山陰沖の歌の語り(46)

第6章、歌の変容

 第13節、神の霊夢

 時衆四条派の総本山は、京都の四条京極にある金蓮寺(四条道場)である。四条道場は、四条河原や祇園社を含めた京の一大行楽地の、その入り口に立地していたから、連歌はもとより京の諸芸能に、殊に深く関わることになっていた。その上人位にあった五代目浄阿が、或る時、隠岐の島後、都万(つま)の高田神社に立ち寄ることがあった。おそらく隠岐出身の四代目浄阿、その冥福を祈る追善の旅でもあったろう。
 その社殿に於ける参籠の折、夢の中に神の示現があった。浄阿への歌の呼び掛けであった。

     花にいま 鳴沢池(なるさわいけ)の 蓮(はちす)かな

 

 鳴沢池とは、閻浮檀金(えんぶだんごん)の霊池で、高田山の山頂にあるという。その池に蓮の花が咲いたことを神は発句とした。浄阿は、この高田大明神の歌の呼び掛けに対し、応えなければならない。神との連歌問答の開始である。神との連歌世界の共有である。
 感激した浄阿は、急ぎ京に戻り、連歌に造詣深い摂政関白の二条良基に、この霊夢を報告した。南朝の元中四年、北朝の至徳四年(1387)のことである。
 室町幕府はすでに足利義満の時代に入っているが、なお戦闘騒乱は各地で勃発している。平和を希求する時の貴族や殿上人らは、この離島の神の呼び掛けに応じた。歌の持つ功徳を、皆、信じていたからである。平和の希求とは、それによる経済的利得を彼らにもたらすからであった。
 早速、歌会を興行し、神の発句に続け、彼らは千句の連歌を作り始めた。千句連歌とは、百韻(百句で完了する連句の形式)を一定のルールに従い十巻作ることをいう。そして併せ百首の和歌をも作り、その精選歌を浄書し、隠岐の神へと奉納した。

 千句の連歌は、もう失われてしまったが、百首の和歌は、今も高田神社の社宝として残されている。