山陰沖の歌の語り(9)

第2章、水辺の歌語り

 第1節、歌語りの固定(2ー1)

 古い昔、この国に文字はなかった。歌の語りは、ただ歌うだけ、ただ語るだけであった。だから歌は口づてにだけ伝わる。それは互いの記憶の中に留め置かれ、折りに触れては、呼び起こされた。その記憶によってのみ、歌の文化は共有され、貴賤、老少、男女を問わず、広く世に歌われていた。互いに発する唱和の歌は、歓びと共に口々に歌い伝わり、伝播伝承されていった。

 そのような中で、外つ国から、文字というものが伝わってきた。和語を漢字で表記する、逆に漢字を和語に読み変えると、そのようにして、この国の出来事は記録に留め置かれることとなった。記憶から記録へと、そのような文化の流れである。口承文芸を記録に留めたのは、実に時代の画期であった。ここに初めて、揺れ動く歌、揺れ動く語りが、記録によって、不動のものとして固定されていった。

 だが和語を発音通りに書き記す場合、当然ながら漢字を、そのままには使えない。そのため使われたのが借字である。漢字を表意文字ではなく表音文字として、つまり漢字本来の字義とは無関係に、ただ借り物として使われていった。その無秩序、無原則も、様々な文字使いの試みの中で、やがて新たな表現形式として定まっていく。 

 この漢字文化の渡来によって、以後、我が国の文化と外つ国の文化とが混淆し、融合する。だから中国の口承文芸である七夕物語(牽牛と織女の話)も、我が国の神の名と共に、歌に読み込まれるようになる。例えば『万葉集』に載る七夕歌である。これは人麻呂歌集に載る。

 

   八千矛 神自御世 乏孋 人知尓来 告思者     (万葉集2002)


〈釈文〉八千矛の 神の御世より ともし妻 人知りにけり つぎてし思へば 
                        
《歌意》八千矛の神の世、その遠い御代から伝わる七夕物語のように、私には逢うことの稀な、いとしい妻がいる。そのいとしい隠し妻の存在を、もう人は知ってしまった。私が久しい昔から絶えず思い続けていたから。

 

 柿本人麻呂には隠し妻がいた。「妻の死(まか)りし後、泣血哀慟(なきかなし)みて作れる歌」にある通りである。隠し妻ゆえに、時折りの逢瀬、それを人麻呂は八千矛の神の妻問いに重ね合わせた。この八千矛の歌に、七夕を思わせる文字は無い。だが、これは七夕歌であるという。人麻呂は牽牛と織女の妻問いの物語を、八千矛神の妻問い物語に重ね合わせ、そして自らの妻問いの物語に引き寄せ、歌い語った。

 そもそも八千矛の神の物語は、海人(あま)が語り伝えたものである。彼ら海人たちは、航海の折、方位を知るため星を読む。外つ国からの星座(星宿)の知識は、つまり星の物語は、彼らに容易に取り込まれる。それゆえ八千矛神の妻問いは、牽牛の織女への妻問いと混淆する。それは聴衆の興趣を呼び起こすものであったから、いつしか七夕物語は、広く歌われるようになった。そして漢字(万葉仮名)によって、記録に留め置ることとなった。

 

   己孋 乏子等者 竟津 荒磯 巻而寝 君待難     (万葉集2004)

 

〈釈文〉おのが夫(つま) ともしむ子らは 泊(は)てむ津の

          荒磯(ありそ)まきて寝(ね)む 君待ちかてに

 

《歌意》夫(せ)の君に、めったに逢えない、あの隠し妻などは、今宵もまた、船が停泊する港で、その荒磯を枕にして寝ることであろう。お慕いする方のお出でを待ちかねて。

 

 ともし妻、ともし子と、逢瀬の乏しい隠し妻をテーマとする対の歌である。七夕歌であるから彦星の訪れを待つ織姫の物語ではあるが、やはり海を越え行く八千矛の神の妻問いが伏線にある。そして、それを伝える海人の、渡り継ぐ港々で待ち受ける遊女についての歌でもあった。

 

 万葉仮名は初期の表記法であったから、記録されたものの、実際どのように歌われていたのか、今もって定訓の無い歌もある。

 

    天漢 安川原 定而 神競者 磨待無      (万葉集2033)

 

〈仮りの釈文〉天の川 安の川原の 定まりて 神し競へば 時待たなくに

 

《歌意》天の川にあるという安の川原で、開くことが定まっている神集いにおいて、神々は集まり、水に触れ遊び、舟の競い合い、議論の競い合いをなさる。その開始の時は来た。夜の船出の時、夜の競い合いの時である。もう待ってはいられない。

 

 この歌には、七夕物語の天の川と、八百万の神々が集う安の川原とが、同時に並置されている。渡来の物語と在来の物語の、混淆と融合である。そして天の川を渡る牽牛の渡船場での、水流との競い合いの決意でもあり、また海人たちが出船の折、艤装の競い合いをする岸辺での決意でもある。

 この歌には「庚申の年に之を作る」と柿本人麻呂による左注(自注)がある。だから天武9年(680年)の作となる。その頃に行われていた漢字による表記法である。

 万葉集に見る人麻呂の登場と、その活躍とは、この文字表記史の上での画期的な出来事であった。すなわち、人麻呂歌に見る略体歌から非略体歌への流れ、人麻呂歌集から人麻呂作歌への、歌の記載の流れである。