山陰沖の歌の語り(44)

第6章、歌の変容

 第11節、室町大名の連歌

 婆娑羅の大名として有名な近江守護の佐々木道誉、その連歌熱も、また大変なものであった。文和年間(1352~56)の千句連歌、和漢連句の催しは、彼の主催による。太平記によれば、道誉は大原野に於いて自ら花会を主催し、連歌の興業をも執り行っている。菟玖波集が准勅撰の綸旨を得たのも、この道誉の執奏による。

     京極佐々木氏系図

  佐々木太郎定綱 ─┬ 広綱
          └ 信綱 ─ 氏信 ─ 満信 ─ 宗氏 ─ 高氏(道誉)

 道誉は隠岐国守護そして佐渡国守護でもあった。その掌握する琵琶湖水運そして日本海水運は、彼に莫大な利を挙げさせていた。綺羅を競った彼の華美は、そのような経済的基盤を背景に持つ。新たに勃興してきた流通経済社会、原初の資本主義社会の、彼は申し子と言えるかもしれない。

 父の代からの遠江守護で、足利義詮・義満に仕えた今川了俊も、また名うての和歌・連歌好きであった。京歌壇に重きをなした彼は、九州探題として筑紫赴任後、その熱意はさらに高まっていく。京の二条良基との連歌論の往復や実作の交換は、筑紫に於ける連歌の普及に多大な貢献をなした。彼が庇護した太宰府天満宮には、文道・歌道の中心として多数の連歌師たちが詰め掛けていた。西海の要港・博多の津は、その玄界灘から日本海東シナ海へと広く交易展開があり、利を求める通商交易業者たちが蝟集していた。彼らの間で、やはり連歌がもてはやされていた。

 水運の隆盛と共に、それを庇護し促進を図る諸大名たちによって、各地に歌謡・芸能の文化が花開いていた。港々の市庭では、廻り来る連歌師・説教師・唱門師たちが、歌い踊っては衆を集め、神仏の教えと祝祭と、商品売買と交易とを執り行っていた。
 歌の需要は、いよいよ歌の専門家を要請する。今川了俊の弟子に、和歌・連歌に堪能な正徹が育つ。正徹の弟子に智蘊(ちうん)・宗砌(そうぜい)・心敬(しんけい)ら連歌七賢が育っていった。そして心敬の門に、連歌の大成者たる宗祇が現れてくる。