山陰沖の歌の語り(33)

第5章、後鳥羽上皇隠岐

 第8節、歌の残影

 延応元年(1239)在島十八年にして後鳥羽は隠岐で崩じた。その間、北条氏の命により、厳しい監視が隠岐国守護、佐々木左衛門尉泰清によってなされていた。後鳥羽の崩御の折、佐々木泰清が詠んだ痛切な哀傷歌がある。

    立ち昇る 煙の後の 別れ路を 見しは迷ひの 夢かうつつか
                             佐々木泰清

 この佐々木氏の隠岐支配は、そもそも頼朝挙兵以来の大功による。源平合戦における佐々木兄弟の活躍は、その惣領たる太郎定綱を近江・長門・石見の守護と、隠岐国一円の総地頭職に就任させていた。宇治川の合戦に梶原源太景季と先陣争いをしたのは、太郎定綱の弟の四郎高綱である。隠岐には、この先陣争いを制した名馬池月(いけづき)の生誕伝承さえ残っている。平家没官領の一部、この隠岐の地が、武勇の家たる佐々木氏に恩賞として与えられ、佐々木氏の一党の渡島、その支配に至ったからこそ、残った伝承である。

 だが承久の乱は、武勇の佐々木一族を京方と鎌倉方とに分け、互いに戦わせた。太郎定綱の嫡男たる広綱は、隠岐支配を継いでいたが、彼は後鳥羽の誘いを受け、宮方に所属した。ゆえに乱後、処刑されてしまった。そして鎌倉方に立った五郎義清の手へ、出雲と共に隠岐支配は移っていった。後鳥羽の崩御の折、哀傷歌を詠んだ佐々木泰清とは、この五郎義清の息男である。

    近江佐々木氏系図

           佐々木秀義 ─┬ 太郎定綱 ─┬ 広綱
                 ├ 次郎経綱 └ 信綱
                 ├ 三郎盛綱
                 ├ 四郎高綱
                 └ 五郎義清 ── 泰清

 隠岐にあって後鳥羽を警護し、また監視した泰清は、一方で、京に居る藤原隆祐と親しく歌を交わしていた。隆祐は後鳥羽の代弁者として京歌壇で活躍した藤原家隆の息男である。後鳥羽と家隆との親しい関係は、互いに傍らに在る泰清と隆祐とに、その交流は受け継がれていた。

   立ち昇る 煙と成りし 別れ路に 行くも停まるも さぞ迷いけん
                         佐々木泰清

   なれなれて 沖つ島守 如何ばかり 君も渚に 袖濡らすらん
                         藤原隆祐

 後鳥羽の崩御時に、泰清と隆祐との間で交わされた歌である。泰清の後鳥羽への思いの深さは、家隆・隆祐父子の思いに比し、決して劣るようなものではなかった。彼の後鳥羽への監視とは、実際には心の籠もった細やかな奉仕であったに違いない。後鳥羽の和歌世界における、その忠実な配下、まさに和歌世界の住人の一人であった。

   島守の 空しき舟の 浮かび出でて 残る渚の 住む甲斐ぞなき
                          佐々木泰清

   和歌の浦の 道の心を 仰せけん 君の御跡は さぞ偲ぶべき
                          藤原隆祐

 後鳥羽によって代表される和歌世界は、すでに京からこの隠岐の地へと移っていた。隠岐の海辺は、和歌の浦となり、鄙とはいえ和歌の道を伝える聖地となっていた。泰清も隆祐も、そのことは良く承知するところであった。だがその聖地の灯は、後鳥羽の崩御と共に、もう消え失せてしまった。