山陰沖の歌の語り(21)

第3章、歌聖の伝説

 第4節、空蝉の歌

 武の家、歌の家として誇り高い大伴氏も、その誇りを捨て、ひっそりと生きて行く。大伴の「大」の文字を外し、伴氏を名乗ることとした。桓武の 皇子で、平城、嵯峨の弟の大伴親王(後の淳和)の名を避けたからだという。だが自他共に許す古代以来の名族・大伴氏も、もうこれ以上の抑圧には耐えられなかったからである。
 だが承和の変(842年)では伴健岑(とものこわみね)が隠岐配流となり、応天門の変(866年)では伴善男(とものよしお)が伊豆配流となった。善男の子の中庸(なかつね)も隠岐配流に遭った。伴中庸の隠岐配流には、その子の元孫(もとひこ)叔孫(おじひこ)の兄弟も、配所同道となった。当時まだ幼いため京に留め置かれた末子の禅師麻呂(ぜんじまろ)も、成長した十年後に、同じくこの隠岐へ送られた。厳しい配流の処置であった。
 彼ら伴氏(大伴氏)の悲愁、鬱屈は、隠岐における伝承の古記録「穏座抜記」に記されている。伴卿(とものきょう)という登場人物とともに、その悲愁の歌物語が語られている。

  空蝉の 生命(いのち)は 沖つ波に濡れ 世を隠ろひて 玉藻刈りせむ
                            伴卿(穏座抜記)

 柿本躬都良伝説から伴卿の伝説まで、流離、悲愁の歌が、この山陰沖の離島・隠岐において残されていた。その哀切の心、歌の心を、人々に正しく伝えていた。