山陰沖の歌の語り(43)

第6章、歌の変容

 第10節、連歌の隆盛

  二条良基が地下連歌師の救済を師として連歌に打ち込んだのは、連歌特有の開放感と連帯感の所以である。ここに参加する者たちは、身分の違いを超え構成する歌世界へ、その心身を没入させていた。良基と救済による菟玖波集が完成するのは、南北朝動乱も第二期(南朝は後村上、北朝は後光厳の時代)の延文二年(1357)のことで、実に自由闊達にして喧噪猥雑な社会の頃であった。その菟玖波集の巻頭句は、宝治元年(1247)八月十五夜に百韻連歌を興行した折のもので、後嵯峨院の作である。

   (前句)山陰しるき 雪のむら消え
   (付句)新玉の 年の越えける 道なれや   後嵯峨院

 後嵯峨を巻頭に置いたのは、後鳥羽に代表される和歌世界から、新たに展開してきた連歌世界という新規意識である。すなわち新古今和歌集を古(いにしえ)のものとして、そこから生まれ出た新たな連歌風躰の確立であった。この時代は後嵯峨を祖とする南北朝時代、その新たな時代の新たな歌文化に携わっているという強烈な自意識が、二条良基にはあった。その二条良基の自薦歌は、巻末近くにある。

   (前句)時うつる むかしは 今日の昨日にて
   (付句)ことおもひでも 花のゆふぐれ         二条良基

   (前句)歌の名におふ 奈良のふるさと
   (付句)木枯らしの 庭に萬(よろづ)の 葉を集め   二条良基

   (前句)歌のすがたは いまもわすれず
   (付句)いにしへの 夢を見し人 まろねして      二条良基

   (前句)人のためにも 二子(ふたご)こそあれ
   (付句)隠岐 佐渡は 八嶋のうちに あらはれて    二条良基

 

 二条良基は、連歌が、たとえ地下の中から湧き起こってこようと、古来の雅び歌の伝統の中にあることを、よく承知していた。菟玖波集という名の通り、日本武尊の吾妻歌・筑波歌に始まり、いにしえ平城帝(ならのみかど)の御時に成った万葉集を経て、隠岐佐渡に配流された後鳥羽・順徳と至る古典和歌の流れである。だが和歌世界が歌詠み一人の世界であるのに対し、連歌世界は違う。連歌は集団に帰属する。すなわち集団が作り出す歌世界である。

 和歌世界に続く新たな時代の歌として、自由・解放・連帯の歌、相互の人間関係を深める歌、隆盛となりつつあるこの連歌形式を、二条良基は歌の本道と強く認識していた。それゆえ地下連歌と堂上連歌を融合できたのである。