第Ⅳ部、隠岐の原相撲[第3章、裸身の力士]

第3章、裸身の力士(Ⅳ―3)

 ①裸身の誇示(Ⅳ-3―①)

 ②力の誇示(Ⅳ-3―②)

 ③敗北服従(Ⅳ-3―③)

 ④服従の舞(Ⅳ-3―④)

 ⑤武装解除(Ⅳ-3―⑤)

 ⑥服従の裸身(Ⅳ-3―⑥)

 ⑦服従の力士舞(Ⅳ-3―⑦)

 

①裸身の誇示

 裸身の力士には、鍛え抜かれた肉体の美しさがある。ギリシアやローマの文化は、その筋肉の躍動を殊に顕示する。アポロンの像やヘラクレスの像は、その典型である。

 古代インドにも、同じく裸体の肉体を讃える文化が育っていた。釈迦と同時代のバルダナーマによるジャイナ教などは、そうである。そのもっとも極端なディガンバラ派は、一切を所有しない、衣服さえも所有しない、という宗教上の理想を具現化している。だから裸行派とも空衣派とも称される。暖かい南国で発達した宗教だからであるが、そのジャイナ教の尊像は、裸体で、ほっそりとして優雅である。それを敬虔な信徒たちは拝んでいる。仏教における仏像や菩薩像にしても、衣を纏ってはいるが、その着こなしは、ゆったりとして肌も露わである。力士の裸も南国の風習かと、相撲の伝播は南伝という説の根拠にもなっている。

 インドの仏典には、肌脱ぎになり力を競う格闘技も記されている。釈迦の生涯を記した『本行経』の第十三桷術争婚品の中に、争婚の力比べの話が語られる。釈迦がまだ悉多太子の頃、弟の阿難陀太子および従兄弟の提婆達多と相撲(格闘技)を行い、彼らを投げ飛ばし、優勝したとある。妃を求めるにあたっての試合である。そのような武術を中国(唐)では「相撲」という新語で、この印度経典を漢訳している。また涅槃経にも「力士」という文字が出現する。肌脱ぎし、筋肉を誇示する者たちのことである。

 だが中国というのは、礼を重んじる国柄である。ふんどし一つの素裸で、衆人環視のもとに取っ組み合うのは、彼らの美意識に反していた。だから裸の格闘技も、裸の舞も、この東亜の中心部では普及しなかった。むしろ西戎とか北狄とか東夷とか、貶められる周辺地域に、この筋肉を誇示する格闘技が普及した。

 

②力の誇示

 モンゴルの夏の祭典「ナーダム」では、闘技に参加する力士は分厚い胸板を誇らしげに広げ、両腕をひらひらと翼の如く広げ、踊るような足取りで登場する。また優勝が決まった後も、大鷲の如く両腕両手を広げ、胸を開き、見物人の前を一巡するのが慣わしである。

 これは明らかに神話の鳥ガルーダの飛翔を模倣している。ガルーダは迦楼羅(伎楽にも迦楼羅はあり)もしくは金翅鳥と呼ばれ、翼を広げると三百万里にも達し、途方もないエネルギーの持ち主とされる。北印度や敦煌の壁画によれば、堅固力士、金剛力士の別称もある那羅延天なる神を背中に乗せ、宇宙の端から端へと飛び回っている。この霊鳥はアジアでは、ほぼ全域で愛され、モンゴルへはラマ経と共に入ってきた。力士たちはガルーダの如く「飛天の舞」を演じ、この化鳥の大力にあやかろうとする。

 ラマ経と真言密教とは、もともと親類筋にある。当然ながら日本にも伝えられ、飛翔する天人、奈良興福寺に現存するような天竜八部衆となっていく。また蜜迹金剛や那羅延金剛となって、天界から降り立ち、阿吽の呼吸で仁王立ちする仁王像となっていく。それは筋肉を誇示する姿、力による威圧する姿である。

 

③敗北服従

 大和国家の膨張は、東(東北)にも西(西南)にも向かっていた。この東西の各地には、力を誇示する勇者たち、逞しい力者たちが多数いた。彼らは、その力を恃み、抵抗を続けていた。倭王武の上表文には「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、云々」とある。この自ら武力を誇った雄略天皇のとき、最初の「相撲」が現れる。

 東の毛人は、確かに相撲と関わりがある。柳田國男の『山の人生』には、山男(毛人)と相撲の関係が載る。東北には山男に鍛えられ強くなった男は、沢山いる。山男とは、むろん「まつろわぬ者たち」毛人である。柳田は岩木山麓の鬼沢村に住む弥十郎という百姓の話を紹介する。彼は薪採りに入った山中で大男と知り合いになり、相撲を教わった。この山男は、弥十郎の行う薪集めだけでなく、谷の水を耕地に引く工事までも、力強く手伝ってくれた。それは山の神の化身、山の霊威を身に賦す怪物の話である。こうした話は、津軽にとどまらず、秋田、山形にも、沢山残っている。これら村々の者たちは服従の結果、節会相撲の昔から、相撲人として召し出され、多くの最手(秀手)を排出していた。

 大和国家の征服の鉾先は、この東北へ向かうばかりではない。今一つ西南を目指す動きもあった。隼人の征服がそれである。古代における隼人という呼称には、猛禽にも比すべき動作のすばしこさ、勇猛さがある。こちらの側にも、また大人弥五郎、大人隼人などと呼ばれる巨人伝説が、ふんだんに残っている。その巨人も敗北し、そして服従に至った。

 折口信夫の『ほうとする話』では、海幸彦と山幸彦の争いとは、山から出てきた人々(大和国家)が水辺に棲む人々(隼人国家)を征服した遠い記憶の反映だとする。海幸彦の実名は火酢芹(ホスセリ)で『日本書紀』は彼を隼人の先祖に充てている。そしてその子孫たる隼人は、相撲を盛んに取ったとされる。それが服属の「相撲」であり、その服属の「相撲舞」こそが「隼人舞」ということになる。

 

服従の舞

 九州の南部、薩摩や大隅地方の居住民たちの伝えた舞に「隼人舞」というのがある。奈良時代には朝貢に際し、たびたび宮廷で奏されていた。また国風歌舞の中に「楯伏舞」というのがある。これは楯を伏せる所作をして、服属の誓いを示すものである。

 同じく国風歌舞の中に「国栖舞」というのもある。応神紀19年、吉野宮行幸に際し、国栖が酒を献じて奏した歌舞という。大和朝廷の国内統一過程で吸収された地方歌舞で、やはり服属の舞である。これは天武天皇の殯宮でも奏されている。

 また「久米舞」も、王権に従属した久米部が伝えた舞である。久米歌は記紀の神武東征伝説中に数種収められている。宮廷儀礼としては、元日、白馬節会、踏歌節会などの節会に、また大嘗祭などに奏されるのが常であった。

 これら全てが、敗北服従の再確認で、そのための舞であった。それが宮中儀礼の中で、群臣居並ぶ中で、奏され舞われるのであった。

 

武装解除

 国家形成の過程で、征服されていった諸地方の勇者たち、力者たちは、天皇の前で、裸体になることを強制された。それは公の場で行われた武装解除である。つまり相撲人の裸体とは、身に寸鉄も帯びぬ絶対服従の姿であった。

 日本の古代朝廷は、古代中国の中華思想(自らを中央にして、四囲に、東夷、西戎北狄、南蛮を配置する思想)に倣い、東に蝦夷、西に隼人を配置し、四囲を統治する形式を採っていた。その統治儀式として、年初の正月には、朝賀の儀式が執り行われる。天皇に対し、皇太子以下諸臣が、新年の喜びを奏上する。そして諸地方では、国庁において国司が属僚郡司を率い、都に向かって朝拝の儀式を執り行う。

 新年の朝賀とは、統治権者たる天皇に対し、諸臣、諸地方が行う服属儀礼なのである。そして年の後半の最初、7月には相撲節会が行われる。それもまた諸地方が天皇に対して行う、忠誠を誓う服属儀礼なのである。

 相撲節会では、地方から招集された力者(相撲人)たちが、かつての服従のさまを再演する。武装解除された姿、裸体となり、天皇の前で戦いを再演する。つまり勝負を賭けて力技を披露し、その力戦を競うのである。戦いの末に、敗者は服属するさまを演じ、勝者はその勝利を天皇に捧げる。相撲とは、この戦いの再演、そしてそれに伴う服属の儀礼、そして統治権の確立そしてその確認の徹底であった。

 

服従の裸身

 力士とは、ある特殊な何者かである。東亜の伝統に従えば、裸になり廻し(締め込み)を締めたとたん、普通人とは違う何者かに変身する。天皇や将軍や大名の面前といえども、礼法を無視し、胡座で酒杯を傾けることが許される。それは彼を金剛力士の権化と見做す密教信仰より発している。すなわち大日如来に付き随う者である。

 力士は本名を捨て四股名(しこな)すなわち醜名(しこな)をつけねばならない。大日如来に奉仕するものとして、彼らはいってみれば僧侶と似た立場にある。それは一旦死ぬ立場にあるものという意味である。出世遁世とは、いわば仮の死である。剃髪するというのも、これで、首を刎ねる代用に髪を剃り落とすのである。法名とは生前戒名で、法名を持たぬ僧侶があり得ぬと同じく、力士は醜名を持たねばならない。醜名は力士にとって、力士たるを証明する不可欠の属性である。それは死に際しての戒名と同じで、服従の結果、奴隷の身に落とされ殺されることを、一旦、決意するからである。

 力士は武装解除され、衣服も剥ぎ取られ、身に寸鉄も帯びぬことを、その裸の身を以て証明しなければならなかった。この卑しい奴隷の身は、その卑しさ極まれば、また聖なる神にも転換する。一旦地に屈した力士は、踏み付けられる大地の中で、仮の死を遂げ、やがて地の聖霊にも変身する。それが力士というもの、聖なる力者、神の如き力人である。

 

服従の力士舞

 万葉集に次のような歌が載る。

 

  池上の力士儛かも 白鷺の桙(ほこ)啄(く)ひ持ちて 飛びわたるらむ

                      長忌寸意吉麻呂 (⑯3831)

 

 これは「画賛の歌」で、宴席での絵解き歌と解されている。長忌寸(ながのいみき)意吉麻呂(おきまろ)による「白鷺の木を啄ひて飛ぶを詠む歌」で、宴席にこのような絵が掲げられ、その飛ぶさまを歌にせよと言われたのである。

 この「力士儛」とは、果たして如何様な舞であったのか。節会相撲の原型たる高句麗古墳(角觝塚)の相撲図の如き、巨木(神樹)の下で演じられた「力士舞」の絵であったろう。その巨木には霊鳥(白鷺)が停まっている。それは秩序立った儀礼絵画の一つである。

 だが意吉麻呂は、柿本人麻呂と同時代の人で、持統、文武朝の人である。彼の作風は即興の戯笑歌(ざれうた)である。だから、しゃちこばった儀礼絵画を、そのまま詠うわけはない。「力士舞」を詠った彼の歌は、ひねりを入れ、笑いを取るものと解さねばならない。

 当時「力士舞」なるものが、池上の畔などで演じられていた。それは伎楽の一つ金剛力士の舞で、その名称(演題)は「力士」である。美しい呉女(ごじょ)に懸想する怪物の崑崙(こんろん)を、金剛力士が降伏させるというものである。意吉麻呂の詠った「力士舞」とは、この金剛力士の演劇舞であった。呉女を追う崑崙のいきり立つ男根を、金剛が桙で打ち叩き、その男根に縄を付け、引っ張り回すという卑猥な舞である。「マラフリ舞」とも称されていたから、笑いを取ろうとする意吉麻呂が目論むにふさわしい。

 だが、よくよく考えて見れば、これも服属劇の一つである。怪物崑崙とは、戦いに敗れた力者、なぶりもの、笑いものにされた敗者なのである。彼の振り回す男根とは、彼の凄まじい武器の象徴であった。それを打ち破り、その武器を取り上げ、引き回す英雄(金剛)の凱旋式なのであった。そのような晴れの舞台での勝利舞こそが、この劇の本来の姿である。建御名方(タケミナカタ)と建御雷タケミカヅチ)の相撲の原型を、ここに見る。