山陰沖の歌の語り(31)

第5章、後鳥羽上皇隠岐

 第6節、後鳥羽と定家

 新古今和歌集を成立せしめた後鳥羽と定家、歌の美意識の上で、言葉の価値観の上で、二人の間には相当の違いがあった。それが互いの確執を生んでいた。承久の乱の直前、定家は後鳥羽の不興を買い、退けられていた。だが後鳥羽の倒幕失敗は、退けられていた定家を復権させた。彼は鎌倉方と親密な九条家西園寺家の後援を得て、宮廷歌壇の主導権を握る。
 遠い隠岐の地にて、なお歌道に精進を続ける後鳥羽を、京にあっての定家は、終生、意識し続ける。彼の歌風も、いつしか後鳥羽の影響を受け、後鳥羽と同様に、絢爛そして華麗の新古今風を脱していた。それは「清高風期」と称される彼の円熟期で、この時期の歌作は少ないが、心のこもった質実なものとなっている。

 やがて定家は後堀河天皇から「新勅撰和歌集」撰進の命を受ける。幕府への政治的配慮から、後鳥羽ら三上皇の詠作は意図的に除かれた。さらに定家は「百人秀歌」を撰定する。だがやはり配流された三上皇の歌は除かれている。
 承久の乱後、帝徳を讃美讃仰する歌は退けられ、宮廷の権威は失墜した。ここに連綿と続いた至高の存在、古代以来の帝王の世は終わった。帝徳と共にあった雅び、その絢爛の和歌世界も、もう終焉を迎えたのであった。定家は確かに、この過ぎ行く一つの時代、大いなる変転の時代を見ていた。それを彼は「小倉百人一首」という一つの歌集にまとめ上げていく。それは歌世界における、ある種の区切りを為すものであった。