山陰沖の歌の語り(20)

第3章、歌聖の伝説

 第3節、悲愁の門

 自ら「山柿の門」と人麻呂を敬慕する大伴家持も、また隠岐と深い関わりを持つ。古代以来の名家たる大伴氏、その氏上の家持は、新興の藤原氏から強い掣肘を受け続けた。その政治的危うさは、終生、彼に歌の世界への沈淪を余儀なくさせた。
 越中赴任を契機に詩魂を磨いた彼は、やがて都に戻り、独自の歌境に至っていく。武門の長として防人を検校するが、辺境の地に赴く兵士たちの苦悩と悲しみに、また深く共感する。そして防人たちを歌い、防人歌をまとめた。

    海原に 霞たなびく 鶴が音の 悲しき宵は 国辺し思ほゆ
                          大伴家持万葉集4399)

 また「独り秋の野を憶ひて、いささか拙き憶を述べて作れり」と「独り」「憶い」を歌に寄せる。「無常を悲しみ」「移り行く時」を悲しみ「物色の変化を悲しみ」と、次々に悲愁を歌に作る。やがて秋風に送られ、左遷の地、山陰の因幡国へと赴任する。その別離の歌。

    秋風の 末吹きなびく 萩の花 共に挿頭(かざ)さず 相か別れむ
                          大伴家持万葉集4515)

 そして因幡国庁に於いての初春、家持は彼の最終歌を歌った。それは万葉集の最終歌である。

    新しき 年の始めの 初春の 今日降る雪の いや重(し)け吉事(よごと)
                          大伴家持万葉集4516)

「族(うから)に喩(さと)す歌」を作り、深く身を持していた家持も、桓武天皇による皇太子(早良親王)排斥事件に巻き込まれる。既に病死した家持ではあったが、棺に納め埋葬するを止められ、その遺骨は流刑に処せられる。息子の大伴永主とともに、以後二十年間、隠岐に留められる。桓武は死の床にあって、無実の早良親王の怨霊に怯え、事件の連座者に特赦を与えた。延暦元年(782年)のことである。こうして大伴永主は、父家持の遺骨と共に、二十年ぶりに京へ帰ってきた。彼の苦渋の隠岐配流生活は、鬱屈に鬱屈を重ねた日々であったに違いない。