山陰沖の歌の語り(47)

第6章、歌の変容

 第14節、百首和歌・千句連歌

          高田大明神 百首和歌(一部)

 (初春) 春寒き 山は高田の 高ければ 雪の下より 立つ霞かな    准三后
 (中春) 春の夜の あかつき出づる 月光に 木の間下照る 高田山かな 源高秀
 (晩春) 花ならぬ 木末も見えず 高田山 朝居る雲の 何れなるらむ   作阿
 (夏)  鳴神の 成沢過ぎて いな都万の 湊に掛かる 夕立の雲     浄阿
 (初秋) 七夕の 都万の浦曲の あま衣 間遠に立ちぬ 秋の初風     浄阿
 (晩秋) 吹き下ろす 音は高田の 山風に 里も夜寒の 衣打つなり    釈阿
 (冬)  枯れ残る 葦の葉ばかり 音たてて 入り江に波に 潮風ぞ吹く 権律師

 歌詠者の准三后とは二条良基のことであり、源高秀とは佐々木道誉の息男・佐々木高秀のことである。彼らに交じり、時衆の僧の歌詠がある。

 高田大明神は、京から遙かな海の彼方、隠岐の湊の神である。その向こうには異国、異界が広がっている。異族異類との往来を取り次ぐ神と見なされていた。境域の神で、海境(うなさか)の神、つまりは塞(さい)の神である。世を騒がす鬼神は、この境域を越え来襲する。地獄の亡者も、異界の鬼も、異族の軍も、皆、彼の国からの訪れであった。この暴威は境域の神の霊威により制御され、制圧されると信じられていた。

 時は南北朝動乱期、陸の抗争はもちろんのこと、海の戦いも熾烈だった。日本海から東シナ海にかけ、倭寇の活動も活発化していた。半島国家は高麗と朝鮮の王朝交代期であり、大陸国家は元と明との王朝交代期であった。当時も、東アジアは未曾有の大動乱期だったのである。

 日本海も怒濤の時代、京の貴族たちは、この海を越え「ムクリコクリ(蒙古高麗)」の鬼たちが、押し寄せて来ると恐怖していた。彼らは、この海の平穏を祈り、彼らの地位の安泰を望み、祈願の歌を奉納した。確かに彼らの足下では、当時、秩序・階層・価値の大変動が起きていた。その世情を騒がす鬼たちを、また鎮めるための祈願奉納の歌でもあった。
 至徳四年の高田大明神への奉納歌「百首和歌」「千句連歌」とは、至徳二年に近江石山寺に奉納された石山百韻に倣うものであろう。石山百韻の発句は「しばし都の 近き近江路」という二条良基の句である。このたびは神が発句を下し置かれた。「千句連歌」として、その最初に付け句するのは、やはり二条良基であったに違いない。「百首和歌」が神の句を承け、その第一首が准三后二条良基)の初春の歌だからである。

 高田大明神の「百首和歌・千句連歌」とは、琵琶湖水運の世界、交流する近江、その信仰圏での石山百韻を模倣し、ここに日本海水運の世界、交流する若狭からの西日本海そして山陰沖と、その信仰圏での歌群を展開するものであった。水運交流に伴う経済的利得こそ、歌詠によって呼び覚まされる神仏霊験の本質であった。