山陰沖の歌の語り(4)

第1章、歌語りの発生

 第4節、交流の歌語り(1ー4)

 八千矛神が座す古代出雲は、水陸の要地であった。神門の水海、宍道湖、中海と、出雲を東西に貫く内海により、ここでは安全な水上交通路が開け、栄えていた。

 出雲の内海、その西端には三瓶山が聳え、東端には大山が聳える。また内海中央を囲む形で、四つの霊山(意宇郡の茶臼山、秋鹿郡の朝日山、楯縫郡の大船山、出雲郡の仏教山)があり、それぞれを海上から仰ぎ見ることができる。日々の海仕事において、常に方向性と距離感が確保できたから、ここは安心安全の海であった。だから、この意宇(おう)の海は、出雲人にとっては「母なる海」であった。

 意宇の海を出発し、美保の海境(海峡)を越えれば、そこには「北の大海」が広がる。海の冒険者たちは、この北の大海に漕ぎ出し、続く津々浦々を渡り継いだ。『出雲国風土記』国引きの章には、出雲との交流の国々が語り歌われている。北門の国、新羅の国、越の国である。

 北門の国とは、出雲からの北方航路、その北門の位置にある「隠岐の国」である。だから北門の佐伎国(さきのくに)とは、中ノ島の崎(さき)の地を指し、そこから辿る島前一帯をいう。北門の良波国とは宇良波国のことで、宇良(浦の湾入)が廻り続く島後一円を指す。浦姫島、浦姫神社、凪の浦姫伝説など、ここには「宇良の姫神」信仰が残る。

 この北門の国から、さらに北へと航路を延ばせば、その先は半島国家の新羅(しらぎ)である。

 
     楮衾(たくぶすま)志羅紀(しらぎ)の三埼を
     国の余(あまり)ありやと見れば
     国の余(あまり)ありと詔(の)りたまいて
     童女(おとめ)の胸鉏(むなすき)取らして
     大魚(おうお)の鰓(きだ)衝(つ)き別けて
     旗薄(はたすすき)穂(ほ)振り別けて
     三身(みつみ)の綱(つな)打ち挂(か)けて
     しもつづら 繰るや繰るやに 河船の もそろもそろに
     国来(くにこ)国来(くにこ)と 引き来(き)縫(ぬ)える国は
     去豆(こづ)の折絶より 八穂爾(やおに)杵築の御崎なり
                             (出雲国風土記

 

 

  《歌意》楮衾(こうぞを広げて作った夜着)のように白いという新羅の、

   その三崎について、国の余り(余分な土地)が有りはしないかと見れば、

   国の余り(余分な土地)は有ると、そのように神様はおっしゃった。

   乙女の胸のような、豊かで幅広の大鋤を、手に取り持ち、

   大魚の鰓(えら)を突き分けるように、大鋤を土地に突き刺し、こね別け、

   旗のような薄の穂を振り別けるように、土地をばらばらにし、屠り別け、

   三つ身の太綱を打ち掛け、霜枯れの黒蔓を、手繰り寄せるように、

   くるくると、その土地を手繰り寄せれば、土地は来る、来る。

   そこで河船を上流に運び上げるように、ゆっくりと、そろそろと、

   手繰り寄せ、国よ来い、国よ来いと、かけ声を掛けつつ引き寄せる。

   こうして引き寄せ、縫い付けて出来上がった土地が、

   去豆(小津)の折絶(断崖)から、稲穂が数多く実る杵築の岬までである。

 

 海を渡る船は、あたかも大魚の如く進む。その両脇の櫂は鰓(えら)を衝(つ)くが如く、激しい勢いで波を切り裂く。帆は風を受け、大きく揺れた。その旗を振り別け、荷積みの船は、目的地へと進んだ。これは海を渡り継ぐ船乗りたちの労働歌である。商品を持ち帰った末の、喜びの歓喜歌である。船荷は海原を行く大船から吃水線の浅い河船に移され、川沿いの諸処へと運ばれていく。海路および河川における運輸技術、港湾の荷役技術、商品の保管技術、市における取引技術や金融技術などが、それぞれ専門技術として、この出雲の繁栄を支えていた。そのことを示す歌の語りであった。