山陰沖の歌の語り(36)

第6章、歌の変容

 第3節、後醍醐の登場

 新古今和歌集の成立から約百年を経過した文保二年(1317)大覚寺統の後醍醐が帝位に就いた。彼は永続する強力な皇権を目指し、倒幕に立ち上がった。正中の変、続く元弘の変である。

 だが武力を持たぬ後醍醐は容易に潰されてしまった。そして後鳥羽の如く、隠岐へ配流となった。沈み込む後醍醐は、いよいよ出京の折、次の如き歌を詠んだ。

   ついにかく 沈み果つべき 報いあらば 上なき身とは なに生まれけむ
                            後醍醐(増鏡)

 十九年にわたり隠岐で暮らし、帰京することなく島で果てた後鳥羽の運命を、後醍醐は自らに置き換え、考え続けていた。同じく長き幽囚の生活を送るのかと。摂津の昆陽(こや)の宿で、後鳥羽の歌を真似、その心情に寄り添って詠んでいた。

   命あれば 昆陽(こや)の軒ばの 月も見つ またいかならん 行く末の空
                            後醍醐(増鏡)

 後鳥羽の本歌は次の通りである。

   限りあれば 萱(かや)が軒端の 月も見つ 知らぬは人の 行く末の空
                            後鳥羽(遠島百首)
   命あれば 茅(かや)が軒場の 月も見つ 知らぬは人の 行く末の空
                            後鳥羽(隠岐伝承歌)