山陰沖の歌の語り(45)

第6章、歌の変容

 第12節、時衆と連歌

 南北朝の動乱期には、種々雑多な芸能者たちが社会の表面に現れていた。民衆と共に連歌をうたっていたのは、主に時衆(後には時宗と称した)の徒である。市の聖として遍歴するこの宗教者たちは、宗祖・一遍(1239~89)以来、歌と踊りと賦算の旅を続けていた。その弟子・善阿による法輪寺千句など、すでに正和元年(1312)には行われている。
 各地の寺社の広庭で、その祭礼の斎場(いつきのにわ)で、彼らは念仏踊り連歌を奉納していた。その阿弥陀信仰は、日本古来の神祇とも融合する絶対他力の念仏思想である。一遍は、この信仰を広めるべく、全国にわたる遊行廻国の生涯を送った。彼の門流は、その伝統を踏まえ、引き続き遊行廻国に赴いて行く。
 第七代遊行上人の託阿(他阿託何)は、自ら隠岐に渡って来た。南朝の正平二年すなわち北朝の貞和三年(1347)のことである。託阿は隠岐の島後・有木村(旧大光寺村)に至り、地頭職の佐々木一族の支援を受け、大光明寺(後の大光寺)を建立した。隠岐時衆の総拠点である。時衆は隠岐の各地に道場を設け、積極的に島民信徒を組織した。隠岐の大光寺の僧侶・重阿が、時衆四条派の上人位(第四代浄阿上人)に就いたのも、その海路交流の布教が、日本海一帯に著しい教団勢力の伸長を見せたからである。当時、多数の時衆信徒が隠岐を訪れていた。港の市庭では、彼らの歌と踊りが披露され、賦算の祈りが展開していた。