山陰沖の歌の語り(37)

第6章、歌の変容

 第4節、後醍醐の大志

 後醍醐は隠岐配流後の元弘二年(1332)八月、出雲の鰐淵寺の僧・頼源に、大願の祈願文を発した。心中深く期す彼の「こころざし」とは、配流の地・隠岐を脱し、一天万乗の君主に返り咲き、延喜天暦の昔の如く、天皇親政を行うことであった。

    こころざす かたを問わばや 浪の上に 浮きて漂う 海人の釣り船
                           後醍醐(増鏡)

 元弘二年十一月、後醍醐の皇子・大塔宮護良親王は吉野に挙兵した。そして山伏修験たちを手下に播磨の書写山に移動し、諸国に倒幕の号令を発した。翌三年二月、伯耆の船上山に至り、出雲の鰐淵寺の僧・頼源に令旨を発した。後醍醐の隠岐脱出についての直接の命令であろう。果たしてその一ヶ月後、天皇隠岐行在所から逃亡した。そして頼源も一山の僧兵を率い、直ちに船上山へと馳せ参じた。頼源はさらに転進し、京の六波羅攻めにも参加する。

 後醍醐の隠岐脱出については、それを支える武力が準備されていた。計画は周到に練られ、既に着々と布石が打たれていた。隠岐にあって後醍醐は、その情報を収集し、機の熟するのを待っていた。

    吹く風の 便り待つ間を 託言(かごと)にて 同じ入江に 停まる船人
                          後醍醐(新葉和歌集

 倒幕の追い風が吹くのを、後醍醐は隠岐にあって、じっと堪え忍び待っていた。入り江に停まる船人から、港を行き交う回国の行者、聖(ひじり)たちから、後醍醐とその側近たちは、次々と諸種の情報を得ていた。

    聖の住所は どこどこぞ 箕面よ勝尾よ 播磨なる書写の山

      出雲の鰐淵や日の御碕 南は熊野の那智とかや    (梁塵秘抄

 吉野や葛城から熊野の那智へ、箕面勝尾寺から播磨の書写山へ、また伯耆の船上山や大山寺へ、出雲の鰐淵寺や日御碕へ、往来する聖たちは天下の情勢を克明に伝えて来た。

 隠岐の焼火山や大満寺の山麓には、霊峰を斎き祀る山伏修験の宗教者たちが、当時、自由な往来を重ねていた。島前(海士)の清水寺と安来の清水寺との交流はもとより、出雲の鰐淵寺や日御碕、また美保関の仏国寺や伯耆の大山寺などとも、密接な交流を持っていた。そして遠くは播磨の書写山や吉野・熊野などとも、やはり頻繁な交流を持っていた。その共有する情報は、時代意識と共に、後醍醐とその側近たちを、充分に勇気づけるものであった。

 移動往来する宗教者たちとは、当時の流通経済を一翼で担う回国の零細商人たちである。行者、堂下の大衆、捨て聖、その宗教活動とは、その情報宣撫活動とは、その実、文化や情報を伝えつつ物品を販売する物資交流活動であった。布教の名の下の経済活動なのである。自由な彼らの移動往来、通商交易は、鎌倉幕府の農本体制を、その根本から突き崩していた。交流と情報とによって動く、この新たな経済活動は、やがて後醍醐を象徴として、また新たな時代を生み出していく。