隠岐の相撲(33)

第Ⅳ部、隠岐の原相撲

第4章、闘技の起源(Ⅳー4)

 ①素手と武器(Ⅳー4ー①)

 ②闘いによる損失(Ⅳー4ー②)

 ③集団の秩序(Ⅳー4ー③)

 ④秩序の維持(Ⅳー4ー④)

 ⑤闘争と遊戯(Ⅳー4ー⑤)

 

素手と武器

 格闘技の伝統は、どこの国にもある。それはおそらく人類の起源にも遡るものだろう。食料を求め、肉を求め、動物と渡り合う。その格闘猟法の中に、格闘技の始まりを見る。食料を得るため、水を得るため、その他もろもろを人間同士が争うとき、また格闘がある。

 格闘には武器を持って効率よく闘う場合があり、また武器を持たぬ素手の場合もある。相手を倒すには武器の保有が断然有利である。石や棒、弓矢や剣、銃や大砲、戦艦や空母、はたまたミサイルや核である。武器こそが力であった。

 決闘となれば、拳で相手を倒すより、剣で相手を倒す方が有利である。相手が剣を持てば、だからこちらも剣で応じる。互いに剣を持つなら、さらに防御の盾を持つ方が有利となる。相手の剣を防御の盾で防ぎ、自分の剣で盾を持たぬ相手を刺すのである。勝利に拘る限り、武器の優秀性は絶対条件である。如何に相手より優れた剣を保有するか、如何に相手より優れた盾を保有するか、それが重要となる。「矛盾」の語彙は、ここより発する。

 では素手の闘争が、どうして普及するのであろうか。勝利に拘る限り、素手は全く効率が悪い。どんなに切磋琢磨しようと、武器を超えるものではない。武器を駆使して殺し合う現場で、果たして「力くらべ」など、どれだけの意味があるのだろう。多人数で戦う戦争に、また飛び道具の発達した戦場で、どれほど格闘技が役立つことか。それは全く拙劣な闘争方法と言わざるを得ない。

 人類は狩猟と採集の生活を始めてより、武器の開発をその文化の中心に据えてきた。武器こそ「力」そのものであった。強くありたいのなら、武器の使用を心掛け、その技術こそ錬磨すべきである。だから素手の闘争、すなわち格闘技とは、相手を倒すためだに発達してきたものではない。それが普及するには普及するだけの、また別な理由が存在する。

 

②闘いによる損失

 素手の闘いといえば、動物など皆そうである。猿や犬の喧嘩は、当然ながら武器を持たない。人も原始時代、その喧嘩は武器を持たなかったか。いや、よく考えてみよう。ここには言葉の矛盾がある。人が人となったのは、二足直立歩行により、手が自由に使えるようになったからである。その手で道具を手にしたとき、人は人になった。その道具とは、互いに闘うとき、強力な武器となった。

 原初の武器は、自然界に在る石であった。これを握りしめ、相手を打撲するのである。戦場の武器は石である。これで互いに打撲し合うのである。相(あい)打ち合い、相撲(あいなぐ)るということになる。

 直接、殴り合うことも、また遠くから石を投げ合うこともあった。その武器としての価値は絶大であった。石棒、石剣、石槍、石矢と、発達していく。中世に至っても、なお石合戦の記録は多数残っている。その武器による被害は甚大で、戦闘参加者に直接の死をもたらす。もちろん直接死ばかりではない。多数の間接死(臓器損傷や敗血症など感染死)も起こっていた。さらに骨折変形や失明といった障害も発生する。後年にまで続く多大な後遺症を、戦士たちに残していた。互いに生きるか死ぬか、ぎりぎりの戦いである。そのような部族間の争いでは、武器を取っての戦闘が行われた。素手で争う筈はない。

 だが部族内であれば、武器を取って争ってはならない。死者や負傷者が出れば、それは部族自体の大いなる損失である。賢い部族長なら、そのような損失を許すわけはない。しっかりと武器は制限させた。素手の闘いに限定されたのは、この部族社会の権威(秩序)に負うものであった。

 

③集団の秩序

 さて人の集団とは、いったい何であろうか。それは単なる群れではない。確かに人は猿などと同様、群れる動物であるのは事実である。だがその中に、何らかの序列と秩序とがある。すなわち政治的統率下にある共同体ということである。

 部族社会を構成する集団に、この序列と秩序があったからこそ、他の動物集団を凌駕することができた。統率のとれた集団活動が、集団の維持発展に大きく寄与するからである。この集団は、とりわけ人間のそれは、どんな集団であろうとも共通点が存在する。集団の帰属意識「心の拠り所」である。集団の象徴で、それをトーテムという。集団の帰属する所、結束する心情の合一である。集団が自らを狼の子孫、大鷹の子孫などと自覚する意識である。集落から仰ぎ見る山、集落から眺め遣る海、その彼方に共に信じる神が存在するという意識である。またキリストの子、イスラムの子とする信仰の帰属意識である。時代を降り、博愛主義、社会主義、民主主義などの主義や信条も、皆そうである。その大義が集団結束を促す。

 その「心の拠り所」が生活目標を設定し、統制の取れた集団を構成する。この集団を集団たらしめる核の部分を形成するため、集団は集団を動かすトーテム指導者を必要とした。それが王であり、皇帝であり、法皇である。指導者を頂点とする秩序の形成、階層の構築が、様々な集団内でなされてきた。

 

④秩序の維持

 指導者は如何にして決定されるのか。それは集団の中の最強者である。強者たる基準は、腕力だけを対象としない。知力、判断力、指導力、包容力、その他もろもろの総合力で決定される。だがそのような強者は一人だけではない。当然、多数の強者がいる。互いが、その力関係をもとに、互いの駆け引きの中で、指導者に就任していく。すなわち政治的巧みさを以て、集団内の秩序が維持できる者こそ、この指導者となっていく。

 彼は集団を維持するばかりでなく、さらに発展させていかなければならない。そこに指導者としての責務がある。ゆえに指導者は集団が衰退するような指導をは行う筈はない。集団員が死傷するような行動は、当然ながら取らせない。武器を持っての内部抗争などあってはならないし、集団内では起こさせなかった。揉め事に対し、彼は仲裁や調停を行い、平和裡にことを納めていく。その手段となるのが集団内のルールである。集団が集団として暮らしていけるためには、なんとしても集団としてのルールが守られなければならない。違反する者がいれば、秩序維持のため制裁を加えることも必要となる。それでも守られなければ、この違反者を集団から追放しなければならない。その賢い判断と果敢な実行力とが、指導者には不可欠の資質であった。

 集団内では、互いの行き違いから喧嘩になることもある。だが集団内の喧嘩は、あくまでも素手で行われなければならない。武器を携え闘うことは、集団内では御法度である。死傷に至れば、後々まで禍根を残す。関わる係累があり、関係者が多すぎる。集団の秩序を維持できなくなる。

 

⑤闘争と遊戯

 闘争とは、いったい何か。それは衝突ということであろう。動物の闘争、例えば引っかいたり蹴ったりする二羽の雄鶏、吠え合い噛み合う二匹の犬、角や頭を突き合わせる様々な動物たち、その有様を見てみればよい。だがこの闘争も、同種の場合、互いに殺し合うところまでは進まない。時には咬み合い、負傷することもある。だが、その多くは角を向けたり、牙を剥くという威嚇だけで終わってしまう。優劣が付けば、それで済む。勝者は追い払うだけ、そして敗者は逃げると、動物でも暗黙のうちにルールを作り上げている。

 闘争と見える場合も、その実「じゃれ合っている」ことも多い。よくよく見れば、闘争を真似た遊戯であると、そのようなことが観察できる。動物とはいえ、互いの力を試し、闘争を楽しみ、それを遊戯化させている。そこには仲間内という精神のコミュニケーションがある。人間の場合も同じである。格闘技とは互いの力の試し合いで、その闘争闘技を楽しむものである。勝敗にも拘るが、それだけのものではない。勝敗に拘る限り、ルールを踏み外し、武器の使用に行き着いてくる。

 格闘技の本質は、闘争闘技を介した仲間内でのコミュニケーションで、つまりルールを踏まえた「闘争の遊技」である。闘争においては、力の威力をそのまま、ただ発揮するばかりのものではない。力の使い方、力の方向性、時には力の抜き方さえも重要となる。相手があるゆえの駆け引きで、それは「自他精神の遊技」と呼び替えてもよいものである。その中では、威嚇したり、耐えたり、逃げたり、強く出たり、弱く出たり、押したり、引いたり、いなしたり、かわしたりと、様々な手練手管が展開する。それは身体的な操作の場合もあれば、また精神的な操作の場合もある。意思を押し通すこともあれば、相手の意思を尊重し譲ったりもする。だましもあれば、ねらいもある。説得もある。賞賛もある。そのような駆け引きの遊戯を通して、仲間同士、仲間内としての秩序が作り出されていく。