの一つ一つは、実は近世以後に創り出された様式(相撲儀礼)である。スポーツ的な要素よりも、むしろ能や歌舞伎を見る如き、見事なまでに洗練された様式美が、ここに展開する。

 力士の化粧まわし、大銀杏の髷、鍛え抜かれた裸体など、豪華な能衣装や歌舞伎衣装と比較し、決して遜色は無い。格闘技というより、演劇的(舞台劇的)要素の方が濃いのである。しかも土俵は単なる競技場ではない。四色の房は東西南北を象徴し、これによって土俵は能舞台の如く、世界を表現する演劇空間となっている。

 相対する力士に導かれ、その勝負土俵を見れば、神楽祭場で演じられる神楽世界とも、神の降臨する聖なる天壇にも、あるいは仏の曼荼羅世界や、八百万の神々の座す天界の中心へと変化する。まさに聖なる演劇空間で、飛翔する天空の彼方、幻想の展開する夢舞台なのである。

 そのような美的様式は、確かに近世に至り新たに創られたものではあるが、その形式を在らしめている「聖なる宇宙」観は、遠く奈良朝、平安朝において、宮中で行われていた相撲節会の様式を拝借したものである。さらに言えば、節会相撲を節会相撲たらしめる宮中舞楽、その前代からの伎楽様式を、しっかりと受け継ぐものであった。つまりそれを理想型として受け継ぎ、近世において興行相撲の文化性を高めたものである。

 そもそも相撲と演劇との間に、本来そんなに大きな違いはない。例えば、相撲の初切りは、笑いを誘う狂言とよく似ている。禁じ手と反則とを、わざと繰り返し、場内を爆笑に誘い、挙げ句の果ては箒を持って行司を追い回したりする所作は、まさに喜劇役者のそれである。厳粛なるべき勝負をコミカルに演じ、またパロディー化することによって笑いを誘い、神の心をやわらげ、併せて人々のなごやかな交流をはかっている。

 力士とは明らかに舞台俳優、人気俳優であった。新しい相撲場開きを祝い催される「三段構え」など、古式ゆかしいものも格闘技ではない。それは麗しい舞台舞である。土俵も舞台も、ともに神に捧げ、同時に普通の民も、お相伴のかたちで見物が許されるものであった。

 

⑧見世物説

 見せる競技、見せる相撲、見せる演劇としての相撲は、実は遙かな昔、雄略朝にも遡る。『日本書紀』雄略13年9月の女相撲の逸話に、その淵源を発する。

 猪名部真根という木工の達人が「終日、斧を取り、石の台の上で木を割るが、斧の刃を傷つけることは断じてない」と、かねてから自らの腕を自慢していた。雄略天皇はその慢心を憎み、真根を召して木を割らせ、その目につくところで、宮女を呼び集め、裸にして褌をしめされ相撲を取らせた。その女相撲に気を取られた真根は、つい斧を傷つけてしまった。その結果、天皇に対して不遜な豪語をした罪で、あやうく殺されそうになった。これが日本の史書に最初に「相撲」と記された例である。

 美しくかしずく宮女が争うわけはない。組み手を命ぜられても、嫋々たる手弱女たちである。力業を発揮するわけはない。それは素裸となっての舞、見世物の芸であった。「素裸に褌」という、そのあられもない「素の舞」に、真根は思わず目を奪われ、手元が狂ってしまった。だが見せ物としての素裸の舞、つまり「素の舞」には、まだ先駆者がいる。あの天宇受売(アメノウズメ)の舞である。それは日本芸能の始まりであった。

 女性の美しさを示す素裸の舞は、この雄略朝以後、史書から姿を消す。鍛え抜かれた男の肉体美を示す相撲のみが記されていく。しかし、見世物としての女相撲が消滅したわけではない。明治、大正、昭和の時代にあってさえ、それは存在していた。

 

⑨変形進化説

 伝統とは、長い年月を経たものと言われ、そうとも思われている。たが果たしてそうだろうか。古式ゆかしい大相撲の様式も、その実、近世以降のものである。奈良平安の節会相撲を模し、王朝の過去を参照するもので、いわば新たな伝統の創出である。

 烏帽子狩衣の行司の衣装、神明造の土俵の屋根、裸体に犢鼻褌(たふさぎ)の力士姿、拝領の布帛(化粧まわしや白い捻り綱)など、これらは、かつてあった様式と儀礼を取り込み、新たに再構築したものである。いにしえの儀式を、日々反復して様式化し、衆に供覧することで、特殊な相撲社会を世に展開して見せた。それは立派な伝統の確立である。

 近代以降、現代に至るまで、恒常的な変化および革新が、世界的規模で起こっていた。これと対照的に、社会生活の少なくともある部分だけを、永久不変のものとして構造化しようとする試みもなされてきた。それが伝統の保存というものである。

 日本の大相撲は、過去の文化の一局面を、現代の我々に見事に提示する。例えば、丁髷の髪型で、太刀を佩き、弓を操る。歌舞伎や能などと並び、まさに伝統という名に値する文化の供覧である。その儀礼や象徴の複合体は、過去を参照する視点を作り出し、現代の我々に与える。それは捏造された、架空の、まさに創られた伝統である。だが幻想であるがゆえに、真実を誇張し、今を生きる我々に強烈なインパクトを与える。

 土俵に象徴される農耕文化、その豊饒儀礼とは、江戸期の農耕社会の反映に他ならない。だがそこからさらに稲作農耕の起源にまでも遡る幻想を、いや人類の始原にまで遡る幻想を、我々の眼前に展開する。この挿入された伝統が持つ歴史的な過去とは、遙かな過去に遡るものでもなければ、その過去から延々と続いているものでもない。その間には巨大な断絶が存在する。だがそのようなことは、むしろあって当然のものである。その当然の断絶や、革命や進歩的展開というのは、その本来の定義からして過去を断ち切るものである。その断ち切ったところから、また新たな伝統が始まるというものである。

 相撲は中世の断絶を経験し、そこから大きく飛躍した。近世に至り新たな伝統を創り出し、切断され忘れ去られた古代を、その形式化と儀礼化の過程で繋ぎ、広く深い溝を埋めていった。たとえ歴史的な過去との連続性が、おおかた架空のものだということであっても、この創られた伝統は、古い状況に言及する形を取り、あるいは古様式、古儀礼を反復することによって、逆に過去を築き上げることに成功した。いかなる過去であったかを様々に類推させ、文化的遡及を可能ならしめた。

 相撲社会は、特徴的な自らの活動性と正当性、そして独自性とを確立し、相撲人集団の結束を促していった。だから新しい世、新しい状況に直面しても、この特徴的な伝統と意義を主張し、集団の印象をいっそう深めることができた。幾たびも襲った廃絶の危機を、この相撲社会(大相撲の組織)は見事に乗り切った。そして、その模造の古式相撲を今に伝えるのである。