山陰沖の歌の語り(19)

第3章、歌聖の伝説

 第2節 人麻呂の息子の物語

 隠岐には柿本美豆良(かきのもとのみつら)伝説が残る。美豆良(みつら)とは人麻呂の息子である。流離する人麻呂の分身である。彼は政争に巻き込まれ、この島に流された。言霊の抑圧として流されたのである。この流離の貴種は、島の豪族の娘、比等那(ひとな)と恋をし、相聞の歌を残す。

 妻恋ひて 重栖(おもす)の浜に 吾が居れば 凪ぐ白島の 波の音(と)聞こゆ

                          柿本美豆良(穏座抜記)

 岩立の 甲羅尾(からお)の月も 更けにけり 寝なましものを 松風の音

                          比等那姫(穏座抜記)

 だが美豆良は、この島にあって病を得る。やがて死んでしまった。悲愁と鬱屈、祈念と諦観とを併せ持つ、水辺で歌われた愛と死の物語だった。

 あふことも 身は病(いたつき)に 沖つ島 さらばと告げよ わたる雁が音(ね)

                          柿本美豆良(穏座抜記)

 言はましの 契りを潮(しお)に 啼く千鳥 声は悲しも 重栖(おもす)浦波

                          比等那姫(穏座抜記)

 人麻呂の息子、美豆良の消息を伝える伝承が「石見国風土記逸文の記事にもある。南北朝の頃の時宗の僧、由阿による万葉集の注釈書『詞林采葉抄』が引用するところである。こちらの記載は、美豆良(みつら)ではなく躬都良(みつら)である。文武の御宇「隠岐の嶋に流され、謫所にて死去す」とある。人麻呂を歌祖と仰ぐ和歌の家、六条藤家にも、また人麻呂の息子の話が伝えられている。藤原清輔(1104~77)の歌学書『奥義抄』は、そこで引用する歌の撰者として柿下躬貫(かきのもとのみつら)を記載する。実際の撰者は清輔であるが、人麻呂の末流(子孫)たるの意識が、その子息・躬貫の名を名乗らせた。躬貫の文字は、凡河内躬恒紀貫之から一字づつを採った借字に過ぎないが、人麻呂の子の存在は、やはり信じられていた。

 そして近世に至るも、なお歌道伝授書(古今伝授)『古今相伝密勘抄』の中に、やはり柿本躬都良の記憶が載る。古今和歌集巻十三、恋歌三の、詠み人知らずの歌の解説において、これを躬都良の歌とする。

  かねてより 風に先立つ 浪なれや
     逢ふ事なきに まだき立つらむ
              よみ人しらず (古今和歌集 627)

 この歌について「大伴家持が娘、並び無き美人なり。文武思し召しけるを、柿本躬都良恋ひて通ふと名を立て、石見国へ流されける時、詠みて王に奉りける」と解説する。

 古来、政治的失脚や統治者による忌避も、歌の世界に還元されれば、常に禁じられた恋のスキャンダルとなる。その悲恋、禁じられた恋の文学的創作の中には、真実を覆い隠された、政治的かつ社会的な事件がある。錯綜の余り、後の世の人間には、それが見えない。配流伝承とは、貴種に仮託された抑圧された者たちの復権の願いである。語り伝えた朧気な物語の中から、物語に収斂された僅かな痕跡の中から、それは読み解かれなければならない。