山陰沖の歌の語り(42)

第6章、歌の変容

 第9節、花の下の連歌

 刻々と創造される連歌世界は、物語世界へ、演劇世界へ、また人々を妖しく誘うものであった。確かに連歌師たちは説経節を語り、猿楽や田楽を演じ、神仏の功徳を語り、劇的世界を創出し始めていた。歌と踊りと語りに彩られ、芸能と商業と宗教とは渾然一体となり、ひたすら民衆に溶け込んでいた。
 各地の寺社の境内では、観衆も参加し、喜び楽しむ歌謡舞踊の会が、賑わいの中で興業されていた。今に至る花踊り、盆踊りにも連続する。時宗の善阿、弟子の救済、またその弟子の周阿と、地下(じげ)連歌師の活躍があった。「沙石集」には、花の下に人々が集まり、連歌師たる法師を中心に、共に連歌を詠う様が記される。いわゆる「花下(はなのもと)連歌」で、出雲路毘沙門堂清水寺に隣接した地主権現、祇園社に続く鷲尾の双林寺、あるいは洛西の法輪寺などで興業されていた。そこは開かれた場、自由があり連帯があった。

      面白の 花の都や 筆で書くとも 及ばじ
      東には祇園 清水 落ちて来る滝の 音羽の嵐に
      地主の桜は ちりぢり 西は法輪 嵯峨の御寺
      廻らば廻れ 水車の いせむ堰の 川波
      川柳は 水に揉まるる ふくら雀は 竹に揉まるる
      都の牛は 車に揉まるる 野辺の薄は 風に揉まるる
      茶臼は 挽木に揉まるる げにまこと 忘れたりとよ
      小切子は 放下に揉まるる 小切子の 二つの竹の
      世々を重ねて うち治めたる 御世かな      (閑吟集

 小切子(こきりこ)を操り、小唄をうたう放下(ほうか)は、能の「放下僧」にも示されるところである。そのような遍歴の芸能者と、花の下でうたう地下連歌師とは、その身分においても、活動においても、また社会的評価においても、ことごとく共通する存在であった。

     月見つつ うたうは放下の こきりこの 竹の夜声の 澄み渡るかな

                         (七十一番職人歌合)