山陰沖の歌の語り(38)

第6章、歌の変容

 第5節、後醍醐の隠岐脱出

 後醍醐は彼ら廻国の聖たちの支援を受け、春夜密かに、軟禁されていた隠岐黒木御所を脱出した。その脱出経路はと言えば、当然ながら船の道である。黒木御所のある別府湾は警戒厳重で、逃亡は困難であったから、徒歩で峠を越え美田湾の小向(こむか)に向かった。ここは島前の大津、定期的な市が立つ。賑わう市庭の霊石がある。それは市神の依り代、交易に当たって人々に幸を与えるという。後醍醐が逃亡の折に休息した「御腰掛石」として、今に至るも崇められている。

 この市の賑わう港から、隠し置いた渡し舟に乗り、夜間、対岸の赤之江(しゃくのえ)へ移った。赤之江の湾は「赤崎の浦」という。浦の突端は赤色の岩肌の目立つ岬である。ゆえに赤崎の鼻という。後醍醐は、この小さな浦で、落ち着かぬ一夜の仮寝を取った。

    幾たびか 思い定めて 有りながら 夢やすろわぬ 赤崎の宿
                         後醍醐(隠岐伝承歌)

    朝な夕な 民やすかれと 云うだすき かけて祈らん 茂理(もり)の社に
                         後醍醐(隠岐伝承歌)

茂理の社は、赤之江の民家の傍ら、その高台にある。後醍醐は社に無事安全を祈り、藻刈り舟に潜み、赤崎の鼻を越えた。そして赤崎の瀬戸を越え、千波(ちぶり)の湊へと入った。ここにも港湾の市が立つ。市庭の霊石があり、やはり後醍醐の「御腰掛石」の伝承を残す。

 この賑わう港湾には伯州御来屋(みくりや)の大型商船が待ち構えていた。早速乗り込み、隠岐を脱出、ついに伯耆の海運商人・名和長年や、山伏修験の本拠地・大山寺へと迎え入れられていった。隠岐伝承はこのように伝える。