第6章、歌の変容
第15節、連歌と能
当時、希代の能の名手と謳われた犬王道阿弥や、大和猿楽の観阿弥や世阿弥など、時衆に関わる阿弥号を持つ芸能者たちの活躍があった。河原の者、放下の芸能者、犬や猿の芸にも紛うと卑下する彼らではあったが、その芸の力で人気を博し、大衆の寵児となっていた。
舞台で謡い舞う彼らは、その謡い合う綴れ錦の韻文を、和歌や連歌の詞章から借りていた。足利義満の治政下、二条良基ら優れた連歌作者たちと交わる世阿弥は、その能作に於ける言語手法を、やはり連歌詠作の応用として展開していた。そして、その世阿弥の美学も、やはり後鳥羽院の歌論・歌学の影響を強く受けていた。
この和歌・連歌芸術の中心に位置する後鳥羽の存在を、世阿弥は見逃さなかった。それゆえ後鳥羽の隠岐配流の物語を、能に仕立て上げていく。それが「隠岐院(おきのいん)」別名「隠岐物狂(おきものぐるい)」と称される作品である。だが世阿弥の天才を以てしても、この能は後鳥羽の歌の芸術的高みには、遠く及ばなかった。彼は後鳥羽の歌を生かし切れなかった。「隠岐院」は失敗作として、余り演能されることなく、廃れていった。もう現行曲ではなく廃曲である。だが詞章の一部が今に伝えられ、乱曲として残っている。
さてもこの島に 渡らせたまひて
海士(あま)の郡 苅田(かりた)の郷と云ふ所に
御座を構へたりければ
ただ海士人の住家(すみか)に異ならず
昔は蟠洞(はんとう) 紫山(しざん)の裏にして
春秋を送り迎へて 楽しみ盡くることなし
今は苫屋(とまや)の庇(ひさし) 蘆垣(あしがき)の月洩り
風もたまらねば 晝も辛し 夜も憂(う)し
女御更衣の その拝所もなく
月卿雲客の 拝趨(はいす)もなし
ただ懐旧の御涙に 睡(まどろ)ませ給ふ夜半(よわ)もなければ
この波ただ此処(ここ)もとに 立ち来る心地して
須磨の浦の昔まで 思し召し出(いだ)さる
乱曲(隠岐院)