山陰沖の歌の語り(34)

第6章、歌の変容

 第1節、歌の分裂

 京の文雅を武威で圧倒した鎌倉は、文雅世界の象徴たる帝権を二分し、弱体化を図った。持明院統大覚寺統という両統迭立の開始である。

        持明院統
            ┌─ ② 後深草 ── ⑤ 伏見 ──┬─ ⑥ 後伏見
   ① 後嵯峨 ─┤                └─ ⑧  花園
            └─ ③ 亀山 ───  ④ 後宇多 ─┬─ ⑦ 後二条
        大覚寺統              └─ ⑨ 後醍醐

 歌の世界も、皇統と同じく分裂化、分散化を始めていた。歌の家たる定家の御子左家も、二条、京極、冷泉と分裂する。二条派は大覚寺統へ、京極派は持明院統へ、皇権に擦り寄り結びついていった。

    御子左家            ┌(二条)為氏   
       藤原俊成──定家──為家─┼(京極)為教
                    └(冷泉)為相
 帝徳、文雅は、すでにその価値を失墜させ、国家の指導理念たり得ない時代であった。武威こそが国家の規範と、その武を如何に掌握するかが国家運営の要となっていた。当然ながら文雅の家は閉塞し、そして衰微する。やがて二条家も京極家も消滅し、僅かに冷泉家だけが残った。そして新たに参入して来た飛鳥井家や西三条家などが、細々と歌学の伝統を繋いでいた。もはや創造の活気は失われ、旧時代の和歌を模倣するのみに堕していた。だから次々と作られる和歌は、ただひたすら瓦礫の山を成すだけであった。

 だが歌は一方で新たな世界を育んでいた。新たな武の支配の下で、新たに勃興してきた歌である。歌は個々の心を表現するが、また折々の社会をも表現する。当時、流通経済の進展はめざましいものがあり、情報伝達を担う新たな社会勢力も構築されていた。そのような社会で歌われていた歌は、もはや帝徳の文雅を開示するような歌ではない。新たに湧き起こってきた歌は、自由闊達な流通社会の象徴を為す歌であった。互いに言葉を交わし、掛け合い、また喜び応答する歌、すなわち連歌である。