山陰沖の歌の語り(22)

第4章、歌の復権

 第1節、文字使いの変容

 名族の大伴氏を抑え込んだ藤原氏は、支配原理の律令体制を充分に把握し、官僚機構を完全に掌握していた。その官庁行政の公式文書は全て漢文体である。当時の官吏の教養も、論語史記や文選など、全て漢籍から得られていた。それゆえ平安初期の宮廷文学は、先進の国の文化すなわち漢詩賦を主流としていた。
 薬子の乱(810)で平城上皇側を破り権力を握った嵯峨天皇は、ここに繚乱たる唐風文化を展開する。嵯峨の文雅への志向は「幼にして聡く、好んで文章を読む」という資質に加え、小野岑守(みねもり)や菅原清公(きよただ)ら文事官僚の補佐によるものだった。弘仁五年(814)最初の勅撰漢詩集「凌雲新集」が小野岑守らによって撰上された。弘仁七年(816)には藤原冬嗣らによって「文華秀麗集」が、天長四年(827)には良岑安世や菅原清公らによって「経国集」が撰上された。「文章は経国の大業、不朽の盛事なり」と、魏の文帝の言葉を承け、嵯峨上皇は漢文体(漢詩賦)を文治政治の中心に据えた。
 だが、その陰で、なお宮中の奥深く、女文字「女手」と称された略体漢字が、深く静かに広がっていた。楷書から行書、そして草書へ、その草仮名から平仮名へと文字記載の変化が起こっていた。唐風から和(やまと)風へ、そのような変化が着々と準備されていた。