山陰沖の歌の語り(3)

第1章、歌語りの発生

 第3節、歌の伝播(1ー3)

 西日本海の沿岸地域、その弥生遺跡から、数多くの土笛(陶塤)の出土を見る。山口県下関市綾羅木遺跡や新張遺跡、山口県豊浦郡菊川町の下七見遺跡、島根県松江市の西川津遺跡やタテチョウ遺跡、鳥取県米子市の目久美遺跡、鳥取市青谷町の青谷上寺地遺跡、京都府京丹後市の竹野遺跡や扇谷遺跡、そして途中ヶ丘遺跡などである。


 楽器としての土笛(陶塤)の遺残とは、これらの土地に、歌語りの痕跡を残すものである。つまり打楽器や弦楽器の存在も前提とする。これら遺跡を結ぶものとは、つまり土笛の文化を繋ぐものとは、リズム・メロディー・ハーモニーの揃う音楽文化の交流であった。それは歌の語りを持つ生活文化の交流に他ならない。生きるための文化で、互いに力を合わせ、創意工夫を凝らし、喜びをもって働き続けた。その中で、人と人と

をつなぐ産業が生まれ、人々の協調の中で広く深く育っていった。生活物資の移動があり、そこに関わる人々の会話、言葉の掛け合いの中で、生まれ出る感情(喜怒哀楽)があった。その感情を歌に託し、歌の掛け合い、歌の語りがなされ、そして共有されていった。
 共有される歌とは、まずは生活の歌である。子供が歌う「わらべ歌」も、子供なりの生活の歌で、身近な日々の歌、遊びの歌である。大人であれば、生きるための労働の歌、創意工夫の歌である。

 

      二柱の神 天の浮橋に 立たして

      その沼矛(ぬぼこ)を 指し下ろして 画きたまへば

      塩 こをろ こをろに 画き鳴して 引き上げたまふ時

      その矛先より 垂り落つる塩

      累(かさ)なり積もりて 島と成りき     (古事記)                        

 

   《歌意》二柱の神(イザナギイザナミ)が天地を往復する浮橋の上に立ち、   

     沼矛を指し下ろし、漂うこの国を掻き回した。そして引き上げた時、

     矛の先から塩が滴り落ち、凝り固まっていった。それが重なり積もり、

     島となった。

 

 天地を往復する浮橋とは、天(海原)と地(土地)とを結ぶもの、地平線の彼方へ向かう船乗りたちの海路(航路)のことである。途上の港には、それぞれ塩の貯蔵庫があった。塩作りの情景とは、濃縮された海水(鹹水)を、ひたすら煮詰める作業である。「塩、凝りよ、凝りよ」と製塩歌を歌い、製塩道具で掻き回すものであった。出来上がった塩は、塩俵、塩干物、塩漬品となり、港の倉庫(塩倉)に積み上げられていく。需要の多い商品となり、地域国家を成り立たせる重要な交易品であった。塩のみならず各種の生活物資が、また船に載せられ運ばれていく。ここに物資移動の荷運び歌が、舟積みの歌が、櫓漕ぎの歌が、そして海原を行く舟歌が、波に揺られ、風に煽られ、歌われてゆく。入船における出会いの歌が、出船の折の別離の歌が、船乗りたちや港の関係者たちによって、次々に歌われていく。それが海(あま)の語り歌である。それは人々が生きるための歌、這いつくばってでも生きるための歌である。生存のための共感と協調、そして感激の歌が、こうして生まれ出る。

 

      この蟹や 何處(いづく)の蟹

            百傅ふ 角鹿(つぬが)の蟹

      横去らふ 何處に至る

            伊知遅(いちぢ)島 美島(みしま)に着き

      鳰鳥(にほどり)の 潜(かづ)き息づき

            ‥‥‥‥            (古事記

 

    《歌意》この蟹は、どこの蟹か。遙か遠方の敦賀の蟹だ。

        横這いで、どこへ行く。伊知遅島や美島に着く。

        鳰鳥が水に潜って苦しい息使いをするように、

        (蟹も苦しい息使いで、この旅をしてきた)

 

  労働歌でありなが、歌の掛け合いとなっている。自問し自答するという、一人で歌う掛け合いである。あるいは音頭取りと聴衆と、そのような掛け合いもあったかもしれない。その掛け合う妙味に、歌う人も聞く人も、ただ酔いしれていた。