山陰沖の歌の語り(32)

第5章、後鳥羽上皇隠岐

 第7節、小倉百人一首

 小倉百人一首は巻頭の第一首を、平安王朝の皇統の祖、天智天皇から始める。続く第二首は、天智の娘の持統である。巻頭に親子の天皇を配したのは、巻末に後鳥羽と順徳という親子の天皇を配し終了するからである。つまり後鳥羽と順徳の親子で、雅びの和歌世界は終焉、完結という理解である。
 すでに後鳥羽は、人麻呂や赤人など古い時代の歌人から新古今時代の歌人まで、時代を異にする歌仙(すぐれた歌人)百人の秀歌を選んでいた。「時代不同歌合」である。この後鳥羽が展開する歌世界に、定家として対抗するものが、この小倉百人一首であった。それは定家の持つ美的世界観、和歌史観の表明である。彼の歌論の要約であり、また集大成でもあった。

 定家は上古以来の歌と歌人を、ここに取捨選択した。そして順を追って展開し、首尾一貫した完結の歌世界を作り上げた。

( 1) 秋の田の 刈り穂の庵の とまを荒み わが衣手は 露にぬれつつ
                            天智天皇

( 2) 春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山
                            持統天皇

( 3) 足引きの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む
                            柿本人丸

   ‥‥‥‥   ‥‥‥‥   ‥‥‥‥

 

(97)来ぬ人を 松帆の浦の 夕なぎに 焼くや 藻塩の 身もこがれつつ
                            藤原定家 

(98)風そよぐ 楢の小川の 夕暮は 禊ぎぞ夏の しるしなりける
                            藤原家隆 

(99)人も愛し 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆえに 物思ふ身は
                            後鳥羽院

(100)百敷や 古き軒端の しのぶにも なお余りある 昔なりけり
                            順徳院

 定家は天智、持統の、親子の天皇に継ぐ第一の歌人柿本人麻呂を挙げる。そして後鳥羽、順徳に至る当代第一の歌人に、自らを挙ぐべき自負があった。だが後鳥羽の没落後も、なお院に忠実に、また篤実に、隠岐への音信を絶やさなかった歌人藤原家隆を差し置く程の厚かましさは無かった。後鳥羽の京歌壇に於ける代弁者、この家隆を臣下第一に置き、自らは、その次席に座った。それが小倉百人一首の歌の配列である。

 だが定家にとって古の第一の歌人は人麻呂、そして今の第一の歌人は定家自身なのであった。それは疑いようもなく、強く、彼の胸中にあった。新古今和歌集の編纂に参画し、中心となる働きをし、その後の京歌壇を支配し続けた定家自身の、深く認識し、かつ自負する世界なのである。だが後鳥羽の存在は、その後鳥羽が保持し続ける和歌世界の存在は、定家の和歌世界観を、そのままには認めなかった。その滅びの美学は、滅びゆく世界ゆえに、さすがの定家も、抗するすべを持たなかった。