山陰沖の歌の語り(18)

第3章、歌聖の伝説

第1節、明石の歌

 河内から摂津へ、摂津から明石へ、そして瀬戸内海から日本海へ、人麻呂流離の物語は水系を辿り流れて行く。それは歌の伝播、文字の伝播、人々の心の交流であった。

 

   ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 島隠れ行く 舟をしぞ思ふ

                     よみびとしらず(古今和歌集 409)

       この歌はある人の曰く、柿本人麻呂が歌なり

 

《歌意》ほのかに夜が明け行く、その朝、その明け行く明石の浦に、朝霧が立ち込めている。その朝霧の中で、島影の中に消え行く舟のことを、しみじみと思う。

 

 古今和歌集「明石の歌」は、巻第九の羈旅歌の中にあるから、詠み人は不明なるも、旅の途次、明石に立ち寄った折の歌である。朝霧の中で、島影の中に消え行く舟を思うことからすれば、それは海路の旅でもあったろう。その左注にある通り、あるいは人麻呂流離の歌だとすれば、ここに人麻呂物語の痕跡を見出す。

 人麻呂の羈旅歌八首の中にも、明石に関わる歌二首がある。人麻呂は確かに明石の海を船で通過していた。往路も、そして復路もである。

 

    燈火(ともしび)の 明石大門に 入らむ日や

          漕ぎ別れなむ 家のあたり見ず      (万葉集 254)

 

《歌意》燈火が明るい明石、その明石海峡に船がさしかかり、そこを通過する日には、家族とも全く漕ぎ別れとなってしまうのであろう。故郷の家々は、もう見ることもないのだから。

 

        天離(あまざか)る 鄙の長道(ながち)ゆ 恋ひ来れば

                          明石の門より 大和島見ゆ      (万葉集 255)

 

《歌意》天(海)の彼方、遙か遠方への旅路を終え、その鄙の長い道のりを故郷恋しさに、ひたすら上って来た。そしてようやく明石海峡に入って来た。そこを越えれば、もう懐かしい大和の山々(生駒や葛城の連峰)が見えてくる。

 

 大化改新の詔によれば、明石の櫛淵(くしぶち)までが畿内である。つまり明石海峡とは、畿内の海と畿外の海とを区切る海境(うなさか)であった。人界の海から、いよいよ神界(海神の世界)の海へと、ここで意を決して旅立つのである。

 

「明石の歌」は、藤原公任によれば「これは昔のよき歌なり(新撰髄脳)」「これは言葉妙にして余りの心さへあるなり(和歌九品)」とあり、藤原俊成によれば「柿本朝臣人麿の歌なり。この歌、上古、中古、末代まで相かなへる歌なり(古来風躰妙)」とある。秀歌として世評高く「上品(じょうぼん)中の上品」とまで評価されている。だがそれ以上に、歌の効果は実に信仰の対象にも育っていた。

 人麻呂の歌語りは、人々を感動させ、その興奮の中、霊妙な歌世界へと導くものであった。人々に語り聞かせる中で、歌の功徳を施し、歌の霊験を人々に語り掛けるもの、信じる者へ必要な救済を施すのものとなっていた。ここに新たな人麻呂物語の展開がある。
 人麻呂の歌として「明石の歌」が歌われたのは、危険な海路を進む船にとって、歌の功徳、歌の救済が信じられたからである。海の災厄を防ぎ、祟りを為す鬼神を抑え込み、荒海荒波をも鎮めるという役割を果たすもの、すなわち航海の安全を保障するからであった。それゆえ霊験ある陀羅尼としても唱えられていく。人麻呂を神と讃える人麻呂影供も、この歌を教会の賛美歌の如く、仏菩薩へのお経の如くに唱えていた。人麻呂は歌の聖、歌の神、言霊の神へと展開していたのである。

      歌の道 舟の道を 守るとて 明石の浦に 跡たれし神

                  人麻呂大明神縁起(明石 柿本神社

 

「明石の歌」は今昔物語にも登場する。そこでは隠岐に流された小野篁(おののたかむら)の作と伝える。やはり文字使いの名手、詩文の大家、碩学小野篁にも仮託されていた。流刑地からの帰京そして参議への復権、それは地獄から生還し再び華々しい活躍を果たすという、運命の転変を経験した人物ということである。それが詩歌の霊験により果たされたと信じられていた。

 文字の霊妙は、水が野の中を静かに流れるが如く、引いてはまた満ちて行く潮の如く、人々の心に注ぎ入っていた。朝霧の中を、隠れ行く舟の如くに、海辺を伝い諸処に漂い流れ、次々と伝播していった。その言霊の流離は、やがて隠岐へも流れ着く。

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

今昔物語集』巻第二十四に載る「小野篁被流隠岐国時読和歌語第四十五」の説話を根拠として、紹介した「ほのぼのとあかしの浦の」の歌を「小野篁」の作品で、彼が隠岐島へ流刑に処せられたときに、その道中で詠われたものと紹介します。