第6章、歌の変容
第8節、連歌の普及
建武三年(1336)湊川合戦があり、南朝方の新田義貞、楠木正成らは敗れ、九州から攻め上って来た足利尊氏が覇権を確立した。そして建武式目が制定される。室町幕府の成立である。式目には次の如くある。
近年 婆娑羅と号して 専ら過差(かさ)を好み
綾羅錦繍 精好銀剣 風流服飾
目を驚かさざるは無し すこぶる物狂いと謂うべきか
戦乱の世ではあったが、国家統制は外れ、経済はいよいよ自由度を得ていた。民衆は束縛を脱し、歌舞飲酒し、物狂い、群れ集い、賭博も盛んだった。建武式目は続ける。
群飲佚遊(ぐんいんいつゆう)を制せらるべき事
或いは茶寄合と号し 或いは連歌会と称し
莫大の賭に及ぶ その費勝(ひしょう)計り難き
これは当時の流通経済の繁栄に負う。水陸の道は荷を運ぶ商人たちで混雑し、街道の市や物資の集積する都市では、喧噪騒遊の中に、賭博や諸芸能、宗教や金融などが激しく賑わいを見せていた。衆の結集は、宮座などを形成させ、次々と仏事や神事をも催させていた。その聖なる広庭(市庭)では、猿楽、田楽、連歌などが次々と興行されていた。
新しい幕府は、歌舞飲酒し騒乱する衆の寄合(結集)を禁止しようとする。だがそのような統制は無視されるばかりで、何の効果も挙げ得なかった。大衆は座や惣を組み、日常的にも村寄合を持った。その民の結集は、やがて支配者に抵抗する一揆にも展開する。自由闊達な民衆活動が抑えようも無く巷には広がっていた。この時代の特徴的な社会構造である。
中央の貴族から鄙の大衆まで、当時、広く歌われていた歌が、連歌であり歌謡である。和歌よりも遙かに優位に立ち、この時代の歌文化の基盤を形成する。歌の心は生活と密着し、より様々な形を展開させていた。
いや まことに
世に連歌ほど 面白いものはござらぬ
発句を致せば 面白し 脇を致せば 面白し
頭を営めば またひとしおの 楽しみでござる
簑被(大蔵流狂言)
狂言「簑被(みかづき)」には、連歌に取り付かれた男の話が展開する。ここには官位も富貴も、名句を得る喜びには代え難いとする農民さえも登場する。連歌は当時の人々の心の中に深く浸透していた。その即興性の言語遊戯は、句の連鎖の中に、次々と共有する美の意識空間を創造するものであった。